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江戸幕府は、政治の中心地は江戸に、経済は大阪に分けていました。

なぜ、経済の中心地も江戸へ引っ張ってこなかったのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

米相場を江戸に持ってくる>せめて自前の米生産地を作る。

の発想からのプランの一つが今の千葉県の印旛沼開拓。これ、八代将軍吉宗の時、田沼意次の時、水野忠邦の天保の改革の時と、つごう3回、国家規模の大事業として取り組んでいますが、どれも挫折。結局、明治維新からかなりの年月をかけてようやく形になりました。
この例から判るように、プランを立てるのは簡単でも、いざやるとなると、膨大な予算や年月が必要です。
 当時の幕府では、大阪にかわり、江戸を経済の中心に案は、難しかったでしょう。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
後年、米相場を江戸に持ってくる、という願望・プランはあったのですね。
しかし、江戸の初期ではそれは難しくて、案も無かったのでしょうね。

お礼日時:2021/09/12 17:51

「米相場を江戸に持ってくる」と江戸が経済の中心になったであろうことは、間違いないです。

分かりやすく言えば、今でも世界各国の証券市場が有る場所が大都市であるのと同じ、アメリカは政治の中心がワシントンDCで、経済の中心は株式相場のあるNYですね。

さて、そうなると問題は「なんで江戸幕府は米相場を江戸に持ってこなかったのか?」というのが事の真相になるといえます。

その答えは「当時の物流では江戸に米を集めることはできても、江戸から米を各地に配ることができなかった」からです。

当時の物流、特に米などの農産物を大量に運ぼうとすると船しか選択がなかったのですが、日本は鎖国政策で帆柱を1本に制限していたので、複雑な操船は不可能でした。

なので九州・四国を含む瀬戸内海はどちらにもそれなりに移動できたのに対して、大坂-江戸間、さらには東北や日本海側は海流に沿った移動しかできなったのです。特に浜松から静岡沖は遠州灘として知られていて、黒潮の潮流が強い上に、悪天候時に避難できる港が皆無なので、潮流に逆らって船を大坂方面に進ませることはできなかったのです。

なので、大坂に米などの商品が集まっても、それを九州や四国などに再分配することは可能なので、米相場やその他の市場が大坂に作られ、市場経済がドンドン発展することが可能であったわけです。

しかし江戸は最大の消費地でありながら、物流の拠点とするには不向きで大坂から江戸に消費財を集めることは可能でも、江戸に集まった商品や江戸近辺で作られた物を大坂に持って行くことはほぼ不可能でした。

これが大坂に経済拠点が作られた最大の理由ですが、避けて通れない問題がもう一つあります。それは「京都を見張ること」です。

鎌倉幕府は公家たちの動向を常に見張っていて、六波羅探題などを作りました。室町幕府が京都の室町に出来たのは、武家と公家の権力を調整しようとしたからです。そしてそのための資金が明との勘合貿易でした。

結局室町幕府はこの権力争いに調整がつかず、応仁の乱やその後の戦国時代になってしまいます。戦国時代とは平安・鎌倉時代からずっと続いてきた公家と武家の権力争いでもあったのです。

だから徳川家康は江戸に幕府を構えると、京都の公家勢力、天皇の地位を徹底的に削ぐ製作を実行します。天皇の最も有力な武器は「権威」で、天皇が授ける官位が欲しいので、天皇や公家の権力強化に参加する武家などもたくさんいたし、これが建武の親政や幕末動乱のきっかけになるわけです。

だから徳川幕府としては「京都の権威を抑え込む」ことが重要で、ならば「地の利のいい大坂から江戸に経済拠点を移しても、公家たちが大坂を盛り上げると結局天皇の権力強化につながってしまう。だったら、大坂の経済力はそのままで幕府が管理したほうがよい」と言う判断があったのです。

江戸の物流が大坂なみに便利だったら、江戸に市場を移して、大坂を徹底的に潰す方法もあったのでしょうが、鎖国政策で船の技術を限定した結果、大坂で市場を維持するしか方法が無かったのです。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございました。
<遠州灘>もあり東回り航路もまだ整備されていないので、中心地(センター)を大阪にし、<大坂で市場を維持するしか方法が無かったのです。>ね。

お礼日時:2021/09/12 13:00

西日本の生産物は、瀬戸内海経由で大阪に集まって、そこで取引されてました。

お金を浪費する身分の高い武士用に、江戸までの輸送費をかけても高く売れるもの。これが東下りの品。それ以外の下らない品は、大阪の商人の手でなんとか関西で消費されるように。
瀬戸内海という流通、米の生産地・西日本との利便性から、大阪が経済の中心として発展しました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
経済の面で西高東低だったのですね。

