幕末の最高権力機構がどうなっていたのか知りたいのです。たとえば、参考書では老中阿部正弘が徳川斉昭の進言を入れ、老中松平乗全、松平忠優を罷免した。とか、元老中の堀田正睦が再任し、阿部正弘にかわって首座となった。などと書かれています。
老中の任免や外交など重要事項の決定はどのようになされたのでしょうか。老中首座(今の首相との説あり)が、老中の全体会議(今の閣議との説有り)で発議し、将軍の裁可によって決定されたのでしょうか。また、大老と老中の関係はどうなのでしょうか。大老はどのようにして任免されたのでしょうか。参考文献があればおしえていただけないでしょうか。

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A 回答 (1件)

参考文献と言われるとよくわからないのですが、


徳川幕府の意志決定は、通常は老中4人の合議性となっていました。
しかし4人の老中は対等ではなく、実質的には老中首座の意志に
他の老中が従うことが多かったようです。

しかし、たまに大老が任命されることがあり(通常は空席)、
大老がいる場合には、大老が幕府の最高権力者となります。

老中の任命・罷免については将軍が行いますが、実際は将軍は
老中首座(または大老)の進言をそのまま実行するだけですので、
老中首座(または大老)が実質的な決定権を持っていることに
なります。
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Q室町幕府の扱いについて

徳川家康が始めた江戸幕府について、「頼朝の鎌倉幕府以来の武家による政権」という言われ方がすることがありますが、この言い方だと室町幕府を除外して考えているようですが、これは、室町幕府は江戸幕府・鎌倉幕府と異なり武家による政権として何か不足していることがあるからなのでしょうか?江戸幕府・鎌倉幕府と室町幕府の違いがあるのなら教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
 もちろん、江戸時代からの判官贔屓体質や尊皇思想などさまざまな要因も影響しているとは思います。南朝を正統とした「大日本史」もそのようですし。
 さらには主に対して忠であるべし、とする儒学の思想も関係しているかも。

 とにかく戦前には室町時代の研究も盛んとは言えなかったのではないでしょうか。
 近年になって、参考で挙げた今谷氏を始めとして中世を専門とする研究家も増え、当時の文献も多数研究されてきて、かなり新しい中世像が生まれつつあるのが現状のようです。そう詳しいわけではないですけど。

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
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Q閣議決定というのは、中央官庁のトップを拘束するから、威力があるのでしょうが、、 なぜ、議会で諮らない

閣議決定というのは、中央官庁のトップを拘束するから、威力があるのでしょうが、、
なぜ、議会で諮らないのでしょうか?
諮るまでもないことだからでしょうか?

Aベストアンサー

三権分立を思い出して下さい。
「閣議決定」とは、三権のうちの「行政」としての最高意志決定機関である「閣議」での決定事項です。
閣議決定は、中央官庁のトップを拘束するから威力があるのではなく、行政のとしての(従わなければならない)意志決定として
非常に高い位置付けと意義があるのです。

あなたが言う「議会」とは「国会」のことでしょうが、それは三権のうちの一つ(「行政」・「司法」ではない、もう一つの「立法」)ですよね。

閣議決定のうち、国会の議決を経なければ効力を発しないもの(例:法律案)は、閣議決定後、国会に諮られますが、
国会の議決を経る不要のないもの(例:政令案)は、閣議決定のみで効力を発します。

要するに、「閣議決定のうち、その決定が効力を発するために国会の議決を経る必要があるかないか」、ただそれだけのことです。

Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

Aベストアンサー

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例...続きを読む

Q参考文献中の参考文献を参考にする?

レポートを書いているのですが参考文献の書き方に困っています。
ちょっとややこしくて説明になっているか不安ですが。。。

「(1)参考文献」として見つけたサイト中で
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それを私の参考文献としてレポートに書くとき、どのように扱ったらいいのでしょうか?

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それとも、その大本のサイトが参考にした「(2)サイト」を参考文献として書くべきなのでしょうか?

