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ー悪魔を憐れむ歌ー

善悪とは、一個人においては、各個人の中にある哲学によって決まるもので、社会の影響を強く受けるので、共通点のほうが多いと思いますが、大きな違いも有り得るでしょう。

哲学的な普遍的善悪という問題は、これまた難しいと思いますからここでは問わないことにして、あなたにとっての「最大の善」「最大の悪」は何で、それは何故かということをお聞きしたいと思います。

A 回答 (11件中1~10件)

Σ(゜Д゜)言い切れるのか!



言い切れないのか!

この差はデカイですよ

ワシは言い切れないタイプだから
日々悶々としとりますけどね
(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

言い切ることはリスクがあります。

しかし、言い切ることによってその信念は磨かれることが可能になる。言い切らなければ、いつまでたってもモラトリアムなもののままです。だから、叩かれることもない、と。

お礼日時:2021/10/30 14:13

人間の心の中の要素について深い思索をしてゆく時代になった



Σ(゜Д゜)名言ですね


生まれもった直感的な正義ってのが、本当に正義なのかてな事を
人生経験を通して、自分自身の哲学として獲得することによって

直感的な正義てのが、個人にとって
また、協力的な社会や!競争的な社会にとって!

本当に正義だと言いきれるのか!
知識や感情で確認する行為が、哲学であってほしいと
(  ̄▽ ̄)にっこり

生まれもった直感的な正義とは
この世に産まれ落ちた、自分自身の存在の奥底に在るべき心だと!

ニャンポコリンさんの言葉で纏められましたよ

ヽ( ̄▽ ̄)ノありがとうございます!
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この回答へのお礼

学問の帰納的思考では、結局結論は出ないのだろうと思います、哲学的問題は。

自分のすべてをかけて、言い切って、現実の中で検証してゆくこと以外にはないのでしょうね。

お礼日時:2021/10/24 19:20

ジョン・コルトレーンさんの映画紹介



明るさってなキーワードが凄くて
明るさを認識したり、意識しるためにも
闇や暗さを経験されてたみたいですね

麻薬に溺れてから這い上がれた
カリスマって

日本にはいまだに現れないですもんね

明るさってな陽気な感じは
暗く沈んでたり
激しく誰かを恨んでたり

そういった雰囲気を打ち払う強さなんかもありそうで

音楽を通して、ジョン・コルトレーンさん自身の存在を通して

発信されてたみたいですね

明るい未来って言葉にするとたやすいけど
それを自分自身で表現したり、実践したりして

なにか大切な物を未来に託されたのかとも

そういった行動から手繰り寄せれる
平和こそ

ニャンポコリンさんの説かれる
自分自身の人生に置いて
見つけた正義を現してそうですね

正義にしても悪にしても
天から舞い降りたり
地から吹き出たりするものではなく

現在の自分自身の在り方、生き方から
手繰り寄せてくる未来に備わってるはずで

正義に酔いしれて手繰り寄せてる未来とかってのは

正義ありきの人生観ってなってしまい
人生経験において芽生えるであろう正義や、正しさとは別な物にもなりそうですね

ワシは人生経験にて
そういった芽生えがおこるのか?
おきないのか?

起きてるけど気付いてなかったり!
起きる必要性かまなかったり!

こればかりは、まだまだ人生を味わわないと
答えが出そうにないですね

純真で無垢な感情に伴う衝動に呑まれて
薬物に依存してしまっても
そこから建て直せる自制心と行動力ってのは

これまた、心の働きによるものですもんね

参考になる動画、ありがとうございました!(^人^)感謝
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この回答へのお礼

ジョン・コルトレーンは、自分が求めているものが何か分からないと言っています。
ソニー・ロリンズとは哲学的・宗教的傾向の強い同士、友人であったとか。

おそらく、「真理」を求めていたのでしょう。で、それは自らの精神的高みの末に見いだされるであろうと、つまり、「悟る」ものであると漠然と考えていたのだと思います。

論理的に「正義」を定義してそれを追求するのではなく、直感ですね。直感で納得したものが即「正義」であると考えていたと思います。それは、多分に瞑想的であり、仏教的であると思います。

