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また四隅突出型古墳と、ピラミッド似ていませんか?

質問者からの補足コメント

  • 弥生時代の測量は、一歩は、片足の長さでしたか?
    中国では一歩は、両足の長さだったようです。
    魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は直径100歩と書いてありますが、魏の使者は墓を見たわけではありません。倭人からの聞き伝えを記載しているので、一歩60センチくらいだったのではなかろうか。。

    西谷の丘の3号墓の大きさが縦横55メートル、40メートル。対角線が68メートルなのですが。

      補足日時:2021/08/15 07:09

A 回答 (3件)

卑弥呼が具体的に誰か。


邪馬台国の本当の位置がどこか。
これらで百家迷走。

真相は不明。決着がいまだにつかぬ。
トンチンカン説続出。
真実解明者はいないのか。

魏志倭人伝編者は日本行かず、昔行った使者の昔話を聞いて
纏めたと聞く。

ならば、どこまであてになるやら。
女王といっても天皇にあらず。祭主の可能性あり。
時代的に崇神天皇に当てて古事記に従えるか。
日本書紀の言うBC97~BC30
はどこまであてになるか。当時の施政者の誇大改竄かもね。
古事記の言う崇神崩御年は258か318に当てるかは学者の間で
意見分かれる。

魏志倭人伝の記事では239年にあった国というが、
大和朝廷と同じか異なる組織かは
学者の間で論争続くね。

質問者さんは、どの説なら満足かな。
安本美典的論派や古田武彦的諭派が迷走しているね。
百家鳴争=百家迷走でどれを信じれば史実かの判断決着は無理そうね。

女王とは
後世の斎王に当たる役職
の可能性ないかなあ。

そういう説に賛成者いないかなあ。
邪馬台国が大和朝廷なら理想だが、これに同意するかどうかは
質問者さんの度量か。
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四隅突出型だったかどうかは、分かりませんね。



魏志倭人伝の記述については、100歩は魏使の実測だった可能性が高いと思います。むしろそれが卑弥呼の塚だったのかどうかのほうが、信ぴょう性としては低くなります。
神社というのは小さな山(丘)の上に作られていたりすることが多いです。これが昔からの日本人の信仰を引き継いだものですので、山(丘)の上に祠のようなものを建てて神格化した『卑弥呼』を祀っていた可能性はあります。これが誤訳されて、その山(丘)が卑弥呼の塚で、径100歩あまりの大きさと書かれているのかもしれません。

というのも、径100歩の記事は2度目の魏使の張政の記録です。彼は末廬國から南東に佐賀平野に抜けて、吉野ヶ里遺跡に来たことは間違いないでしょう。吉野ヶ里遺跡内には、それっぽい小山(丘)があって大きさも100歩と記述されるに丁度くらいなのですが、卑弥呼の塚ではないです。
ちなみに、張政が来る数年前に卑弥呼は亡くなっていますので、彼が卑弥呼の死を見てたり、その後のごたごたを見てたりしたのではありません。張政が倭に使わされる前に、倭側から使いが行っていますが、これも台与が送った使いで、つまりすでに彼女が女王となっていたものです。

このあたり、詳しくは(詳しくはないかもw)こちらに書いていますので、興味があれば一読ください。
『魏志倭人伝 解説』
https://www.amazon.co.jp/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%8 …
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この回答へのお礼

使者は、邪馬台国にも自らの足で行ったわけではないので、卑弥呼に会ったこともなければ、墓も見せて貰えないでしょうね。全て倭人からの報告です。

お礼日時:2021/08/15 08:07

べつに…。

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