大本のサイトが参考にした「(2)サイト」を検索してみると、
会員制のみが見られる論文サイトのようで一般の人が見ることはできず、
結局、私が参考にできたのは、大本「(1)サイト」が参考にしたという引用部分だけです。

わかりにくてすみません。
アドバイスお願いします。

Aベストアンサー

一般的には(2)を読んでから参考文献にあげるべきだと思います。

ただ、レポートであれば(1)が(2)を参照していたということを書けばいいと思いますよ。

あとは、(2)を読んでいないのに(2)を参考文献に上げて読んだように見せかけるといったことも実際にはやられているようです(いけないことだと思いますが)。

(2)の著者にメールなどを出来る手段があれば、問い合わせるといったこともいいのではないでしょうか?

Q室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか

室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか「守護たちは独立して領地を治めていたため、幕府は山城の国一国からの収入しかなかった」などと書かれています。しかし、半済令などで減っていたとはいえ、全国から年貢を得ていたのではないのでしょうか。
また、幕府の年貢は守護請では「守護→荘園領主→幕府」と動いていたと思うのですが、それ以外の場合は「守護→幕府」と「荘園領主→幕府」の2重取りだったのでしょうか。
さらに、朝廷はいったい何を財源にしていたのでしょうか。荘園からの収入だけで成り立っていたのでしょうか。
素人なりに調べたのですが、今ひとつわかりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、素人でもわかりやすいように教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

私も昨年から中世に興味をもって本などを読んでいるのですが、ご質問のように幕府財政はどうなんだと余り考えたことはありませんでした。

当時は、「幕府」といっても、「朝廷」がなかり力を持っていましたし、全国を考えても、畿内、西国、東国とそれぞれかなり状況が異なっていたような気がします。ですから、全国一律に「幕府」が年貢を徴収できていたかと言うと、かなりバラバラだったと考えた方が良いような気がします。

荘園と国衙との二重構造で、荘園は御家人(地頭)や地頭代が直接管理して、中央政府に米や特産品の年貢や夫役を納めていたと思いますが、一方で、大量の宋銭の流入による貨幣経済の発達(幕府は鋳造しませんでしたが)、また日宋貿易の幕府独占による収入など、その“財政”の姿は、現代は勿論、江戸時代ともかなり異なっていたのではないかなとか思っています。

まあ、ぜんぜん、回答にはなりませんが、思っているところを少し整理させていただきましたが、わたくしもその点に注意しながら更に読書したいと思います。

Q性善説の立場から、仁・義・礼・智を重んじる有徳者による政治を説いたのは誰ですか?

性善説の立場から、仁・義・礼・智を重んじる有徳者による政治を説いたのは誰ですか?

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孟子

Q幕末の幕府と藩の関係

幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

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幕末には徳川幕府の権威も形の上だけで形骸化していました。
幕府に弓をひくような藩例えば長州藩に対し取りつぶしの処置もできず、武力により征伐するべく各藩に出兵を命じましたが親藩の指揮官の尾張藩ですら十分な兵力を用意出来ず、譜代や外様大名も同様でした。
その上旧式装備でしたから長州藩の新式装備、奇兵隊の活躍の前に敗北を重ねて進攻は頓挫する始末でした。第1次長州征伐は長州藩の内紛でなんとか勝利したのですが重役などを切腹させただけでそれ以上の処分は出来ませんでした。

この為第2次長州征伐が必要になったのですが、既に各藩とも戦意を失い、譜代大名の小倉藩の小倉城も落城、譜代の浜田藩も敗退し戦線は後退、膠着状態になる始末でした。

このように親藩譜代といえども全て佐幕派ではなくなっていました。
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Q性善説の立場から、仁・義・礼・智・を重んじる有徳者による政治を説いたのは誰か 教えてください(>_<

性善説の立場から、仁・義・礼・智・を重んじる有徳者による政治を説いたのは誰か
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Q鎌倉幕府の年号変更について

鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
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実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

Aベストアンサー

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、...続きを読む

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.


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