時間とは何か。渡辺慧によれば、四つの分類をしている。「知るということ」〔東京大学出版会〕の
115p。しかし、一般的な解釈からすれば、どのような議論が、行われているのでしょうか。

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A 回答 (5件)

わからんさ


凡人には無理
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未だにBestAnswerが揃わず、いつしか「時間」…

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渡辺は古い時間しか読んでいません。

彼は物理学者にしては珍しく物理的時間の背後に主体的な時間の理解が必要だということを理解しています。

時間の一般的な捉え方を示しておきます。
日常的な時間と物理的な時間がまず区別されると思います。
物理的な時間は日常的な時間が理解されていないと理解不能です。
この意味で日常的な時間は物理的時間の理解に先立ちます。
どのような点が重要なのでしょうか。
それは私たちが楽しい時は時間の経つのが早いとかつまらぬ会議は時間の経つのが遅いとか時間を比較のうちに捉えていることです。
心理的とか物理的とかは重要ではありません。まさに比較のうちに客観的尺度としての時間を捉えていることが重要なのです。
物理的な一直線的時間もこうした尺度としての時間の応用として可能なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ところで、養老氏の唯脳論によれば、時間は聴覚系の結果であり、空間は視覚系の結果であると申しています。このことについてどう思われますか。

お礼日時:2001/09/26 21:59

面白そうなご質問ですね



ゆっくりご回答を待つことにします
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Q【学問って以外に数は少ないですが】慧学(えいがく)?とはどういう学問なのですか? 智慧の慧学。

【学問って以外に数は少ないですが】慧学(えいがく)?とはどういう学問なのですか?

智慧の慧学。

慧学とは智慧。

ちえ。

智慧と知恵の違いって何ですか?

ちえの学問ってピンと来ません。

Aベストアンサー

仏教を修行するに際して必ず学ぶべき最も基本の修行法の事です。
学問では無く修行です。

慧学は戒学(かいがく),定学(じようがく),慧学(えがく)の3つ。

戒は戒律のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。
定は心の動きを静め,精神を統一すること,
慧は理性により道理をありのままに悟ること。


身口意(しんくい)の三悪
○身における3つの行為
・殺生(せっしょう):人間や生物の生命を奪うこと
・偸盗(ちゅうとう):盗むこと
・邪淫(じゃいん)--:邪悪な性行為
○口における4つの行為
・妄語(もうご)----:ウソをつくこと
・綺語(きご)------:不当に飾りたてたことばを用いること
・悪口(あっく)----:悪口を言うこと
・両舌(りょうぜつ):二枚舌を使うこと
○意における3つの行為
・貪欲(とんよく)--:むさぼり欲しがること
・瞋恚(しんに)----:怒り憤ること
・愚癡(ぐち)------:真理に暗くおろかであること

Qぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

  ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 あるいは

  ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。

 これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。

     *


 作業仮説です。

 (あ) 始原的な自己表出について。

  (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?

   ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ
   ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い

 (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?
 
 (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。

 (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。

 (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて 

   (ω) 論理的な意味連絡

 をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。

 (か) まとめて次のようです。

   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 について見れば:
    
     ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。
      つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。
      ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。

     ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:

       ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。
       ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。
       ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)

 (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。

 (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。
 ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。

 (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。

 (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?


     *


 参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。

 1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。

    A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。

 2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。

 3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。

 4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。

 5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。

 6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。

 7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?

  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。
  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.

  ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。
  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.

 8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。

 9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。
 こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。

 10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。
 
 11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。

    *

 果たしていかに?
 自由なご批判をあおぎます。

  ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

 あるいは

  ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。

 これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。

     *


 作業仮説です。

 (あ) 始原的な自己表出について。

  (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?