ジョン・コルトレーンの心の闇は、アメリカ黒人の悲劇に即つながっているでしょう。彼がどこまで精神的高みに登りつめたのかは、彼の音楽をもっともっと聴かなければわからないでしょうけれど、アメリカ黒人は苦しんだからこそ、ブルースが生まれ、ジャズが世界的な音楽になったのでしょうね。

お礼日時:2021/10/15 15:20

社会の為ってな言葉について



まずは、社会ってなんなのさ?
なんてな疑問にぶち当たってしまうんですけど
義務教育なんかで、社会科みたいな社会についての基礎知識なんかを教えられますもんね

人は独りでは生きていけないから、他人と協力して生きてきた

なんてな言葉から乱暴だけど、社会とは人の集りなんて事で考えていくと

社会とは協力関係てな話しにもなりますもんね

協力するためには、目標や指針・いわゆる行き先や目的地なんてな事が必要であって

目的地が社会の為にだと、実際には明確な目的地はないんですよね

目的を持たせたくないのかな?
( ̄~ ̄;)なんてな邪推は、ちと置いといて

明確な目的がないからこそ
目的や行き先のよに思い込まされやすくて

ニャンポコリンさんの先程のお礼にあったように

重大な嘘や、奇弁、巧みなレトリックが存在してしまってますもんね

今の時代で特に問われてるのが
経済と個人の命

社会をつくる基本単位の個人の命は
社会を維持するための経済の犠牲に成るべきなのか?

こんな感じで問いをたてると、当然答は【違います、個人の命が大切です】

てな風にはなるけど

社会の維持の為に経済を優先するべきではないけど、経済が停滞したら個人の生活も破綻してたくさんの命すら危うくなるのではないか?

てな風に言われると

個人の命とは答えにくくなりますもんね

でも経済なんてものは、あくまでも個人の生活の延長線上にある
集合体でしかなくて、その集合体のために人の命ではなく、なにか大切なものまで差し出してしまってないか?

命よりも大切ななにか?

企業なんてのは、自社の利益をあげるために存在してるのが事実であって
利益優先てな事柄を兎や角いわれたないために、公益性や公共性
社会にとって必要性が存在してる
みたいな綺麗事を並べるけど
企業が損益ばかりあげてたら、いくら綺麗事をならべても、倒産や破産など存続することは出来ないですもんね

企業って言う言葉をつかうと、時代劇の悪の代表格である、越後屋みたいに受け取られるけど

たんに、ひとつの企業てな話ではなく

すべての産業に当てはまるのも事実なんですよね


医療であれ!生産業であれ!販売業やサービス業まで

すべからく自社の利益が基本であって
資本主義だから、利益優先が当たり前てなこともいえるんですけどね

なら、社会とは経済の活動の集合体だとするなら

経済活動のために、生きていく事が
個人の大切な何かなのか?

( ̄~ ̄;)これも違うような気持ちになって

でも、大きくなっ経済活動の恩恵があるからこそ
ワシはこの世に産まれてきたのも事実ですもんね

経済の規模が小さいと
必要になる人の数も少なくなり
経済の規模が大きくなると
必要になる人の数がおおくなる

ごくごく当たり前の話なんだけど
この経済ってな流れのうねりで
人の数が増えたり、減ったりしてるのが事実であって
人の数のうねりが、また経済規模のうねりとも兼ね合ってますもんね

なら、社会って大きくなったり、小さくなったりするのが当たり前なのに

社会の為にてな言葉じたいが?
( ̄~ ̄;)なんか腑に落ちないですよね

でね、腑に落ちないから
社会の為にってな言葉を全否定するわけでもないてのも、当然の如く言える話であって

人って何を信じて、何を信じないのか

信じるものが正しいとか
信じれないもの(物や者)は間違い
てな安易な話しでもなく

その狭間にある何か?

これって人にとっての正しさじゃないのかとも思ったりもしてるんですよね

何の為に生きてるのか
そんなくだらん問をたてると
目標なんて無い
なんてな回答をいただいたり
幸せの為に生きてる
なんてな回答をいただいたりするけど

答えなんて、狭間からこぼれ出た回答でしかなくて

疑問や悩み

そういった人が人であるべき姿こそ

正しいのかとも思うんですよね

大いに悩み、大いに考え
考えるために、学び、調べ
そして自分なりの答えを出す

答えを出して、また何かしらの疑問や悩みにぶち当たり!

