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1. 輪は まるいからよく回るのであって よく回るから丸いのではない。

2. 人は 自由であるから不自由に抵抗するのであって 不自由を解決したから やっと自由になるのではない。

3. 人は すでに自然本性においてさとりを得ているゆえに 育ち成長する過程でまなぶのであって 知識を得て知恵をみがき修養することを経てやっとさとりを得るのではない。

4. 自然本性とは 《わたしはわたしである》である。

5. さとりとは 《〈わたしはわたしである〉わたしが わたしする》自由である。

6. この自由は わづかに社会を生きるという動態としてある。

7. 社会としての二角関係は わたしどうしのやり取りが生じる。マイナスの面では 思想ヰルスの――そう言ってよければ――売り買いがおこなわれる。

8. わたしの自由であるさとりは 《〈わたしはわたしである〉わたしが わたしする》という文体の内に推移し そこではいかなる思想をも整序しつつおさめる。

9. 思想が わたしするわけではない。


☆ ご見解をどうぞ。

A 回答 (31件中1~10件)

神道の根源様。

アメノミナカヌシとは、己の奥のみやですね。笑
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この回答へのお礼

まぁ そう言えるかも知れません。


独り身となって隠れたまひき。でしたか。

お礼日時:2021/11/21 10:18

私を巡る旅=巡礼。

生きるとは、私を巡る旅。巡礼ですね。
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この回答へのお礼

たしかに。

そして 聖所という言葉で言いましたが それは何も聖地巡礼だとか何番の札所だとかでは必ずしもなくて むしろわたしのわたしたる奥なる神の宮のことかも分かりません。

お礼日時:2021/11/21 09:33

仏陀。

存在するとは無限の覚醒。無限否定。慣性はよくも悪くも、自己の病に気づきません。ですから、これを疑い、否定することで、自己の宿痾に気づきます。その誤りから解脱するための否定の動態。それが覚醒なんでしょう。こういったところで仏陀とへーゲルが交差するんですよね。
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この回答へのお礼

★ 仏陀。存在するとは無限の覚醒。無限否定。
☆ では 《否定の論理》に対して 批判します。その説明方法についてです。

なぜなら 《覚醒するとき それまでのわれの状態を否定する》わけですが ではその《否定するわれの判断基準》は 何か? と問い返すことが出来ます。

元のわれなんです。じつは。

その記憶・知解そして意志という三つのハタラキから成るわが精神なんです。

判断基準は 潜在力としてにしろ 生まれつきの自然本性(身体と精神)にそなわっている。こう想定したほうが より実践的ではないでしょうか。



★ 無限否定
☆ だと いったいこのバスはどこ行きなのか? と問い返さなくてはならなくなります。行き先を明示して欲しいとなりませんか?