   ( a-...続きを読む

Aベストアンサー

言語学については まったくの素人です。ここでの このような質問と答えは 大変勉強になり お礼申し上げます。以下感想です。

少し調査をしましたところ 主語省略の日本語について  三上章、金谷武洋の流れをくむ 岡智之先生が 主語省略ではなく 主語不必要の立場から
ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf
で 日本語について述べておられます。日本語は 空間について述べていくかたちになっており それは 主語を必要としない 主題についての文となる という説明のようです。別の説明では 主題は述語論理に対応し、主語は主語論理に対応しています。述語論理は 言葉以前のイメージ的同一性を重視する論理であって、より基底的、より根底的、無意識的である と説明されてます。 Bragelonneさんの聖なる甘えに通じるのではないか と思います。ただし言語学会では まだ少数派のようです。

以下は私の推測です。
人類は自然環境(空間)の中の群れる生き物として発展してきたと思うのです。どのような環境にあって生きて行くことができるかが重要であって言葉もそれを反映して来たのではないか と思うのです。だから人類発祥以来 述語論理(主題)の言葉が続いてきているとおもうのです。ところが 何らかの理由で 群れから 飛び出す人類もいたわけです。 彼ら(個)は 群れ人類よりは 厳しい自然環境、人間環境に対して 立ち向かわざるをえなかったのではないか、と思います。生きて行く上で 個の役割が重要であって 言葉としては個反映して 主語論理になって来たのではないか とおもうのです。主語論理は 英仏独語が突出しているようですが これらが最初の純粋な主語論理語としますと 述語論理から分岐した時点は 以外と人類史のなかの今に近い過去かもしれません。数多くの言語の歴史的、考古学的、民族史的 なつながりが明らかになれば おもしろいと思います

以上失礼しました。

言語学については まったくの素人です。ここでの このような質問と答えは 大変勉強になり お礼申し上げます。以下感想です。

少し調査をしましたところ 主語省略の日本語について  三上章、金谷武洋の流れをくむ 岡智之先生が 主語省略ではなく 主語不必要の立場から
ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf
で 日本語について述べておられます。日本語は 空間について述べていくかたちになっており それは 主語を必要としない 主題についての文となる という説明のよう...続きを読む

Q聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。

 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。

 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。





 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。


 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。

 ▲ (創世記1:1)
 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001

 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
 ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)
 ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)

 ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.

 ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。

 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。

   ○ bara'
 http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV

 (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。

 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。

 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。

 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。

 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。

 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。

 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。

 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
  
 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。

 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。

 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。

 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。



 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。

 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観で...続きを読む

Aベストアンサー

(15)まで。
そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
絶対というものは、例えば4次元の下には三次元が∞に重ねられるように、様々な表現が可能なのだろうと思う。自由度の問題。それを空と表現するのは、個人的にはよく理解できるし同意もできるが、それが空の本意かどうかについては私は言及できない。つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。

(16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々についての解釈が可能であるという点については同意できます。様々な論争や葛藤が消滅すると思われます。

ただし、この論法であると、神にとっての神というものを想起せざるを得ず、そこには人間の引く補助線や天啓は到達できないという事になります。三次元から五次元には単純思考では飛躍できないようなものです。つまり、神の神を真の絶対とした場合、それは、絶対に知り得ないということになるのではないでしょうか。分かるか分からないかも、分からない、=完全に分からない、ということです。
ここに至って初めて、言葉が光であるというヨハネの言に、近い相が現れると思います。
つまり、想定された神にとっても、言葉(人間の言葉ではない)は神であるということです。

(15)まで。
そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
絶対というものは、例えば4次元の下には三次元が∞に重ねられるように、様々な表現が可能なのだろうと思う。自由度の問題。それを空と表現するのは、個人的にはよく理解できるし同意もできるが、それが空の本意かどうかについては私は言及できない。つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。

(16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々につ...続きを読む

Q老子は 無神論〔なる信仰〕か?

