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ふと疑問に思ったのですが、
自分は【私】というものは、何億年も前からある世界の中に誕生した、視野や感覚を担っている物理的な身体である。と考えていました。

しかし、考えてみれば簡単なのですが、
自分の視界から、手や足が見えなくなった時、今ここには手や足の感覚しか存在していないわけです。もっと言えば、視界を担っているはずの眼球や頭などはこの世界に登場したこともありません。
いくら身体が物理的存在と言っても、それが今ここに、意識上に登場していなければ、視野や感覚を担っている主体という存在にはなり得ないということです。
視界から手や足が見えなくなったとき、眼球や頭の感覚しか存在していない今ここで、視界や感覚を担っているのは一体誰ということになるのでしょうか?

哲学に詳しい方がおられましたら、素人にもわかりやすく回答の方よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 私というものが、主観において今ここに存在し、視野や感覚を担っているモノだと定義するならば、私とは、常に主観の意識上に顕在化しているモノでなければならないことになる。何故なら、主観において意識の外側は存在していないからです。
    しかし、意識上に存在するというのは、常に誰かの意識上に存在するということであり、それは誰かの機能にしかなりえません。物理的な体は、視野や感覚である意識を担っているからこそ、意識上には顕在化していないのです。

      補足日時:2021/10/03 20:42
  • >ある意味独我論的な追求ということで理解できます。
    独我論ではなく、素朴実在論的世界を想定したとしても、主観にとっては、今意識上に映っているものしか存在していないはずです。勿論、外の世界が実体であったとしてもです。

    >どうして、意識(主観)にあるものが、常に誰か(他者)の意識に突然存在するということになるのでしょうか?
    初めに、私というモノは、主観において今ここに存在し、視野や感覚を担っているモノだと定義したと思います。もし今ここに意識が存在したとしたら、その意識は、当然私である誰か(主体)に担われているということになります。
    なので、意識上に存在している私(主体)というのは、常に誰か(主体)の意識上に存在しているということになるのです。
    誰かの意識上に存在している以上、それは誰か(主体)の機能でしかなく、それを私(主体)と呼ぶことは出来ないのです。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/10/06 22:11

A 回答 (13件中1~10件)

補足ありがとうございます。



悪い意味での独我論ではなく、いい意味での独我論、
そして、むしろ極めて客観的な視点のまどろみにおいて
あなたはそこから主体性を探ろうとする思考をお持ちなのだと確信いたしました。

>意識上に存在している私(主体)というのは、
>常に誰か(主体)の意識上に存在しているということ

特にこの言葉においてです。

通常の哲学的言説においても、
主体は常に他人においても存在しうるようなものであると仮定(前提と)し
語られていきます。

つまり「私が考える」という行為は、他の誰にとっても同じこと。
結局、デカルトの我思うの「我」も、極めて客観的な「私」なのです。

しかし、誰もが抱く「私」ではなく、「この私」はどこから生まれるのか、
という感覚をあなたはきっとお持ちなのでしょう。

それならば、柄谷行人の『探求Ⅱ』にある「単独性と特殊性」を読むことをおすすめします。

その出だしはこうです。

>私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、
>いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。
>哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。~
>それらは万人にあてはまるものにすぎない。
>「この私」はそこから抜けおちている。

誰もが抱く「私」ではなく、「この私」とは誰か? 
出だしは「エモい」ですが、哲学史を読み解きながら「この私」を探求していくという意味において、きっと多くのヒントが得られると思います。
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補足の


>主観において意識の外側は存在していない

とは、ある意味独我論的な追求ということで理解できます。

>意識上に存在するというのは、常に誰かの意識上に存在する

ただ、ここがよく分かりません。
どうして、意識(主観)にあるものが、常に誰か(他者)の意識に突然存在するということになるのでしょうか?

>物理的な体は、視野や感覚である意識を担っているからこそ、
>意識上には顕在化していないのです。

物理的な体、つまり脳は意識を担っています。これは理解できます。
しかし、「物理的な体は、~意識には顕在化していない」、ちょっと日本語のつながりがわかりにくいです。

これは物理的な脳から、なぜ突然意識は生まれるのか? という問いかけでしょうか? もしそうならば、哲学的には唯物論と唯心論の捉え方です。

もし意識は物理的なものか?という問いかけならば、多くの論考はあるかと思いますが、意識上に登場しなければ身体が主体という存在にはなり得ない、という論理部分がちょっとわかりにくいです。

