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司馬遼太郎が、韓国への紀行文で次の人物を紹介しています。

朝鮮の役で、日本人「沙也加」は上陸後すぐに朝鮮軍に降伏し、それに従軍した。
その後、武功を立て、ある地に住み着き、現在その地の住人は、日本人の子孫と自任している。

質問は、現在の研究では、日本人「沙也加」は実在していたのでしょうか?

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A 回答 (2件)

「沙也加」は日本人の個人名ではなく集団名で、足軽鉄砲隊


「雑賀」衆のことと考えられています。

朝鮮出兵は、海上では朝鮮軍と日本軍が直接戦ったものの、
陸上では様相が全く異なり、朝鮮軍は逃走して戦いらしい
戦いもないまま日本軍が進撃を続け、平壌まで占領します。
ところが朝鮮王から救援要請を受けていた明の皇帝が6万の
援軍を送ったことで、事実上、陸上では明軍と日本軍との
戦いとなりました。そして朝鮮軍は明の将軍の指揮下に入っ
て一部隊として戦いに参加したのです。

従って朝鮮側の司令官は明の将軍であり、降伏した日本側
兵士の処遇(殺すか生かすか)も朝鮮軍ではなく明の将軍が
決定していたのです。だからこそ降伏した足軽鉄砲隊は、
<われ中夏(中華)の文明を慕うこと久し>と言って明の
将軍に取り入った(そう言うように明側の兵士たちからも
勧められた)と考えられるわけです。
また、雑賀が自分たちのことを自称するときに「サイガ」
と発音したのが、明の人間には「シャイガ」と聞こえた
(サはシャになる)ので、これを当時の中国語発音で漢字に
当てて「沙也加」と表記したと考えられるのです。そして
「沙也加」が朝鮮語の発音でで「サヤカ」と読まれたわけ
です。

当時の諸大名に所属していた足軽鉄砲隊の集団には雑賀衆が
多く含まれていました。秀吉の紀州・雑賀攻めで降伏した
雑賀鉄砲衆は、多くの戦国大名家に鉄砲足軽として仕えていま
した。例えば徳島藩では城下の外れに今も「雑賀町」として
名残が残っていますが、各藩に散らばった後も彼らは雑賀衆
を自称し、鉄砲隊のことは「雑賀衆」と呼ばれていたのです。
鉄砲隊は貴重な戦力なので、当時の諸大名たちは秀吉に降伏
した雑賀衆を率先して登用していたのです。

尚、朝鮮の役からしばらく後に明軍と女真のヌルハチ率いる
後金軍とが満州の覇権を巡って争いましたが、この戦いで、
朝鮮の役で降伏した日本の足軽鉄砲隊が鳥銃(火縄銃)部隊と
して明軍及び明軍の命令で援軍として参加した朝鮮軍に参加
しています。しかし、朝鮮軍は連れて行った降倭の鳥銃部隊
を置き去りにしてとっとと撤退してしまったらしく、取り残
された鳥銃部隊は女真の捕虜となり、今度は女真(後の清)が
火縄銃の技術を取り入れ、鳥銃部隊を率いて明を征服する
ことになるのです。

朝鮮に残った雑賀衆の一部は先祖である雑賀衆の名を残すため
に「沙也加」と名乗り続けたのでしょう。朝鮮側の史料で
個人名としているのは、明軍から分け与えられた捕虜である
「雑賀衆」を自分たちに都合の良い歴史的エピソードとして
残すために個人名に変更した、もしくは元々明軍に投降した
捕虜のことなので経緯が混乱して個人名と錯覚された可能性
があります。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
1.<「沙也加」は日本人の個人名ではなく集団名で、足軽鉄砲隊「雑賀」衆のこと>なのですね。
2.<<われ中夏(中華)の文明を慕うこと久し>と言って明の将軍に取り入った(そう言うように明側の兵士たちからも勧められた)>のですね。
3.<明の人間には「シャイガ」>なのですね。
4.<朝鮮に残った雑賀衆の一部は先祖である雑賀衆の名を残すために「沙也加」と名乗り続けた>のですね。
(なお、司馬は、左衛門を書き間違え沙也加になった、と書いています>
詳細の説明ありがとうございました。
十分納得できました。

お礼日時:2021/11/04 08:43

>現在の研究では、日本人「沙也加」は実在していたのでしょうか?



日本側の研究では、沙也加は実在していましたが、
日本人「沙也加」は実在していた可能性は限りなく低いです。
韓国では実在していたとされています。

沙也加は朝鮮の正史である朝鮮王朝実録(宣祖実録)などに
記載されているので、実在は疑問視されていません。
しかし、伝承されている日本人であるかは疑問視されます。
 ・加藤清正配下を自称するが、該当する武将はいない
 (清正配下以外も3千人を統率して投降した武将はいない)
 ・日本側が圧倒的に優勢な緒戦に投降している
 ・投降したころの降倭(投降した日本人)は処刑されていた
 ・朝鮮軍に指導した鉄砲の戦術が全く生かされていない
 ・残された書簡の儒教精神が朝鮮でのものとほぼ同じ
等の理由で、日本人の武将ではないとされています。
司馬遼太郎は雑賀衆と言う説で、それなりの説得力はありますが
(雑賀ーサイガがサヤカになった、3千は3百の間違いなど)
あくまでも推理で文献などの裏付けはありません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
お礼が遅れて申し訳ありません。

司馬遼太郎は、根本史料の「慕夏堂文」について、それを発見した沙也加の6代目の子孫が、ひとびと語り継いできたことを手記としてまとめた、と言っています。
<加藤清正配下を自称するが、該当する武将はいない>について
司馬は、清正傘下の阿蘇宮越守かもしれない。彼は2000人ばかりをひきいていた。日本側の記録に<阿蘇宮越守というものが曲事あって(罪をうけて)高麗へ走り申候>があるそうです。
沙也加の動機は、<われ中夏(中華)の文明を慕うこと久し>。
ただし、上陸日が合わない。
軍事的に3000人が降伏はありえても、それだけの多数が一度に思想的に中華に参加することはないでしょうね。
動機や<儒教精神>は、手記をまとめる時に脚色したのでしょうね。

お礼日時:2021/11/03 13:19

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