 福永光司が まとめとして 書いています。
 ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~
 (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは 

 (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し 

 (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり
 
 (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。

 (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。

 (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。

 (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

 G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕

 (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。

 (5) そのとき問題は
 ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか
 ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。

 (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における

   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。

  G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕

 (7) 言いかえると あと一つ問題なのは
 ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか
 ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。
 とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。


 以上を問います。

 (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。

 (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。

 (10) なお親鸞の場合には 

   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。

 ここまでを問います。

 福永光司が まとめとして 書いています。
 ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~
 (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは 

 (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し 

 (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり
 
 (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もし...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。


~~~~~~
 G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕
~~~~~~
類型的には、そうなるのであろう、と思います。
老荘の《道》は、bragelonneさんの用語で言うところの《神》と同種の概念なので。
その正体が何だか分からない、どのようなものであるか、(生成の)メカニズムもわからない、だからこそ《道》とひとまず名づけているにすぎないので。

《道》(についての『老子』内の記述)は、直観や直覚というよりは、多分に思弁的な産物であろうかと思いますけれども。

階層的(?)には、
 道 → 天・地 → 万物(or現象的存在)
となるのでしょう。
そして、
天は擬人化されて、天帝や上帝と言った擬人的な神となる。

まぁ「人為不自然」となるのでしょうね。
出典は『荀子』(儒家)だと思いますけれども、
 「人」 + 「為」 = 「偽」
の方がいいのかもしれませんけれども。
『荀子』の性悪に出てくる「偽」は、falseの意味ではなく、行為・deedの意味だそうで、原意からは外れますが、
この図式はわかりやすいと思います。


~~~~~~
つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。
~~~~~~
《ハカラヒ》ですよ。
そして、その《ハカラヒ》を捨てろ、と言っている。
この《ハカラヒ》を捨てろ(と言うこと)すらも、《ハカラヒ》です。



~~~~~~
 (7) 言いかえると あと一つ問題なのは
 ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか
~~~~~~
私の理解ですと、
『荘子』ではこの面が全面に出てきますけれども、『老子』ではこの面は強くない、
ですよ。
『論語』もそうですけれども、
『老子』は、政治をする側の人間、為政者を対象にして書かれた著作であり、一般向けの書ではない。治世術ではあるけれど、《人間》の書でもなければ、《人間》の哲学でもない。
『老子』は、草の根を起源にする『荘子』とは立場がかなり異なります。

『老子』の中には、「民を分断支配し、さらに民に文明の利器や情報を与えず、おバカにしちゃえ。そうすれば、おバカな民は今の状態を幸せだと考え、国はうまく治まる(民のお腹を満たせさえすれば、民はお上に逆らったりしない。現代中国もこれと何ら変わっていない)」といった《小国寡民》といった考えが出てくるでしょう。
「聖人は不仁、百姓をもって芻狗(すうく)と為す」(第5章)
ともあります。
http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/Tao-jigen-Lao-tzu-5.htm

聖人、つまり理想的な為政者は、民を可愛がってはいけない。情けなんかをかけてはいけない。そして、用済みになれば、芻狗のごとく捨てる(べきである)、ポイ捨てする。
天地がそうなんだから、為政者もこれに倣ってそうすべきだ、と説くんでげす。

ですから、
『老子』を《人間》の書なんて考えてはいけない。


~~~~~
 ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。
~~~~~
《道人一如》といった面が前面に出てくるのも、『荘子』ですよ。
書物『荘子』から書物『老子』を見ている。『老子』を『荘子』の文脈で理解・解釈しようとしている。
『荘子』から『老子』を見てもいけないし、『老子』から『荘子』を見てもいけないんでげすよ。
むしろ、
『老子』と『荘子』は、思想的連絡性が何の繋がりもない別な書と考えた方がいいんでげすよ。

こんにちは。


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 G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然〔を超えて〕
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類型的には、そうなるのであろう、と思います。
老荘の《道》は、bragelonneさんの用語で言うところの《神》と同種の概念なので。
その正体が何だか分からない、どのようなものであるか、(生成の)メカニズムもわからない、だからこそ《道》とひとまず名づけているにすぎないので。

《道》(についての『老子』内の記述)は、直観や直覚というよりは...続きを読む

Q〔存在性のアッピール力(力)〕ということに感慨することはありませんか?

〔存在性のアッピール力(力)〕ということに感慨することはありませんか?