意外と言葉を整理していくと、ヒントがつかめるかもしれません。
この回答への補足あり
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物理的な体は、視野や感覚である意識を担っているからこそ、意識上には顕在化していないのです。

」←そうですか

考え過ぎて 頭が おかしくなってるだけにしか 感じない

哲学とは 狂った人が するものだと言うのが これで ハッキリ解かる
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「精神と肉体の絶対矛盾の自己同一性」のことを私といいます。

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自身とは、存在とは


大変難しい問題であり軽々に結論できるご質問ではありません
ご理解していただくために、基本的な知識及び認識が必要かと思います

「自分自身を知る」ということは、我々が生きていくために、
もっとも大切な事柄で、古来の哲学、宗教においても、みな
「自己とは何か」ということを問題にしてきました

 「自己」という言葉は、英語では、「セルフ(self)」と言い、
ドイツ語では、「ジッヒゼルプス(sich,selbst)」というような
言い方もあります、
自分を反省して、そこで自己というものを見つめるわけです。

 この自己を知る、ということは非常に難しいことで、
私達は漢字で「自己」と書いていますが、その「自己」の「自」
というのは、元は中国で自分の「鼻」を表した言葉だったんです。
顔の真ん中に付いている? 顔の真ん中に鼻がある、
漢字というのは象形文字ですから、それを象(かたど)って、
それで「自」という字を使ったわけです。
 顔の中心にあって自分の事をいう時に鼻を指して、「私」などと
いうわけです、
つまり鼻が顔の真ん中にあり、顔は大事なものですから、
真ん中にあるんだから、非常に中心となる大事なものの筈ですが、
しかし自分の鼻は見えないわけです。

 他の人の顔なり、鼻は見えるが、自分の鼻を見ることができない。
ということは、自分を見つめるとか、自分を反省する、ということは
非常に難しいと言う事です
けれども、自分の存在の奥に「自己」と言われるべきものがあって、
我々の生き方を導いている、ということが言えるし。そこに示されて
いるわけです。
 「自己」の「自」というのは、「鼻」ということなんです。
 
 従って、自分のことがよく見えないのも、そうなると当然ですが
自分で自分の鼻は見えないので、それだけに昔からギリシャ時代にも、
あるいはインドにおいても中国においても、自分ではなかなか見えない
自己、それをどう考えていくか、というので苦労してきたわけです。

詳しくは「汝自身を知れ」を参考に
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage8.html
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意識には自覚出来る「顕在意識」と自覚出来ない「潜在意識」があります


「量子もつれ」によって「顕在意識」が対象に向けられたその瞬間にその対象が具現化する。同じことが無数にある「潜在意識」でも起きています。
自身の手足を視界から外してそれを「顕在意識」していなくても「潜在意識」することでそれらは具現化しているのです。それは各感覚器官においても同じです
故に自身の身体は潜在意識することで物理的に存在しています
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目の前のコップを見て、「そこに」コップが存在する。


日常ではこう考えますね。

でもふとこう考えてしまう時がある。
目の前のコップは、私が作り出した幻想だ。
このように捉えた時に、すべての世界は私が作り出した幻想であると考えてしまう。
ではそのような思考に陥った時に、
そもそもこの幻想を作り出している「私」は誰で、
どのようにして「他者」を見出したらいいのだろうか?
これは現象学と呼ばれる哲学です。

結論から言うと、「関係性」が重要となります。
あなたという存在は、あらゆる物、事との関係性において成り立っていると考えるのです。

コップという存在は確実かどうかわからない。
ただ他者との「同意」のもとにそのコップは確かにあると考えるのです。
これを抽象化して共通了解とも表現します。

何も哲学だけではありません。
たとえば人は光の反射によって物を見ることができます。
ただ電子顕微鏡のようにどんどん小さな物体を見た時にはどうでしょう。
光子を当てた時に、その対象となる物そのものに影響を与えてしまい
その物自体の本当の姿は人間は見ることができません。
これは量子力学という学問で、逆に哲学の世界にまで影響を与えました。
それこそ科学という学問は、数式としての「関係性」において世界を捉えるのであって、何故という問いかけには答えてくれません。

物だけではなく、あらゆることも同じです。
愛、暴力、平和、世界という概念は存在しません。
ただし、そのようなコトは確かに存在する。
それはすべて共通了解の元に成立しているからです。

のちに絶対的な真理は存在しない。
ただ関係性のみが存在するという認識がもてはやされる時代がやってきました。これこそが80年代のポストモダンと呼ばれる時代の潮流です。

