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戦時中の子供達の遊びを、詳しく教えてください。

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A 回答 (4件)

戦時中、空から落下してきたものには、B29やグラマンという戦闘機などから爆弾、焼夷弾(しょういだん)、銃弾(大人の親指大、何割かは爆発して火災の原因になる)とその薬莢(やっきょう)、アルミ箔のテープ(レーダ攪拌用、この時はラジオにザーザーという雑音が入っていました、日本にはそのようなレーダはなかったと思いますが?、何しろ八木アンテナの発明国ですから、、、。

この八木アンテナは、東南アジアへ進軍したときに、英軍が使用していて、初めて日本の八木博士の発明と分かったようです)。

 これ以外にも、敵機B27が高射砲で命中して、落下してくるのを見ました。そのあとはグラマン戦闘機による低空飛行による機銃掃射です。日本の飛行機は一機の見かけません。日本には殆ど飛行機が無かったようです。

それよりも、日本の飛行機の落下が多かったですが、小生の近所にも、赤とんぼという練習機、爆撃機、戦闘機がそれぞれ落下してきました。それは殆どがガソリンが粗悪だったからです。何しろ、飛行機用に、松ノ木から、ゴムの樹液を取るように、松脂を取っていましたから、エンジン不調になるのは当り前。

ogatanaさんが仰るように、これら落下物すべて、玩具にしていました。

一番大きな落し物は、原子爆弾でした。その落下して爆発する瞬間まで、遠くから、目撃してしまいました。当時は新型爆弾と言っていました。話がそれてしまいました。周りに経験者が居られないと言う補足がありましたので2度も書き込んでしまいました。
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この回答へのお礼

本当に有難う御座います。とても参考に、なったと感謝してます。(子供)

お礼日時:2001/08/31 22:34

墜落した戦闘機の風防ガラスの破片を、木などにこすりつけると甘い匂いがする。


それだけの遊びですが、父が子供の頃流行っていたそうです。敵機襲来下でも、小さな楽しみを見つけるもんなんですね。
参考URLで以前質問し、詳しく教えていただいたことがあるので参考になれば。宿題に間に合うかな?

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=6516
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この回答へのお礼

有難う御座います。参考になりました。ぎりぎり、宿題に間に合いました。

お礼日時:2001/08/31 22:43

 独楽(こま)回し、行軍将棋(大将、飛行機、戦車、工兵、間者などの駒がありました)、メジロ落し(籠に入れたメジロで呼び寄せ、トリモチで取る)、トンボ釣り(メストンボを1mほどの竹の先の1mの糸に括りつけぐるぐる回しながらオストンボが絡んできたところを取り押さえる)、



ゴム動力飛行機(模型専門の人が飛ばすと、空へ飛び立ったら二度と帰ってきませんでした)、草鞋(ワラジ作り)、おかご(長さ20cm位の竹を縦に割り、割ったところに切込みを2,4,6と入れ、それを畳の上に振って、数の大きさを競う)、

陣取り(囲碁のように、庭に自分の手で半円を描いて場所を取っていく)、葦の葉っぱでラッパ作り、竹笛作り、竹鉄砲(空気鉄砲作り)など数えれば限がありません。
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この回答へのお礼

有難う御座います。周りに、経験者、などがいなく助かりました。

お礼日時:2001/08/30 21:59

伝統的な遊びは基本的には変わらないと思いますが、遊びの種類が少なかったので、伝統的な遊びをする子供の数や回数は今より多かったと思います。


伝統的な遊びとは:タコ揚げ、駒まわし、縄とび、鬼ごっこ、びー玉、メンコ、
ゴム縄飛び、魚とり、石なげ、逆立ち競争、相撲、花いちもんめ、木登り、など。


戦争ごっこ(ノートに戦車、機関銃、兵隊などを書き鉛筆を使って進軍し敵を攻撃する)は時代を反映した遊びです。戦時中は12-3歳で子供らしい遊びは終わったと思います。
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この回答へのお礼

有難う御座いました。周りに、経験者などがいなく、子供の、宿題ができずにいたので、助かりました。

お礼日時:2001/08/30 22:22

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Q戦時中の子供たちの生活

戦時中の子供たちの私生活はどんな感じだったんですか。

Aベストアンサー

地方と都会で全く違いますね。
私の父は大阪市内の小学校で、学童集団疎開を経験しました。
都市以外の小学生はそういうことはありませんでしたし、そんなに食べ物に困ることはなかったみたいです。

 疎開も、先ほど上げた集団疎開と、田舎の親戚を頼る縁故疎開がありました。
集団疎開は文字通り一日中一緒に過ごすために、それこそめちゃきついいじめも多かったと聞きます。
それが何ヶ月も続くんです。大変だったと思います。

 縁故疎開は食べ物こそ困りませんが、都会の人間が田舎の小学校に通うことで、これもいろいろな差別があったみたいです。もちろん都会のこどもに対するあこがれも多かったとも聞きます。

 また本当に厳しかったのは1944年~45年の時期なので、ほんの数歳の違いで、集団疎開を味わった世代(尋常小学校)と、学徒動員された世代(高等小学校以上)があるみたいですね

Q戦争中の子供達、どうしているんですか?