 1. このアッピール力(力)や存在性、或いは説得力(りょく)や人を動かす力(ちから)についてお考えになること、感じることをどうかお話ください。

 2. このアッピール力(力)や存在性、或いは説得力(りょく)や人を動かす力(ちから)の本質とはどんなものでしょうか?
 ◆同じ事を同じ言葉で言っているのにAさんとBさんの説得力や存在性が違ことを経験します。
  それが文字という単なる記号でしかないものであっても、Aさんの力とBの力が違う。
  AさんもBさんも私が知らなくても違う。
  これを言霊(ことだま)で説明してしまうともう何もいえませんが。

 類似質問
(1) 実物と模造品について http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6246869.html
(2) 誠意のある言葉はあるのか? http://questionbox.jp.msn.com/qa6254107.html
(3) 厳密性と分りやすさ http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6221842.html

類似場面など
(4) 百聞は一見に如しかず
(5) 聖典などの説得性、迫力
(6) 原典の力強さ、ファクター力(力)
(7) その人が本当に根っこまでいって、確信しているときのその人の存在とことば(同じことばや表現でありながら力が違う)の説得性

〔存在性のアッピール力(力)〕ということに感慨することはありませんか?

 1. このアッピール力(力)や存在性、或いは説得力(りょく)や人を動かす力(ちから)についてお考えになること、感じることをどうかお話ください。

 2. このアッピール力(力)や存在性、或いは説得力(りょく)や人を動かす力(ちから)の本質とはどんなものでしょうか?
 ◆同じ事を同じ言葉で言っているのにAさんとBさんの説得力や存在性が違ことを経験します。
  それが文字という単なる記号でしかないものであっても、...続きを読む

Aベストアンサー

お礼を拝見致しました。有難うございます。

>本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか

はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。

「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。

──こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語61)

 少し注意して、猟人の語るところを聞くなら、伝説に知性の不足しか見えないような眼が、いかに洞ろなものかは、すぐ解るだろう。この伝説に登場する猟人は、白鹿は神なりという伝説を、まことか嘘かと、誰の力も借りず、己の行為によって吟味しているではないか。そして、遂に彼は「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。漠然と感じていた白鹿の神への畏れが、懸命な吟味により、猟を止めばやと思うほどはっきりした形を取った、と彼は語るのである。だが、彼は猟は止めない。日常生活の合理性は、自分の宗教的経験に一向抵触するところがないという、極く当り前な理由によると見て少しも差支えないでしょう。

 同時に、進んでこうも考えられよう。この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。そういう次第なら、遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。

 すると、この猟人が、本当に衆にすぐれていた所以は、一ぱいに働いていた彼の個性の力にあったと考えざるを得なくなります。だが、彼の個性の力と此処で言うのには、自己を主張するという現代風の意味はない。何度も繰り返すようだが、彼は自然の懐に、しっかりと抱かれて生きていた。その充実感を、己の裡に感じ取っていたという、ただそれだけの事を言うのでして、これが素朴な人々の尋常な生き方であった事が、納得いくなら、現代の人々の愛好する自己主張という言葉は、自然との異常な断絶を背景としているのが見えて来るのではないでしょうか。猟人に、自己を主張するというような事が思い附けなかったのも、彼にはその相手がなかったからだ。己れに疎遠な外界との対立を、まるで感じていなかったからだ。言わば、自然全体のうちに、自分は居るのだし、自分全体のうちに自然は在るというのが、彼の生きて行く味わいだったのです。かくの如く、己れを取巻く自然が充分に内面化されている場所は、自己とはかくの如きものと主張する分別の如きが出る幕ではない。そういう言い方も出来ると思う。

 このように言って来れば、彼の個性の自由な働きを支えているのは、想像力と結んだ彼の自然感情である事は、もはや明らかでしょう。彼は、自然がその心をこちらの心へ通わせて来る、というどうしても疑えぬ事実について語るのだが、其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。彼は、言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉にならぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。言わば、実在は彼を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。彼は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず彼自身が驚くような着想によって、実在を語る。どうしてこのような物語が、人から人へと伝えられないわけがありましょうか。──「信ずることと知ること p194-p197 小林秀雄 全作品26」新潮社

お礼を拝見致しました。有難うございます。

>本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか

はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。

「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。

──こういう話があ...続きを読む


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