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司馬遼太郎が飛騨について書いています。

<国としては小さい。江戸期の文献で見ると、石高でいえばわずか四万四千四百六十九石余、人口は七万二千三百二十三人であるにすぎない。>

以下、荒っぽい計算をします。
5高5民として、百姓の米の取り分は2万2千石、百姓は7万人くらい。
1人当たり0.3石です。通常1年に1石を食べるはずですから、百姓は米以外の芋などを0.7石分食べねばならない、という勘定です。

質問は、飛騨の百姓は、コメ1に対し芋2の割合で食べていたことになりますか?

A 回答 (6件)

芋などを0.7石分食べれば帳尻は合いそうですがどこで育てたのでしょう?


田や畑なら高にカウントされますからそれ以外の土地ということになります。ヤミの農地ですね。でも正規の田畑より広く必要ではないですか? もしそんな広々とした農地があればすぐにばれて厳しく罰せられたはずです。それになぜ米を作らなかったのかという疑問も生じます。つまりヤミの農地などなかったのです。
小生、江戸中期以降の年間の農業生産量は高の数値の4~5倍あったと推定しています。お尋ねの飛騨では20万石程度あったでしょう。およそ半分は冬の生産、つまり麦です。これなら年貢を2万石納めても副食を含めて一人1.5石程度の食糧は確保できたでしょう。
『近世庶民の日常食』という本があります(有薗正一郎著 海青社 2007年)。これに明治13年頃の飛騨の穀物生産の概要があります。米30%、麦44%、雑穀26%となっています。江戸中期も同じぐらいの割合だったとすれば米の1.5倍もの麦を作っていたことになります。
米については詳しく書いても麦について書いた歴史家は皆無に近いと思います。そこを研究しないから百姓は貧乏ということになっているのです。江戸時代の農業について書かれは本はわずかです。上記の有薗氏の本は貴重品ですね。
余計なことですが司馬遼太郎は小説家です。歴史家ではないので史実を正確に書いていると思ってはいけません。
ご質問中の、飛騨の高44469石は元禄郷帳(1700年頃)からの引用、人口72323は寛延3年(1750年)のものです。
下にリンクを貼っておきます。ご参考に。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8 …
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
詳細なご説明でした。
米は今でいう正式な・厳格な税金のかかる所得の役割をしていますね。その他の収穫のかなりは、今の脱税所得になるのでしょうね。
<江戸中期以降の年間の農業生産量は高の数値の4~5倍あった>のですね。
<お尋ねの飛騨では20万石程度>なら、まずまずの食糧ですね。
<米については詳しく書いても麦について書いた歴史家は皆無に近い>ですね。

お礼日時:2021/09/17 17:58

>以下、荒っぽい計算をします。


>5公5民として....
1980年代の板倉聖宣さんの説。  便宜上、日本全土で2000万石とします。あと、石高の表裏もナシとします。

税金が1000万国、人口2000万とする。
うち、士工商が10% で100万人。 どんなに頑張っても、米の消費は100万石。

では、税金1000万石のうちの残り900万石はどうなったか?
日本酒などの使用は、大きい割合ではない。鎖国中なので輸出していない。
腐らせるのは意味がない。(需要供給バランスにおいて、米の価格は限りなくゼロになる。それでは経済崩壊し、武士の生活が成立しない。ばかげている。)
結論:農民が、米を買い戻して食べた。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history108.htm


現実には、No.5回答のように表高と内高があって、内高自体もザル。
税金は、表高の50% (麦などは無税)なので、実質30%前後。(10%という説もあり。)


>飛騨の百姓は、コメ1に対し芋2の割合
ガチの統計データだと、1861年において、米47%麦28%雑穀19%甘藷(=薩摩芋)3%、その他3%。
http://hist-geo.jp/img/archive/179_043.pdf
統計データは、要するに全国平均。
飛騨という地方限定の場合、土地柄で麦雑穀は増えるかもしれないけれど、いくら何でも芋50%超えとかはありえないでしょう。

米ばかり食べていたわけではないけれど、芋でおぎなっていたわけではなくで、麦+雑穀。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<とてつもなく大量の米が余ったはずである>ですね。
<結局、それは人口の九十パーセントをしめる農民の口に、最終的には入ったに違いない。>ですね。
ただし、その米が、金のない農民にどうやって流れてきたのか、気になります。

お礼日時:2021/09/19 18:25

ここでいう石高って表高のことであくまで名目。

実際には内高といって表高よりもはるかに多い産量だったはずなんで、コメの比率はもっと高かったと思います。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
<表高のことであくまで名目。>ですね。
<内高>は表面に現れにくいですね。

お礼日時:2021/09/17 18:00

米は換金しやすいですから、肥料や農具の購入費用になり、百姓は麦飯などを食べていた可能性もあります。

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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございます。
換金のため<麦飯>かもしれないのですね。

お礼日時:2021/09/16 23:47

ほんとに荒っぽい計算ですが、平均で言えばそうなります。



でも、平均は「実際」とは異なるので、すべての飛騨の百姓がコメ1:雑穀イモ2を食べていたわけではないです。
百姓には本百姓もいれば小作もいます。
本百姓は取り分が多く、小作はほとんど取り分はなかったでしょう。

さらに、当時のコメは金の代わりなので、取り分を全部食べたら、他のものの買うことができません。
食べずに、物々交換で他の生活物資を手に入れていたはずです。

そう考えると、小作は「水飲み百姓」の言葉通り、コメはおろかイモさえ食べていなかった可能性があります。
一方、本百姓はコメ1イモ2、よりもう少し多くコメを食べていたと考えられます。

割合はともかく、江戸時代の百姓全てがコメを食べていたとは思えません。
一生コメを生産しながら、コメを食べたことなく死んだ百姓も多いでしょう。

まさに家康の治世方針通り、「百姓は生かさぬように、殺さぬように」を実現したのが江戸時代という時代です。
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございました。
百姓にも、本百姓と小作に分けられますね。
<小作は「水飲み百姓」の言葉通り、コメはおろかイモさえ食べていなかった可能性があります。>ね。

お礼日時:2021/09/16 12:12

百姓の米の取り分のうち、さらに生計を賄う為に何割か売っていた筈です。

それが入っていないのでは?
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この回答へのお礼

早速のご解答ありがとうございました。
そうですね、<さらに生計を賄う為に何割か売っていた>分が抜けていましたね。

お礼日時:2021/09/16 12:06

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