小6の女子です。
今、国語の授業で調べているんですけど、
戦争中の子供はどうやって生活をしているんですか?
学校は、どうしているのか。食料は? 日本と同じような生活だったのか。・・・・・など。
戦争中の子供達に関することなら、大歓迎です!
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがあるたびに児童生徒が該当業に従事して、「しょうこんゆをとるから松の根を掘って来い」なんてやっていました。
疎開者には食い物はまずありません。その地区の餓鬼大将が配給食をほとんど略奪して、自分のつかいっぱしりに配ります。疎開者は略奪されるだけです。
疎開者が戦後学校の試験で一番を取ったことがあります。餓鬼大将がその児童を殴りました。半年後死亡しました。
都内からの疎開者は、略奪の対象に過ぎませんでした。

だから、「川魚」は食べられません(取ったらば食べる前に略奪され、半殺し。多くの場合には1-3週間食料を与えられず死亡)。カエルとか蛇とか地区の人間が食べない物が疎開者の食料でした。

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがある...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q"兵隊ごっこ"ってどういう遊びなんですか?ルールは?

戦前・戦中期の日本について書かれた本を読むと、当時の子供達の遊びに「兵隊ごっこ」というのがよく出てきます。当時の写真を見ると、子供達が野原で木製の銃を構えている様子がありますが、これは一体どういう遊びなのでしょうか?今のサバイバルゲームと違って木製の銃では弾は発射されませんが勝ち負けのルール等はあったのでしょうか?

Aベストアンサー

兵隊には階級があり、上官役の命令に従うのがルールですが、暴力行使などの命令には従わなくてもよいことになっています。体罰のような罰則はありません。今でいうなら、コスプレみたいなものでしょうか。道具などは、自分達で材料を集めて自分達で作ります。

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む

Q太平洋戦争時の衣食住について

小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。

Q戦時中、みんな何をしていたのでしょうか?

度重なる質問申し訳ありません。
戦時中について興味を持ち調べてみたところ、次から次へと疑問が噴出してきまして。
さて、今回の質問ですが。
まだ徴兵検査を受けていない、20歳以下の人達についてです。進学して学校に通っていれば、学徒動員などがあったようですが、小学校を卒業後に就職した人達はどのような仕事をしていたのでしょうか?
やはり、学徒動員するほど人手が足りなかったわけですから、彼ら学生に混じって軍需工場などに動員されたのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、12月8日には近くの神社へ必勝祈願のお参りをしました。
千人針を縫ったり、千羽鶴を織ったりして「武運長久」を祈りました。
山へ入って、松の根っこを拾い集めました。
松脂から松根油というのを作って燃料にしたのです。
大勢の男を湯船にいれ、おならをさせ、それを集めてメタンガスを作る実験があったとか無かったとか。
そんな話が、当時では笑い事ではなかったのです。

毎日のように防空訓練というのがありました。
防空頭巾をかぶって防空壕へ非難したり、バケツリレーで消火する訓練です。
出征する兵隊さんを日の丸の小旗を振って送り出すこともありました。

☆中学校、女学校

昭和に入ると、裕福な家庭や都会では、中学や女学校に入ることが多くなります。
いまとは違い、「男女16歳にして席をおなじゅうせず。」といわれ、男女共学ではなかったのです。
中学に入るとすぐ始まるのが、軍事教練と学徒動員です。
女学生の場合、看護訓練などもあったと思います。
軍隊から派遣された教官が中学生を心身ともにしごきあげます。
「一億一心」「鬼畜米英」「海行かば~」と、お国のために命をささげる訓練です。
戦火が激しくなると近くの工場へ学徒動員されます。
軍事物資の生産に狩り出されるのです。
しかし、原材料がなくなると工場の掃除や草むしりです。
動員された工場に爆弾が落とされ死傷者がでることもありました。