こうなります。

〇 ゴータマの文体たる方程式 ~~~

ブッダとは さとりを得た者。
さとりとは 苦から解脱すること。
苦とは さとりを得ていない状態。
解脱とは 苦から解放されてさとりを得ること。
~~~



★ 慣性はよくも悪くも、自己の病に気づきません。
☆ つまり 自己から逸脱した状態が 一たん見逃されそのまま生活していると 反復してクセになり習い性となる。自己還帰から遠くなる。


★ ですから、これを疑い、否定することで、自己の宿痾に気づきます。
☆ そのいまの状態について うたがうことは 重要でしょうね。


★ その誤りから解脱するための否定の動態。それが覚醒なんでしょう。こういったところで仏陀とへーゲルが交差するんですよね。
☆ その目覚めの契機は 何でしょう? 自己たる《 1 》――自己同一性――ではないでしょうか。

お礼日時:2021/11/21 09:30

私は私しない。

否定の動態が、私が私するに含む、矛盾の運動。改善、変身、生まれ変わり、改心。学習、教訓、体験、旅といった慣性への抗い。これらが人の軌道の円環を螺旋にするのですね。
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この回答へのお礼

★ 私は私しない。
☆ この表現での規定から行くと わたしはわたしするの中に 《わたしの休息をふくむ》という場合が 入るかと思います。

でも おっしゃるところは わたしを否定するところの《わたししない》ですね。

すなわち:
★ 否定の動態が、私が私するに含む、矛盾の運動。
☆ つまり もし実践においてわたしが 部分的に自分ではないようなわたしになっていたなら わたしはこれを否定する。でしょうね。つまり その気づきにもとづき 自己に到来し 自己還帰する。

部分的に欠けた自己 あるいは あらぬ自己に成り変わった自己は わたしであるわたしが 確かに否定します。


もっとも そういう場合も――存在は 基礎において肯定に始まり肯定におわるように思われ――やはり 《わたしはわたしである》という自己を自乗して難をしのぎます。

そもそもの自己(数として一(いち))に自己(いち)を掛けて 自乗します。
1x1=1^2=1 なわけです。自己還帰の方程式であり これは 自乗の繰り返しです。そのようにして わたしを保ち 自己形成して行きます。

また この方程式を生きることを 《文体》と言っています。

▲ 文は 人なり。文体は 人間なり。
Le style, c'est l'homme même.




★ 改善、変身、生まれ変わり、改心。学習、教訓、体験、旅といった慣性への抗い。これらが人の軌道の円環を螺旋にするのですね。
☆ らせん運動というタトへとして 上手に説明されているかと思います。

わたし(ぶらじゅ)の持説は わたしが言わば巡礼の旅に出るといったタトへになります。

わが精神は ふと道を折れてさまよう。それに気づいて 聖所を訪ねそこで自己に到来する。そういった巡礼の旅路ですね。そういう精神の遍歴ですね。
1x1x1x1・・・=1

ふるさとは 初めにあるんです。

お礼日時:2021/11/21 09:15

私は私であらぬ、という仕方で、絶えず人は成長します。

「否定」という動態が、私の変身、生まれ変わりであり、成長です。この否定の動態が、「私は私する」にはあると思います。「自己とは自己の否定において自己である」。へーゲルの動態人間観です。
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この回答へのお礼

★ 私は私であらぬ、という仕方で、絶えず人は成長します。
☆ あぁ。おもしろい観点ですね。

つまりそれは 精確には やっぱり理論と実践の問題ですかね。

理論としてのわたしは いまあるわたしであらぬ。

いま生活しているわたしは 理論としての(または 自己還帰した)わたしとは どうも少し違うようだ。ちょっと軌道修正してみるかな っていう場合ですかね。


★ 「否定」という動態が、私の変身、生まれ変わりであり、成長です。
☆ そうですね。

弁証法過程でもあるかと思いますが 別様に考えてみると そもそも初めに《わたしは わたしである》と――同語反復としてでも――規定したところから そのいわゆる否定が顔を出している。

すなわち もしその自己同一性でうたったわたしが 思考を加えて《何らかの見落としでわたしではない何かを 否定し除外してしまった》とすれば その生半可な自己規定を たしかに否定することになります。


まぁ 判断のあやまちを見直したと言えばそれまでなんですが 自己形成というのは 実践編で否定の契機もからみますね。




★ この否定の動態が、「私は私する」にはあると思います。「自己とは自己の否定において自己である」。へーゲルの動態人間観です。
☆ ですね。

ですから ヘーゲルは 精神現象学においても そうであったと思うのですが ただの此処なるわれから高い次元のわれへと 上昇して行きますが――そしてそれも 説明の仕方なわけですが―― いまここではわたし(ぶらじゅ)は 《すでに初めに わたしは わたしであり 自由であり さとりの状態にある》というところから出発しています。

たどりつける高いわれならば すでに潜在性としてでも生まれつきの最初からそのように成り立っている。と考えられます。

お礼日時:2021/11/21 08:54

わたしはわたしである



そうですね

これもまた
私の思想なのでしょう

では
私は今
何を考えているのでしょうか

私にはまだ難しいようです…
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この回答へのお礼

★ ~~~
わたしはわたしである

そうですね

これもまた
私の思想なのでしょう
~~~
☆ ありがとうございます。