人の生き様って、正しいと思いたいんですよね

ちと、とっちらかってるけど
御許しを(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

>社会ってなんなのさ?

うむ、難しい。
社会って協力関係と言えるし、競争関係もある、と言うより不可欠でしょう。
その割合とか、位置関係が難しいと思う。

愛こそすべて?「すべて」が間違いじゃないかと思う。憎しみもあるし、嫉妬もあるし、殺意もある。悪い心を根絶はできないでしょう。
その、善悪両面の心の関係性、ということになると思う。だから、人間の本質は善か悪かなどという議論はいい加減卒業して、人間の心の中の要素について深い思索をしてゆく時代になったと思う。

https://youtu.be/b0yCqyVXzrc

ジョン・コルトレーンは求道者です。
彼は求めに求めて、「平和」というところにたどりついたようです。
彼も紛れもない哲学者であった。

お礼日時:2021/10/12 14:23

抽象的で哲学的になってますね


m(__)m

実生活で言うと
集団社会のなかで、自分と他人の違い

自分と他人は違ってて当然なんだけど
社会が求めてるから、取っている行動

協調性とか社交性・処世術何てなのもあって

学校なんかだと
全校集会なんかで、校長先生の話をみんなが黙って聞く

これって、ほんとに聞いてる生徒もいたら
聞いてるフリをしてる生徒も居て

なかには、小声でおしゃべりしてる生徒なんかも居てる

でも基本的には、静かに校長先生の話を聞いてる状態が、望まれる状態であって

誰もトラブルを起こして、全校集会が長引くことは望んではないですもんね

その集会の中のひとりである
自分自身が校長先生の話を聞きたいから、話を聞いてるのか?
聞いたフリをしたいから、話を聞いたフリをしてるのか?
それとも、他の生徒と小声で座談したいから、雑談してるのか?
そういった自問自答の中で、もがく様なんだけど

集会の最中に走り出したり
大声をあげたりしないのは

当然の行動であって

走り出したり
大声をあげたりすると
集会てのが破綻してしまって
多くの人の時間なんかを無駄にしてしまいますもんね

学校てな話だけではなくて

会社や社会

哲学的になるけど
環境や状況・物質や空間

なんかそういった事柄すべてまで
この頃は、
生きるこことは、生きている事への
ささやかな自問自答と、そつがなく過ぎてく日常なのかとも

ニャンポコリンさんの仰有る
企業による横暴

次の回答で答えたいと思います
ちと、仕事の時間になりましたので
積み込み頑張ってきますねぇ~
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この回答へのお礼

抽象・具象ということを改めて考えてみると、具象とは物質・形而下ということ、抽象とは性質・形而上ということでよいと思います。

一般的に抽象的と言うと、曖昧な観念論と言う意味に使われることが多いのですが、そうではないでしょう。

間違いは、物質面のみ見て、性質面を無視することと、性質面ばかり見て、物質面を無視する、ということであると思います。
できる限り多面的に判断することが真実に迫るやり方で、科学はこれを苦手としていると思います。

校長先生のお話の例え話を聞いて思ったことは、現実は実に複雑だということです。

校長先生の話が子供たちの役に立つのかどうかと考えると、大抵は役に立たないが、役に立つ場合もある(笑)というケースが一番多いのでしょう。人によっては、返って害を与える場合もあるでしょうし、有益な話をたくさん出来る先生もいる可能性はあります。

また、集団で聞くことの有用性(例えば集団心を養うとか)もあれば、マイナス面もあるかも知れません。

そのように、細かい分析とより根本的なところへの再思考が重要であると思います。そういうのが哲学的思考だと思います。

現象・具象に囚われがちなのは、そういう哲学が科学的思考の中に根を張っているからだと私は考えています。

お礼日時:2021/10/12 13:52

愛で満たすこと=善。

愛の欠落=悪、です。
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この回答へのお礼

愛ですね?

お礼日時:2021/10/07 22:41

切り口を代えて



世の中や社会で生きてて
どのような人間に成りたいのか!
てな個人の理想像!と
どのような人間に成るべきなのか!
てな環境に合わせた現実的な像との

理想と現実てなことから

自分自身が望む形が善なのか?
それとも
社会に適応した形が善なのか?

