【iOS版アプリ】不具合のお知らせ

戦前の歴史教育では源頼朝が義経を死に追いやったのは、義経が安徳天皇の入水、三種の神器の紛失といった朝廷に対する大失態を犯したことに対する懲罰と説明されて、戦後は義経の能力の高さに恐怖又は嫉妬した頼朝の個人的な感情で死に追いやったと説明されますが、歴史学的には戦前の考えの方が理にかなっているのでは?実際義経は後白河法皇から宣旨を受けてるわけですから、義経の失態で源氏の棟梁として頼朝が義経に怒りを向けるのは自然な考えと思います。逆に嫉妬説では理論的な説明はできないのでは?

A 回答 (3件)

歴史は時の政府により、都合の良い様に変えられます。


歴史学者はそれに沿って、説を出します。
明治維新政府が王政復興の掛け声と共に、後醍醐天皇を祭り挙げる
為に、鎌倉、室町、江戸幕府を建立した、それぞれの初代征夷代将軍
を悪人する為にしたことです。
足利尊氏は天皇に逆らった極悪人にされました。

源義経が殺されたのは、兄の源頼朝の公家から武家の世にすると云う、
大きなビジョンを解って、いなかったからです。
解っていないので、後白河法皇の罠にはまり、官位を貰って有頂天に
なり、頼朝追討の詮議まで受けてしまいました。
頼朝には自前の兵力は無いですし、ビジョンの前に、義経の興した
行動は許し難い事ですから、身内を守れなかったのです。

トバッチリを受けたのが、奥州藤原家です、義経を隠待ったとして、
平家を滅ぼした勢いの坂東武者の前には無力でした。
私は、わざと義経を奥州藤原に行かせたと思ってます。
坂東の地を抜けるのは、不可能でしょう。
    • good
    • 0

そもそも質問文にある「戦後」の考えが「戦前の考え」を否定しているわけではありません。

    • good
    • 0

個人的な感情ありきで罰する名目として失態を利用したのではないでしょうか?

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング