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「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があるそうですね。はじめて聞いたときは衝撃を受けました。どういう意味だと思いますか? また(これをぜひ聞いてみたいのですが)この言葉が当てはまる実例ってあるんでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

前他のスレッドでも書きましたが、アフリカの深刻な飢餓の主要な原因は先進国がアフリカを支援したことで起こったのなら、この言葉の通りでしょう。



支援したことで自助努力する力を奪ってしまい、目先の欲に溺れ、持っていた土地を売って、財産なし、仕事なしのにっちもさっちもいかない状態にまでなる。


日本の福祉にしても、「人間として最低限の生活を保障する」と憲法だったかでうたわれている。
まことに人間愛に満ちているように取れる。
しかし、現実は病気のせいにしたりして、生活保護を利用してパチンコ三昧。
何年もそういう甘い生活にどっぷりつかったら、もう社会には戻れないし、社会の厳しい風にふきっさらしにされる経験も積まないので、ちょっとの事でまた音をあげやすくなる。
「お前らは仕事あるだろう 結婚相手もいるだろう こっちはお前らと違って不運続きなんだぞ もっと金出しやがれ」というその人は、国民年金の受給率よりはるかにいい収入を得ている。
(国民年金 月約6万、生活保護月約14万)

そういうわけで手厚い福祉社会が結局、社会生活を営めない若者をどんどん増やして、財政を圧迫していっている。
福祉を受ける側を社会不適合者にしている。
善意なはずなのに。

こういうことを善意で舗装されているって言うんじゃないでしょうか。
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No14です。


あー 違った。


誤 :国民年金の受給率

正 :国民年金の受給額
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老子においては



やり過ぎることを

むしろ諌める.
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『ドイツ語単語/熟語研究』HPより



>Politiker jeder Couleur und in allen Mitgliedstaaten sagen, dass sie etwas fuer die Umwelt tun wollen. Doch mit Worten ist es nicht getan. Es heisst, dass der Weg zur Hoelle mit guten Vorsaetzen gepflastert sei. Jetzt ist der Zeitpunkt gekommen, Vorsaetze durch Taten abzuloesen.
 右翼陣営と左翼陣営を問わず国内のすべての政治家、そして(EU に属する)関係諸国のすべての政治家たちは、口をそろえて環境保護のためになんらかの対策が必要であると言っている。しかし口で言うだけではだめなのだ。「善意の道は地獄への道」ということわざがある。今や「善意」よりも「行動」がなにより必要とされる時がやって来たのだ。
[注]Der Weg zur Hoelle ist mit guten Vorsaetzen gepflastert.「地獄への道は善き意図で敷きつめられている」はことわざです。「やる気があるだけでものごとがうまくいったためしはない」「<やりたいけどできない>は<やりたくない>のと同じ」というような意味で、結局「実行が何より大切だ」ということを言いたいときに使われます。


 どうも原文ではことわざのようですね。それを直訳的に理解したり、曲解した意味が一人歩きしているようですね。
 「かけ声」「スローガン」「綺麗な言葉」。みな善意に満ちあふれていますね。しかしその言葉だけに酔ってしまい、さらには異論を許さぬ状況になり、結局何もしないままで終わってしまうことって、よくありますね。
 日本では「不言実行」と同じような意味でしょうか。そうなると、イメージしていたフレーズとかなり異なりますね(というか、私も曲解した方の意味だと思いこんでいました)。

参考URL:http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/tjk82.html
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おやおや 



結局人は優しさを拒む.

人はいったい何を望む?




上善は水の如し.