( ̄~ ̄;)

社会に適応した形を理想とすれば良いだけの話なのかも知れないけど

社会に望まれる形た社会に適応した形てのが一致してるのか?

てな事もそうぞうされて


人の善とは
自分の為なのか
社会の為なのか

ある社会に置いては望まれる形があったとしても
少し離れた社会では。その形は望まれる形でなかったりするので

社会や世の中ってのの範囲も問題にはなってくるけど

家庭や家族に望まれる、その人の在り方と
社会や会社に望まれる、その人の形が一致することはなくて

少し前までの日本人って
企業戦士なんて言葉もありましたもんね

( ̄~ ̄;)

自分自身がのぞむ形が善であるんだろけど

自分自身だけだと、身勝手な人や自己中心的な人なんてな形にも成りやすく

人が望む善とはなんぞや( ̄~ ̄;)

まだまだ纏まらないので
笑ってやってくださいませ
(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

「社会の為」と思い込んでいることが多々あると思います。

一番分かり易い例が20世紀の二度の世界大戦。戦勝国も敗戦国もボロボロですわ。多くの人が死に、家族を奪われ、人生を奪われ、平安な日常を奪われた。いったい誰が得をしたのだろう。一部の人種がおいしい思いをしたのかも知れませんが。でも、すべて社会の為と人々は思っていたわけです。

現代において、国のやっていること大企業のやっていること、これらが全体として本当に社会のためになっているのかどうか?政治家などはいかにもいいことをやっているということを前面に出します。大企業が良いイメージの宣伝を延々と繰り返しています。

私はそこに重大な嘘、詭弁、巧みなレトリックが存在していて、そこに一番の社会問題が隠されていると思います。

わしやけどさんが紹介する例の女の子二人が喋っている動画、ああいう視点を我々一般大衆は持つべきですね。

そうです、一般大衆の視点、論理、感覚こそ、現代社会の中で唯一の純真で無垢な感情に伴う衝動と自制ということになると思います。

お礼日時:2021/10/07 22:41

純真で無垢な感情と余計な言葉のように思われるけど



感情だけだと先入観やプロパガンダなどの、他人や集団からの何かしらの影響なんかを受けてる事が多くて

他人からの操作において持つ感情ってのは、その人が産まれ持った感情とはちと違いますもんね

生まれたての赤ちゃんみたいに
純粋な自己の為にある感情を現すために
純真で無垢とつけ足してるわけであって

世の中すべての人が、赤子のように自己の利益、利己的な感情で行動したとするなら
社会なんてものは成り立たなくなりますもんね

社会を成り立たせるために、衝動を自制心で抑えたりしてるのは当たり前の話であって

自制心で抑えるくらいなら、社会の為に感情そのもの要らなくないかと!

そんな極論に達してしまうんですよね

そうなると感情の持たない人間が社会という中のシステムの1部分で在ることが善なのか?

なんてな言葉にも達してしまい

自己犠牲や利他的なんてな話ですね

でも、自己犠牲や利他的てな事柄から

第二次世界対戦の日本の取った、国民総動員令を起こしてしまうんですよね

どこまでの自己犠牲や利他的行為が、社会にとって、自分自身に善であるのか?
ここら辺も人に寄ってかわってきそうな話でもありますね

(ちなみに、わしやけどは戦争肯定派でもなく、盲目的な反戦論者でもない事は記載しときますね)

自己犠牲や利他的行為がすべて善なのか?てな話につなげると
ならなんで人に感情や自制心を与えられたのか?


感情的であることから、利己的になったり、利他的になったりするのも人間であって
感情の思うがままに生きていると
人間ではなくどちらかと言うと獣や動物になってしまう
社会に適応するために、自制心で衝動を抑える事はあるけど
社会の為だけに生きてるのが人間の善とも言えない

その中間地点てな中道が善なのか、なんて考えてしまいそうだけど

人によって中間地点すらまちまちであって
人の集まる社会なんてなものだと
まちまちの中道なんて確立出来ないですもんね

てなことから

自分自身で社会に適応するために自制心を働かせてる

その途中と言うか、考えたり悩んだりしてる様が!