幼年兵学校というのもありました。
少年航空隊というのもありました。
予科練習生というのもありました。

☆「甲種合格」

男子は(多分)16歳になると全員徴兵検査を受けることになり、甲種、乙種、丙種に分類登録されます。
「甲種合格」といって喜んではいられません。
先ず最初に徴兵されるのは「甲種合格者」です。
密かに喜んでいたのが「丙種合格者」かも知れません。
しかし、戦争に行かずに街中をうろうろしていると憲兵に捕まり鉄拳制裁を受けます。
あの家にも、この家にも、次々と「赤紙」が届き「恩賜の煙草」を戴き徴兵されていきます。
「練兵場」という場所に集められ訓練を受けた後、戦場へと送り出されます。
しかし、送り出された兵士たちに、弾薬や食料はわずかしか送られません。
そんなものは現地で調達しろというのが「大本営」の方針だったのでしょうか。
旧厚生省調査によれば、日本人戦没者は310万人、内訳は軍人軍属230万人、空襲被災者80万人だそうです。
軍人軍属の犠牲者のうち半分以上は「餓死、病死」といいます。
「復員」した人の話では、蛇、トカゲ、蛙などはご馳走のうち、飢えを紛らわせるために靴の半皮に水を含ませてしゃぶることもあったそうです。
当時の日本の人口が6000万人だとすれば20人に1人が戦争で死んでいったことになります。

戦争末期には殆どの成年男子は戦場へ駆り出されました。未成年者も予科練や特攻隊に志願していきました。死を覚悟して。
沖縄では看護兵として狩り出された女子学生までもが、本土防衛のため、戦闘に加わって死んでいったそうです。

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、1...続きを読む

Q戦争中の食事

戦争中の食事についての新聞記事がのっているサイトありませんか?

Aベストアンサー

1945年は私が小学生4年頃です、政府の食糧配給計画は発表されますが実際はいつも欠配
です。そのため人々は買い出しのため田舎へ押しかけます、日ごとに買い出しの道のりがどんどん伸びてつらい思ひでした、何にも食べずに10キロ以上歩くのはあたりまえでした、
今思えばよく生き延びたなと感心します。粟 稗 高粱 麦 米などいわゆる穀類は皆無でありました
あと食べるものといえば農家が捨てるような野菜類を拝みたおして分けてもらい飢えをしのいだの
です、路傍の草などはとっくの昔に食べつくしていたのです。寝ても覚めても頭の中は食い物の
ことばかり、食糧を調達できない絶望感そして飢餓の体験は敗戦国民の一人としてタップリ
味わされました。今から67年昔のお話です。

Q太平洋戦争

今学校で
「太平洋戦争中の人々の暮らし」
について調べています。
ですが、思うように資料が集まらず苦戦しています。

もし、上の事柄について知っているかた、何でもいいので教えてください。
※食事や1日の生活の仕方 他・・・

Aベストアンサー

  人の暮しは、田舎か都会か、収入や資産のあるなし、周りに親族や知人がゐるか否か、その時の年齢、立場などで大きく變ります。先の大東亞戰爭の時、米軍の空襲を受けた町に住んでゐても、空襲で家が焼かれた人と、燒かれなかつた人とでも、暮らしぶりは大きく變ります。以上のやうな事を考へた上で、個人的な日記や記録、聞き書きを殘した場合、あるいは、國や市町村などで調べた記録などが殘つてゐれば、それが一番重要な資料になります。既に戰闘が止んで六十年になりますから、現在七十歳以上の人のみが、身近に經驗したことどもです。一番良いのは、ご近所や、身近の老人にお話を聽くのが良いでせう。朝は、何時頃起きて、何をして、朝ご飯は何をたべたかなど。そして、どんなものを着て、町の樣子はどうだつたか、子供の目で見た大人のやうすは、など、訊くことはいくらでもあるでせう。
  なほ、「太平洋戰爭」は、米軍の對日戰爭の通稱で、我が國では「大東亞戰爭」が正式名稱ですが、海軍は主に太平洋を戦場としたので、海軍の戰闘記録などでは太平洋戰爭といふ言ひ方を使ふ事があります。また、敗戰後は米軍により「大東亞戰爭」といふ呼稱を禁止されて來ましたので、大東亞戰爭を、無知で、あるいは故意に太平洋戰爭と言ひ替へる人もゐます。

  人の暮しは、田舎か都会か、収入や資産のあるなし、周りに親族や知人がゐるか否か、その時の年齢、立場などで大きく變ります。先の大東亞戰爭の時、米軍の空襲を受けた町に住んでゐても、空襲で家が焼かれた人と、燒かれなかつた人とでも、暮らしぶりは大きく變ります。以上のやうな事を考へた上で、個人的な日記や記録、聞き書きを殘した場合、あるいは、國や市町村などで調べた記録などが殘つてゐれば、それが一番重要な資料になります。既に戰闘が止んで六十年になりますから、現在七十歳以上の人のみが、...続きを読む


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