 
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shidenさん、こんにちは。



地獄への道がデコボコの悪路であれば、
だれも苦労して好んでその道を行く人は無いでしょう。
そこで、悪魔は、
その道を通りやすくするために、表面上、善意で舗装し、
「この道は天国に通じてますよ!無料高速道路です!」
と「欲」で釣るのです。
欲が深いと、まるで免罪符でももらったかのように、
コロッと騙されるのです。

日本の「うまい話にはトゲがある」ともよく似ていますね。

 この神様を熱心に拝めば、病気がなおりますよ!
 この神社にお賽銭を上げれば、商売繁盛、家内安全。
 この宗教に入れば、天国に行けます。
 この教えを学べは、子孫繁栄します。
 このツボを買えば、御利益があります。

こういったものは全て「悪魔のささやき」で、
この例だと思います。
人間の欲心を巧みに利用します。
仮に、一時的に、そのようになったように思えても、
欲で釣られた者の行き着く先は地獄ということです。
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個人的には「優しさは破滅への道」だと思います。


例えば誰かと同じ境遇や苦しみを共感する者が、ついつい同調しすぎて自らの傷を深める結果となる。その相手は自分と似ているが、まったく同じ人間ではないのに、相手と共有したい、共感したい気持ちを持ちえると相手に対して過剰な期待をしたり、勝手なイメージを持ちやすくなるという同一視が生じます。それが他者をも救いたいという「善意」からきても、似ているがゆえに共倒れしてしまうのならば「地獄への道」でしょう。川で溺れている子供を助けようと自分が溺れるように。

同じものを志す「同志」の姿は美しいが、ひとたび軋轢が生じると「同志」ゆえにそれまでの信頼感の分だけ憎しみが増す危険性を孕んでいます。例えば浅間山荘事件の連合赤軍の連中たちが最後には仲間割れをし同士討ちするという結果もそんなことの一因なのではないでしょうか。これは「偽善」問題と同じことだと思います。

では天国はどのような場所か?地獄が善意で溢れているのならば天国は悪意で溢れているのか?であればなんという皮肉。まあこの世は悪い人が甘い汁を吸い、マジメな人がバカを見るというところですから、この世をあの世が反映しているのであればあながちそうなのかもしえません。天国は思っているより案外たいしたところではないのかも…。

どんな相手にも状況にも安易に心を許さずに、慎重に事を構えていても階段を踏み外すときもある。その隙間につけ込んでくるのが赤ん坊のように泣き叫んでいる誰かの姿なのです。保護者のようについつい心を許してしまう。しかしそれが無力を装った悪魔の化身だったら…。「羊たちの沈黙」のレクター博士が知的で冷静沈着なFBI捜査官クラリスの心の隙間を探しあてたように。悪魔は上手いのです、「舗装」された心を読み解くのが…。悪魔に対し、しくじった自分を自分で許せないでいても「ヒト」であるゆえ、ついついそこから学び取った「優しさ」を身につけてしまう。それは肥大化するたびに「隙」も纏っていく。だから「愛」は隠されているのかもしれない。…募金やボランティアという誰もが承認し納得する「善行」に身を投じる人が必ずしもプライベートな愛に包まれているか?そのような危険を孕む愛や善から逃れるために別の愛の対象に投影させているのではないか?

世界は当然受け取るべきことのようにそれを呑み込みながら要求し続け、そしてウラハラな結論をつきつける。いかに「世界」は愛に対して貪欲かつ飢餓状態なのであるか。「地獄への道」に招かれているのでなくとも、すでにこの世は地獄のようである、と考える私はペシミストでしょうか。
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私は初めて目にしたことばですが、なるほど。

うまいことばですね。
何のことはない、そこらへんの一般家庭や職場においても、まま行われてることじゃないですか。うち、そうでしたから。
「あんたのためを思って」
「あんたに良かれと思って」
「あんたのため」
「あんたのため」

自分のためだろーが!

