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徳川家康(竹千代)が織田家の人質になっていた時、仕えていた家臣や小姓などは誰ですか?
調べてもなかなか出ません。

そして、どんな状況で誘拐されましたか?
今川義元に人質として送られる時に誘拐されて方向が間違えていると気付いたというところは、分かっています。

その誘拐された時に、周りには家臣が居たけど竹千代だけ連れ去ったですか?竹千代が一人で居た時でしたか?どんな感じだったんでしょうか?
こちらも調べてもなかなか出ないので、どうかお力を貸して頂きたいです。

質問者からの補足コメント

  • ありがとうございます。

    その伝承があるのなら、それだけでも教えて頂きたくて質問しました。

    教えて頂けますか?宜しくお願い致します。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/15 15:57
  • 教えて頂きありがとうございました…!

    とても有り難いです!

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/15 16:16

A 回答 (4件)

『間違えて』とか『戸田氏の変心』とかは伝承に過ぎない。


後世の歴史小説家の脚色である。

江戸時代にも、現代でいえば司馬遼太郎のような歴史小説家はいた。
歴史家ではない、歴史小説家である。
小瀬甫庵の『信長記』(『信長公記』ではない)という歴史小説があまりに巷間に喧伝され、長篠の合戦の真相が闇に隠れてしまったのもその例である。
それらの「創作」が後世に伝わり、史実を覆い隠している。

三河武士団は、司馬氏が言うような一枚岩ではまったくなかった。
各勢力同士が抗争を繰り広げ「今日の友は明日の敵」を地で行く状態だった。

そんな中、家康の父広忠が三河を平定し各勢力の盟主の座に就いた。
主君ではない、盟主である。
各勢力は領地を基盤とする小国として存続し続けていた。

そしてそれらの勢力は今川同盟派と織田同盟派に分かれ、激しい主導権争いを演じていた。
家康の母於大が離縁させられたのも広忠自身が家来に暗殺されたのも家康がはじめ織田氏に次に今川氏に人質に出されたのも、そういう内外の情勢の変転の結果である。

「たまたま」の結果で織田氏に分捕られたなら、今川同盟派の勢力が黙っていない。
せっかく広忠が曲がりなりにも一つにまとめた三河はまた四分五裂し今川と織田の狩場になっていただろう。

繰り返すが三河武士団は一枚岩では全くなかった。
家康が各勢力を決定的に屈服させ三河一国を支配下に置き「徳川」を名乗るのははるか後年のことである。

この間の事情を「史実」として知りたいなら
『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(柴裕之、平凡社)
がいちばん良い。
これを読んでも憶測や不明点は消えないが、他の書物よりはるかに客観的学術的である。
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『今川義元に人質として送られる時に誘拐されて方向が間違えていると気付いた』


という伝承があるそうです
この回答への補足あり
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歴史学の研究課題として、ご自身で調査されるのが宜しいかと



伝承はありますが
事実か確認されてないでしょうしねぇ
この回答への補足あり
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資料に残っていません

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