お礼日時:2021/09/12 12:45

> 江戸幕府は、政治の中心地は江戸に、経済は大阪に分けていました。



そうしようという意図や制度的なものはないのではないでしょうか。

人口で言っても、1650年頃でも、京都43万人、江戸43万人、大坂22万人、100年後の1750年頃には、江戸122万人、大坂41万人、京都37万人という推定があるようですから、地域での消費高という面では江戸が大坂を上回っていたのでしょう。生産高ではたぶん江戸はたいしたことがないし、大坂や京都にしても大きな生産力をもっていたということはないでしょう。
現在でも、東京や兜町、特別区23区の生産力や消費の多さが最大の要因になっているのではないでしょう。 たぶん、金融取引や本社機能で日本だけでなく世界各地の組織を動かしていることが、東京をそれなりのものとしているのでしょう。国会や中央官庁が東京にあることも、本社機能の東京集中をもたらしているのかもしれませんが、金融や証券・相場取引の機関は、国会や中央官庁の所在地とは関係ないところでも良さそうです。

たぶん、現実に多額の資金を運用できるもので経済センスの良い人物が大坂に何人もいたという偶然の要素も大きいのだと思います。
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6 …
https://money-bu-jpx.com/news/article027381/
https://money-bu-jpx.com/news/article027378/
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<現実に多額の資金を運用できるもので経済センスの良い人物が大坂に何人もいたという偶然の要素も大きい。のですね。
歴氏的な業績(有利さ)が続いていたのすね。

お礼日時:2021/09/12 12:44

海運の関係で、江戸が劣っていたからです。

1672年に江戸の商人河村瑞賢が西廻海運を確立したといっても瀬戸内海を擁する上方とは物流面で比較に成らないハンディが江戸にはあったということなのです。江戸時代は、鉄道も自動車もありません。陸路での物流では勝負にならんわけです。それだけ海運・水運が重要だったのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
西廻り航路が活発で、大阪が重きをなしていたのですね。

お礼日時:2021/09/12 12:41

その当時はまだ大陸との貿易が船であり、太平洋よりは大阪、神戸を中心とした瀬戸内海ルート、福井、福岡といった日本海ルートが主であったため。

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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
流通機構(商業の)は大阪が中心だった、ということですね。

お礼日時:2021/09/11 18:20

江戸幕府ができた時点で、江戸の街はさほど発展していなかった。



そこで江戸の街づくりが行なわれるわけだが、そこで何より優先されたのは防御。譜代の家臣を江戸の街に住まわせて守りの要とした。

また土地が無かったので、外様大名に命じて、今の銀座や日本橋あたりを干拓して土地を作らせ、そこに外様大名を住まわせた。そのあたりで初期の江戸の街は手一杯に。

また江戸幕府の初期は、商業というものが、さほど重視されていなかった。年貢は米だし、石高も米で評価。貨幣は江戸で金貨、大阪で銀貨が使われていたが、全国的には米が貨幣の代わりだったと言っても良い。

そんな状況から、江戸中期に田沼意次あたりから商業工業が重視され始める。このあたりになると江戸幕府は大阪の市場を統制しようとし始める。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
<江戸幕府の初期は、商業というものが、さほど重視されていなかった。>ですね。
ただし、江戸幕府は米本位の経済ですから、足下の江戸に米相場市場を作っておくのが良いのでは、と思いますが。

お礼日時:2021/09/11 18:18

推論ですが



分けていたのではなく、政治は江戸の物で、他の町は持っていなかった、と考えたほうが良いんじゃないですかね

また、江戸は定住者が50万人、参勤交代などで入れ替わりながら住む武士が50万人の100万人都市ですから、それだけの人が住む町で経済が弱かったとは考えられません、普通に経済も強かったと思います

ただ、大阪は近隣に京都を中心に人口の多い町が多く、瀬戸内海を使った海運貿易等もしやすかったですから、立地的に経済活動に向いていた
そのため必然的にそういう都市形成がなされた、と考えるのが自然なのではないか、という気がします
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございます。
江戸はそれ相応な経済活動を持っていたが、そのうえに政治活動が付け加わった、ということですね。
ただし、大阪は経済活動が目立ちますね。

お礼日時:2021/09/11 18:10

徳川幕府が一応は日本を支配はしてたけど、大阪には


徳川に自分たちの太閤さん、豊臣家を滅ぼされたという
恨みを持っていたんです

そんな大阪人を無理に江戸に連れてきたら、経済が
発展するどころか、江戸人や幕府と対立して混乱が
起きます

あれから何百年たったでしょうか。大阪人には未だに
東京への反抗心が残っています

大阪が商人の街として発展したのは、お上への反発心が
エネルギーだった面もあります

江戸は日本を支配しなければいけないので、商人より
武士を優先するしかなかったんです
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
太閤はんの遺徳ですか。
しかし、利に聡い大阪商人は遺徳を大事に持っているでしょうか?

お礼日時:2021/09/11 18:05

西洋の諺「卵を同じバスケットに入れてはならない」を真似たのです。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
危険分散ですか。

お礼日時:2021/09/11 18:00

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