No.9ベストアンサー
- 回答日時:
朝鮮
李氏朝鮮の王朝は、明確に「鎖国政策」を取っていました。
朝鮮が開国政策に転じるのは1876年に明治日本と日朝修好条規を結んでからです。この条約は西洋的な条文をもったもので、それまでのアジア的秩序から挑戦が脱する=開国政策に転じた、とされたわけです。
中国
当時は清朝の時代ですが、清朝は明朝からの「海禁」政策を継続していました。
中国は大陸に長い国境をもち、古くからシルクロード貿易などを行っていたので「隣国などと陸路での貿易を禁止するのは不可能」だったので、海上貿易と西洋の布教だけを禁止する目的で「下海通蕃の禁(海を下ってエビス(蕃)と通じる)」政策を取っていたのです。
つまり清朝・李朝・江戸幕府はすべて「西洋列強に対して基本的に貿易も許可しないし、布教活動なんて絶対に許さない→鎖国政策」を行っていたわけです。
日本と朝鮮は国が大きくなく、また港や国境を管理しやすかったので、鎖国政策はほぼ完ぺきに機能しましたが、清朝はそうはいきませんでした。
たとえばアヘン戦争は1840年に起きており、これ以前からイギリス政府はインド産のアヘンを清国内に輸出していたわけですが、これは当時清朝がヨーロッパ諸国に唯一広東港だけ貿易を許可していて、19世紀のインドや東南アジアは事実上イギリスの支配下だったので、広東港での貿易もイギリスの独占状態にあったわけです。
これらの抜け道は東南アジアからの陸路経由もたくさんあり、その結果清朝は18世紀後半から西洋列強、特にイギリスに浸食され続け、アヘン戦争に至ったわけです。
また、同時期インド人や中国人も西洋に出稼ぎに出ることが本格化し始め、これらの労働者はクーリー(苦力:coolie)とよばれていました。アヘン戦争後は香港割譲などを得て、中国から労働者の流出と西洋列強の貿易が止まらなくなり、結果清朝弱体化が加速していったのです。
早速のご回答ありがとうございます。
<朝鮮が開国政策に転じるのは1876年に>なのですね。
<清朝は明朝からの「海禁」政策を>ですね。
<清朝・李朝・江戸幕府はすべて>なのですね。
No.8
- 回答日時:
昔の授業では、「江戸時代日本は鎖国をしていた」と習いましたが、現在では、「江戸時代に日本は鎖国などをしていなかったと」いう考えが一般的になりつつあります。
2017年の社会科学習指導要領の改定案で、「鎖国」を教科書から外し、「幕府の対外政策」といった別の言葉に置き換えることが検討されました。そもそも「鎖国」とは、海外への窓口が完全に閉ざされた状態のことをいうのですが、それは江戸時代の実態とはまた違うものでした。確かに、幕府は日本人の海外渡航と帰国を禁止し、スペイン・ポルトガル船の来航を禁じるなどの政策を行ってはいました。しかし、それでも東アジアとは国際関係を結んでいましたし、松前藩は蝦夷、対馬藩は朝鮮、薩摩藩は琉球王国と、それぞれ藩レベルで窓口を立てて、交易を行っているのです。
それらに加えて、長崎が、幕府に許可された特別な都市として、中国とオランダと交易をしていたのです。 つまり日本にはこの時点で四つの窓口が世界に開かれていたことになります。 それらの交易の全体を統括していたのが、幕府でした。つまり幕府は5つの国と外交を続けていたということになります。 特に朝鮮とは非常に活発な交易を行っており、朝鮮半島のプサンには「倭館」といわれる貿易の取引所まで設置されていたのです。
上記の通り、朝鮮も日本とは頻繁に交流していました。 日本以外にも朝鮮は中国、琉球王国とも交流していました。 しかし、朝鮮の欧米人に対する反発は非常に強く、欧米とは鎖国状態でした。
江戸時代の前期は中国の明王朝末期と重なります。 明王朝は当初、海禁政策と言う、朝貢以外の貿易を禁じる鎖国政策をとっていましたが、1576年に密貿易の拠点・漳州月港が開港されたことをきっかけにして日本を除く各地へ出航が可能になり、民間貿易は完全にオープンになりました。 明王朝が倒れて清王朝が出来ましたが、清朝の前期には広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許しました。 特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出しました。 江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はありませんでしたが、長崎貿易は許されていました。 欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていました。
早速のご回答ありがとうございました。
<明王朝は当初、海禁政策と言う、朝貢以外の貿易を禁じる鎖国政策>なのですね。
<朝鮮の欧米人に対する反発は非常に強く、欧米とは鎖国状態でした。>なのですね。
No.6
- 回答日時:
当時の中国は清朝、朝鮮は李氏朝鮮ですね
清朝に関しては外交も貿易も、戦争も行っていて、制限やわだかまりはあれども色々やっていた、と考えられます
李氏朝鮮に関してはアジアとの交流(清朝の属国ですからね)はあっても、西欧諸国とはあまり積極的に交流していなかったようです、キリスト教の弾圧など、実質鎖国に近い状態の時期もあったでしょうけど、鎖国とはまた違う物だと思います
No.4
- 回答日時:
清朝に於いては基本的には海禁政策を取っていた
特に初期には、明朝の残存勢力が台湾を根拠にしたこともあり
それなりに厳しく行われて居た様子
でも、中国の場合中央の政策が末端まで厳密に行き渡ることの方が難しくて
実際には色々交流逢った様子
皇帝の代替わりが進むにつれて政策にも変化があったし
康熙帝などはイタリア人の画家に自身や皇室メンバーの肖像画を書かせていたりするしね
日本の鎖国でも朝鮮やオランダは例外されているように
全般的な方針と個別の部分では差があったようだし
大きな方針としては海外との交流を遮る方針だったと言うことは言える
早速のご回答ありがとうございます。
まず<全般的な方針と個別の部分では差があった>ですね。
<清朝に於いては基本的には海禁政策を取っていた>のですね。
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