人の善だと、個人的には思うんですよね

どんな考えであるのか

どんな悩みであるのか

それは人に寄って様々だから定義付けは不可能なんだけど

その人が悩み苦しみ、何かしらの答えを見付けるまでの道のりこそ

善であるはず
善であって欲しい

個人の願望に成ってたりもしますけどね(笑)

道のりを歩かず、規格化された答えに辿り着いたり

道のりを探しもしないで、価値観の違いや、個性の尊重とか言うのとは

結果だけを捉えたら、同じ事なのかもしれないけど

経過が全然違いますもんね

経過が違うからこそ、結果に対する重さも違ってて

その重さに善を見いだしてる
てな回答にはなるんですけどね

相変わらず纏まりのない回答なんだけど
御容赦くださいませ
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この回答へのお礼

哲学的善悪のことをあれこれ考えておられるようですね。
感情や衝動、自制心などもある人間の心を踏まえているので大きいし難しい話です。

一人の人間がこの世に生まれてくると、基本的人権がまずあります。自由があり、幸せになる権利があります。さらに、平和に暮らす権利があると私は思います。自他共のこれらの権利を守ることが「善」と言っていいと思います。これらの権利を無視し蹂躙することが悪と言えると思います。
だから、戦争は絶対悪なのです、私の中で。

このあたりの定義でいいんじゃないかと今は思っています。

でも、「いや、世の中はもっと複雑で、そんな風にはいかないものだ」と多くの人は言うでしょう。確かにそうでしょう。
そんな簡単なものではないけれど、このままじゃ、結論は出ないで、観念の迷路に入り、現実の複雑さ難しさが理想を押しつぶし、理想なんて追うこと自体が間違いである、と言う結論に現在ほぼなっていると思う。

そんなことは、わしやけどさんは分かっていて、その現実の中で模索しておられると思う。

一番の問題は国家とか大企業などが悪をしているが、人々がそれらを生活の拠り所だと思っている点ではないだろうか?

お礼日時:2021/10/07 22:19

良かった


ニャンポコリンさんなら
伝わった

話し言葉にして
他の人にも伝えやすいようにしたかったけど

どう転んでも、纏まらない

自分自身の無知を嘆いてたんですよ

でも、もう少し頑張る予定なので
締め切りを伸ばして貰えると助かります

今時は、単一化に向かう社会なのか?
多様性てな言葉が飛び交う社会なのか?

危惧の元はどちらも個人の在り方ってのが確立されにくいですもんね

個人が現してる事柄すら
単一化して規格化されて、大きな枠組みにはめ込んだり

個人で現そうとしないまま
多様性なんてな言葉で押し切ったり

突き詰めると存在てな事柄に達してしまうんだけど

存在だけじゃ善にも悪にも辿り着けないのが

善悪であって

感情と衝動のはざまってのか
折り合いってのか

( ; ゜Д゜)言葉が・・・


また、後で出直して参ります
m(__)m
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この回答へのお礼

学問的表現、口語的表現、あるいはプログラミング言語で表現したらどうなるのか?
また、昔の日本人的な無言の言語、芸術家同士の言語、職人同士の言語等々、全く新しい言語も有り得る。どれも不十分に思えますが。

現代とは、科学的思考の時代だと思うんです。それは、観測され定量化できないことを意識的に削除する思考です。精神とか形而上のものですね。
それを削除することが「正しい」と決めているんですね、面白いほどですよ。

その枠の中での多様性ですから、たかが知れた多様性です。いや、と言うより、いびつさにおいては多様性は無限かも。

時として私の枠に入らない、わしやけどさんの投稿をお待ちしています。

お礼日時:2021/10/06 09:20

純真で無垢な感情に伴う衝動と自制が、個人的には今のところ善かなぁ~



( ̄~ ̄;)抽象的でm(._.)m
話言葉に言語化しょうとしてるけど

長すぎて、さらにまとまらない( ^∀^)(笑)

纏まったら、再回答しますね
(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

>純真で無垢な感情に伴う衝動と自制

なるほど。

私とわしやけどさんのそれは、近いと思うけれど、今どきの時代では、それがかなり違うのかも知れないと危惧します。

アカデミックな表現と話し言葉での表現、私としてはどっちもどっちと言う感じです。どっちも不十分と言う意味で。

お礼日時:2021/10/06 07:35

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