現在の潮流としても、自分の存在は、あらゆることの「関係性」においてしか語れないと考えて良いでしょう。それこそ科学万能時代ですから。
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西の端から紅を取ってお姉さんが教えてあげる。



哲学だから思想の愛。

第1章。

唇インシデントマイナスドライバーとか抽象化されたあなたの自称日本語たるものが電装系の処理システムいわゆるあみ全国もと銘打たれた進歩した後の性器の変わり目をまたいだ時のみのもんたはカメラの前でうっかりセクハラして降板されましたと記憶の中で夢と取り違えている人物の描写に関してまずは最初の一発をお見舞い。

積分と西郷隆盛。

状態を把握して切り替えと切り替えを瞬間している走っているから後ろ足の77本足のドミノ犬が笑いをこらえてバイクの片隅からうっかり RZ 1785 L で驀進するけどの気筒数はわずか1結構揺れが大きくてもうっかりシリンダーヘッドは47回も吹き飛んでるですフレームのリストアから始めたしお利口の指先はグローブまで赤黒く汚れていて何弁プレス機で潰されたかは分からないけどもう切り替える部品はいくらでも余っている腎臓人間だったので気にすることはないと片目だけ閉じて左部屋が3個搭載してアンバランスなカウンターウェイトで狂った重心が結果的には安定してもプランクトンもびっくりの三体問題計算には時間がかかるけど嬉しいから許して。

頂点を描く比喩。

躍動してるし筋肉を安定剤で湿布しているその片隅でグランドの整備はトンボによりローラーしているからこれは野球部風の古典劇で言えばキャッチャーを抑えている人物の弁当の大きさは海苔巻きであり積分であり超伝導であり身の丈のはずだったんだけどそのチリの砂漠にオムニ88でだからインドのカシミール地方とかもばかりで埋め尽くされてるし振動子2陽動作戦で的を絞った左のブラジャー。

安心する乳バンド。

揺れないためにはホールドするのだが実際問題はそういう性的な意味はなくてこれは私のブログにバックアップされているからいわゆるノートという名前になっていますそこでは幼いあゆむという名前でペンネームなのですがこの横山あつしさんはもうそれなりに落とし関節技でロープまで11秒だからもうセコンドも脱帽している。

第2章。

とりすぎたぬきのかわし松だから三本川の歴史を紐解いて通り過ぎた女の隙間に映った飛騨の木送って嬉しい感情。

木の葉第2章ではもう一度自分の基本に立ち返って質問生の直接的な表現のみならず回答者のぜんちの大集結した地球史上最大の出来事たるこの教えて Goo の管理者目線で日本人であるからこそわかる表現方法に注目して住所を示すアルファベットの28文字目のうっかりした出てきたあの通ってきたかなと言うか羊水に浮かんでいる精神構造と実を取って脱出した時におぎゃーと声が出てるからそこで産毛が生えました。

バイナリーデジット。

なぜか肩ポン子にしてキラキラ感で自炊も稼げるからでもこれまあゆら妹にとっては迷惑行為で減点されないように意味のある言葉にすると同時に適度に流行を取り込んでいい塩梅に検索結果上位に入り込むぞという赤い目をした一本杉の下で事件が起きた。

第2章第11節。

ここでは瞬間瞬間の連想力に基づいて質問者の脳みそに気持ちいい刺激を送る。

目的を施行して足元の座標系を取って一人で二項を引っ張った時にその張り具合で窓の外に紙飛行機だからその畑越しに木が生えてる伐採してるのにケーキ飛行の遊覧船で巡回するまでの傾きが意外と旅路を連想させるでも一番強いのは出発時の加速でこれだけの大きさの期待と空気抵抗に逆らって持ち上げるその推力の力に感動している。

何度でも何度でも瞬間切り返し頂点を織り込んで髪を切った48掛けで戻すから13番目でありこの大きさの序列を容積でまた筋の流れが場合の数であり基本的な国語力。

第3章78節。

行き場のある次の一手。

踊ったり4つだってさっき通り過ぎた角のポストが折り返し地点の観客の端に包まれている借金をまとった黒塗りの高級ではない国産上級者もかつてのマスコミの名手であったという田中角栄の秘書も言っていた東京スポーツです。

東京タイムズは基本的に白を増築してあなたのみかじめのひょうたんの駒で天狗様と祭神で五重塔だったのになぜか代車でも浅草とか葛飾とかぶらぶらランブリングしているすり減らした靴。