そして ご回答をありがとうございます。



★ ~~~
では
私は今
何を考えているのでしょうか

私にはまだ難しいようです…
~~~
☆ こういうふうに捉えることが出来ると思われます。

両面があります。

理論として:理論としては 《わたしはわたしである》というそのわたし自身を 思い意識しその理論内容の――さらなる――実現を思っている。

実践編として:実践としては まさにその今置かれている情況を認識しその具体的な事態やら問題やらに対処してゆく姿勢について考える。

(あるいは 何も考えないで 休息をとっている)。

お礼日時:2021/11/21 04:26

宗教かなんかですか?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


どう思われますか?

お礼日時:2021/11/20 19:01

返り討ちで


正当防衛になればいいが、

罪に問われて罰を受けると詰まらぬ。

さらに仇討ち追手が来るとなると
詰まらぬ。
自分が処罰されたら詰まらぬ。

でも呪詛・呪殺なら、自分は手を下してないから
罪には問われぬでしょう。

その意味で、犯人より長く生きると嬉しくないか。

犯人の訃報が来れば、それを天罰・神罰と思うことですね。

丑の刻参りが叶っても、これは犯人に直接手を下した譯ではないので
罪にならぬか。

ただ「呪いのヒトガタ」を造り、呪いで相手を苦しめる現場を
見られると、
間接殺人罪に問われると詰まらぬから、

これはバレないようにやるべきか。恨まれますか。


まあこういう相手を造りたくないが、
虐めとか
反論者・邪魔者・妨害者の存在は障害ですね。
いなくなると自由ですね。

拉致被害者・他国占拠領土も還りますかね。

>9. 思想が わたしするわけではない。

どういう意味かな。ブラサンの考えでないという意味ですか。
誰かほかの人に意見で真偽を問いたいわけ?
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この回答へのお礼

★ 返り討ちで
正当防衛になればいいが、
☆ といった事態を問題にするとき さくらさんは 理論を前提にした上で その実践編を問うておられる。


★ 罪に問われて罰を受けると詰まらぬ。

★ さらに仇討ち追手が来るとなると
詰まらぬ。
自分が処罰されたら詰まらぬ。

☆ でも 理論としてはすでに自由であるわたしが そのさとりのもとに実践の場では 人びととの敵対行為やその結果がどうなるかやについて その不自由(シガラミ)を自己の自由なる文体の中に包み込んで 生きる。と言っています。


★ でも呪詛・呪殺なら、自分は手を下してないから
罪には問われぬでしょう。
☆ といった実践編での事態の推移が見られます。


★ その意味で、犯人より長く生きると嬉しくないか。

★ 犯人の訃報が来れば、それを天罰・神罰と思うことですね。

☆ といった気持ちは 人情の問題です。実践編にふくまれるかも知れません。



・・・
まあこういう相手を造りたくないが、
虐めとか
反論者・邪魔者・妨害者の存在は障害ですね。
いなくなると自由ですね。
☆ 基本としては 理論で批判するのがよいでしょうね。


★ 拉致被害者・他国占拠領土も還りますかね。
☆ 難問だと思っています。

☆☆ >9. 思想が わたしするわけではない。

★ どういう意味かな。
☆ 思想を鵜呑みにしているのではないか と問うています。

お礼日時:2021/11/20 18:13

3. 人は すでに自然本性においてさとりを得ているゆえに 育ち成長する過程でまなぶのであって 知識を得て知恵をみがき修養することを経てやっとさとりを得るのではない。



これは嘘。

さとりは育ち成長する過程で得るもの。
本性においては悟ってない。

たとえば、自分が危害を受けても
相手を傷つけたり、殺せば
今度は警察から犯罪者として追われる立場に立つ。
これは詰まらぬと悟る。追われることはばかばかしいと悟る。
だから、決して自分で手を下してはいけないと悟る。


そのかわり、相手(犯人)には自分より早く死んでほしいと祈り、
訃報が来れば天罰と思う。これなら、自分が罪に問われることはないから
神様、呪詛により天罰・神罰を与えてくれてありがとうと
感謝の祈りを行うのがいいと思う。
これにおいて丑の刻参りは効果あるかな。

でも、これらなら呪殺は手を下してないから罪には問われぬよね。

この意味で自分に逆らうとか反対意見・意に反したり逆らったりする
論者が死ぬと、邪魔者が消えたという意味で自由になり、
行く手を阻むもの消えて、望みが叶う場合あるので、
感謝する場合もあるかな。


>3. 人は すでに自然本性においてさとりを得ているゆえに 育ち成長する過程でまなぶのであって 知識を得て知恵をみがき修養することを経てやっとさとりを得るのではない。

これについては相手が苦しんで死ねば、喜ばしいということで
如何なる苦しみ方で死んだかを知れば、それが危害を加えた
ことによる神の罰であれば、当然の報いと言えるということで
呪詛が通じたことになろう。
その意味では短命を祈るべきか。
横田さんはさぞ無念だったろうな。


北朝鮮の将軍様は罰を受けて当然だろう。
早く罪を認めて
拉致被害者を全員帰国させるべきである。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ 3. 人は すでに自然本性においてさとりを得ているゆえに 育ち成長する過程でまなぶのであって 知識を得て知恵をみがき修養することを経てやっとさとりを得るのではない。

★ これは嘘。

★ さとりは育ち成長する過程で得るもの。
☆ ぢゃあ 潜在性として さとりが成っている。

★ 本性においては悟ってない。
☆ さとりの根っ子がそなわっており 芽はいつでも吹いて来る。


★ たとえば、自分が危害を受けても
相手を傷つけたり、殺せば
☆ 相手の意志をないがしろにして危害をくわえるというとき 心にヤマシサ反応が 必ず生じます。胸騒ぎが起きる。

すなわち すでに初めにさとりを得た状態であり それは 〔われも かれも共に〕自由という人間のあり方をしめしている。


★ そのかわり、相手(犯人)には自分より早く死んでほしいと祈り、
訃報が来れば天罰と思う。これなら、自分が罪に問われることはないから
☆ ヤマシサ反応は 起きませんか?


★ この意味で自分に逆らうとか反対意見・意に反したり逆らったりする
論者が死ぬと、邪魔者が消えたという意味で自由になり、
行く手を阻むもの消えて、望みが叶う場合あるので、
感謝する場合もあるかな。
☆ この事例は 人情というもののことです。



★ 北朝鮮の将軍様は罰を受けて当然だろう。
早く罪を認めて
拉致被害者を全員帰国させるべきである。
☆ はい。

お礼日時:2021/11/20 17:38

ドリカムがデビューした時に


コード進行上 終わった気が
しないと批判した方々が居ま
した

ザ・ブルーハーツ
終わらない歌
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


あたらしい曲調を出すのも 自由。批判するのも 自由。

よい判定基準あるならそれによって みんなに納得のゆく判断を下すのもよい。

お礼日時:2021/11/20 16:36
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