一見もっともらしいことばで泥道を固めてるんですね。案内されるほうは
「足場の悪い道を私のために固めてくれて・・・」
感謝感謝で突き進む。
「舗装してくれたんで歩きやすいわ~」
と一直線。道の果ては崖っぷち~。

二言目には「あんたのため」って言う人間には用心したほうがいいですね。何せ言ってる本人自身、自分のことばを信じ込んでること、よくありますから。
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参考に


地上の楽園を作ろうというスローガンが北朝鮮への帰国事業だったですね。
実際は、現在に至るまで地獄の蛸壺ですね。北朝鮮だけではないですね、マルクス思想が結果的に共産圏社会で億をこえる人間を粛清したのですから、本当の
悪魔というのは、実行した人間たちを思想であやった
だけで、大きな仕事をしてますね。ニチェーにかぶれたヒットラーなども、小悪魔ですがニチェーやマルクスにはかなわないですね。いまでも、神も仏もない、有るのは今だけだから楽しめばよいなどという、耳障りのよい思想や話の先には、必ず地獄がまっているんですね。それから悪魔がよく使う道具は「失望」に引っ掛けて地獄に引き込むフックですね。これでみんなやられてますね。若者の集団自殺は、失望が多いでしょう。行き先は地獄です。
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 「いちばんの悪をなすのは、悪人ではなく、無知な善人だ」ということばを、どこかで読んだことがあります。

物事を善意で行なっている(と自分では思っている)人は、それで満足してしまって、その行動の適否までよく考えない。自分の行動を反省しない。結果として、人に迷惑をかけたり、人を傷つけていることが多々ある、ということではないかと思います。いわゆる、押し付けの善意ってやつですよ。そして結果的に悪を行ったことにしかならないので、地獄への片道切符、というわけです。
 善意を否定しはしません。足りないくらいだと思っています。でも善意と一緒に行動する時、人は無神経になりやすいのではないか。常識や規範が、見えにくくなるんじゃないか。なんたって善意でしてるんだから、なにやったっていいことに決ってる、と思ってしまうのが人間じゃないか。このことばは、そういう意味だと私は思います。
 具体的には、被災地へ入ったボランティア(のごく一部)が、無知から救難活動を妨害したり、夜間に騒いだりとかいうことがそれに当たるのではないでしょうか。
 少し違うかもしれないけど、私の体験です。学生時代、私は心身に障害のある子供の相手をするといったようなサークルに参加していました。ある日、脳性麻痺の人が、付き添いの人と車椅子で部室にやってきました。そして、自分たちの施設が設備も充分でなく、介助員も足りていない、外出もままならない、資金のことはいわない、せめて一定の期間、恒常的に介助に来てくれないか、というのです。ところが、その時間は、学生であった私たちにも、そう簡単に作ることができないほど重いものでした。その人は、回らない舌で、一語一語発するのにも全身を悶えさせながら、何度も何度も訴えます。私たちはみな返答に窮してしまって、目を伏せるばかりでした。
 そのとき、そんな空気のなかで、かすかな笑い声がきこえるのです。なんだろうとそっと伺うと、付き添い人なんですね。そこらにあった漫画雑誌を見ながら、笑っていたのです。
 きっと、その人は、その麻痺の人に協力して、自分の時間も割いて、色々な所に付き添っていったに違いないと思うんです。大変なことです。善意といってなみの善意じゃできないことです。誰も彼を悪いなどとはいえないでしょう。でも私には、彼は、心のどこかが麻痺してしまった人ように見えました。重苦しい部室に、脳性麻痺の人の叫びと、付き添い人の乾いた笑声と……。私はその時、人はここまで無神経になれるのか、と思い、恐ろしいものを見たような気がしました。
 今でも、その付き添い人の無神経さが、「善意」から来る心の麻痺だったとはいいきれません。「善意」の万能性を信じていたいから。でも一方では、あれから年月を経て、人並みにいろいろなことを見聞きしてきて、やっぱりあれは「善意で舗装されている」地獄への道を、なんの疑念も抱かずに歩いている、哀れむべき人の姿だったとも思います。ともかく「善意」というと、私は、必ずあの付き添い人の姿を思い出します。
 長くなりました。乱文陳謝。
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