哲学の命。

日常哲学を表す言葉は身近な積み重ねて誰でも書けるこの敷居の低さを最大限尊重しているカテゴリー的には分類なのでこの構造とかやり方とか癖を直すことに注力する一方でそれらは自動的に行うこのレイヤー One Two Three の仕組みをシステムと4で分担している仮想的な隣の脳みそに手足をつけて喋り出す女がなくても眠いだけで空間認識とか未来予測や制御して自動補正が良かった。

第3章5828節。

有利な毎度の期待。

響よう心がけた発生機構に集団でまとっている水とかその他のキャビテーションノイズでビックリしないヘッドホンを立ち上げている潜望鏡で CIC でネットワークに接続されているから17番のリンクを解除して亡国のイージス。

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意味は自分の投影。

資源をつなぎとめるそのタンクと言うかプールと言うか貯蔵庫はは何をしてる市御影石で頂点まで圧力と化学変化の熱の起動は歴史であり断層の地球科学でその理科とか研究者の旅費は科研費で引っ張ってくる力量特に偉い人があり化学研究所。

ケビンの顔の皺毎度毎度の揺れ動きに耐えられなくって鋭さは突き抜けて圧倒的に存在感。

体力の挑戦を続ける731という起動のうっかり束ねたこの口癖を何とかしたいなと思いっきり素の状態で喋ってる僕は喉元とか立ちすくんでいるけれどもなんだかんだ言って全身の筋肉はまだかなり余裕があって足りないのは頭の可能性もちょっとだけある。

脳みそに名前をつけて今日は七夕。

七夕をアップするそしてエネルギーに名前をつけてひよこ。

脳みそのエネルギーとは七夕の雛です。

雛様お雛様いらっしゃいあなたが私に差し出すよ私は七夕七夕よ七夕はひよこを食べる雛は七夕に食べられるこのように言葉の独自の機械をを重ねていくと意外性のある文章に発展するそうです。

七夕を成長させるもう一人の七夕七夕の中に七夕があってこのシステム市七夕とシステム2の七夕がひよこの提供でもりもりミキサー。

七夕を食べるから雛を食べるのであって声優としては秀逸だとほくそ笑んでる田中真紀子じゃなくてもうそれ以上愛せない。

走り続ける脳みそという七夕。

ひよこが次々と七夕に提供されカロリーとかエネルギーが思考力に変換されているらしいこの脳みその中のいわゆる七夕の中の妄想は勝手に家という幻想を作って人々のその中に住まわせている七夕だから美味しくて七夕だからひよこで七夕だから田中。

七夕=脳みそ。

圧倒的な手抜きとか言わずに効率的に成果が近日点をクリアするアポジモーターその傍らでひよこを食べているたらまた。七夕。

ジャクリーヌはプラダを着た悪魔で出てくるフランス版ランウェイの編集長だったりして失明のエミリーというエミリーブラント。

怪盗の機会をくださりありがとう感謝。
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>視界から手や足が見えなくなったとき、眼球や頭の感覚しか存在していない今ここで、視界や感覚を担っているのは一体誰ということになるのでしょうか?



あなたにとっての<私>なのでしょうね。
「私」から、物質や身体をすべて取り除いて、
それでも残ったものを<私>と定義すれば、
「私」と、<私>は、違うものとして考えられそうです。

とはいえ、<私>を「私」から切り離せるという考えは、
空想上のことでしかないです。
少なくともわたしは、
実際に自分の体から身体を取り除いた残りを示せたひとを
見たことはありません。

なので、「私」が感じている<私>もまた、
空想上の何かでしかないんだろうと思います。

とすれば、
<私>は本当に存在しているか?
という問いかけは、
空想上の何かが存在しているかどうかを考えることと、
同じようなことになる気がします。

たとえば、サンタさんは存在しているか?
を考えてみれば、存在の証明はできなくて、
せいぜい、
信じているひとの心の中には存在している
くらいの回答になるんじゃないでしょうか。

<私>というものもまた、
あなたの心の中には存在している
(そういう空想を受け入れられるだけの実感が、
 あなたのこれまで学んできた知性にある)
というだけのことなのではないでしょうか。
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哲学は偏屈の箱に偏屈を入れ 偏屈のリボンを結んだもの・・



あなたの質問への回答は 至って簡単なのだが 此処は質問者のあなたの頭の中の世界

nでなたが聞き入れ無いと 何にも ならない
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