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1. 心理的な(一時的・その場としての)気のタユタヒは 相手とのマジハリにおいて アース役を引き受けることをとおして起きる。ふたりいればどちらか一方が ゆづる側・アース役に回ることが多い。

2. 神経組織の働き方におけるエラーも もとは 社会における人間関係の中で アース役として人びとの怒りや悩みを受動的な人間力において――すすんでにしろ いやいやながらにせよ――受け留めたところから来ている。


☆ この仮説を問います。サイコパスの原因も そうではないかという含みがあります。




3. 器質にもおよぶと考えられるのは 親から子への世代を経てだと考えられる。つまり一代では その本人における心理的な渋滞にとどまる。

4. 親は家庭に戻ると アース役の一面でのつらさを そのたくましさと共に――進んで話すにせよ黙っているにせよ――醸し出すことをとおして配偶者や子どもたちと 共有すると思われるからだ。 

5. 手でも足でも 使わないままにしておくと 機能がはたらかなくなって行く。同じように 心理的な渋滞から 器質〔の変質〕にまでおよぶことがあると考えられる。いかにか? は科学の問い求めるところである。




            *



参考:
6.  アース力(りょく)は 《ゆづる》問題である。

 (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。

 (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。


7. 神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面に分けて捉えたと言う。

8. ▲ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー ―― in 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012
 
これによりますと 次のように《ちから》の内容・分析が捉えられています。

 (β) プラトン『ソフィスト』:
  《働きかける力( dynamis tou poiein ; dynamis energetike,
          potentia activa )》
  と
  《働きかけられる力( dynamis tou paschein ; dynamis pathetike,
         potentia passiva )》

 
9. (β)のうち後者を承けての系譜として:
 
 (γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:
   《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》
     (☆  pathein = paschein )

10. ただちに時間を飛びますが:
 
 (δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。

 (ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
        =邦訳:《担いの実り豊かさ》

11. ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。

 (ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:
     《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性
      ( passivité )》
     《いかなる受動性よりも受動的な受動性》



            *



12. 《社会源》と言うのなら 元から断たなきゃダメ。と共に 受け身のチカラを さらになお 開発して行こう。

13. 精神分析は ハウ・ツーなる対症療法にすぎない。

14. 哲学が あらゆる学問を――受け身のチカラにおいて――総合する役目をになうのではないか?・・・すこやか党宣言。

15. 第一条: アース役は ガミガミ役に対してもユヅリアヒの精神によって急がば回れの回り道をあゆんだ歴史であり 長い弁証法過程であった。

16. 吾人は めざめるべし。ブッダ(寝ぼけていない者)たるべし。

17. ニートや引きこもりは 未来社会をすでに映した・いまはそのネガ(陰画)であり やがてのポジへのどんでん返しをみのらせる魁だ。

A 回答 (1件)

他者の立場、利益を踏まえて、考え行動する、スミスのシンパシー。

日本人ではユヅリアイともうしてます。いや、そもそも道徳の本質とは、このことを言ってるのであって社会を穏やかにスムーズに過ごすのなら、互いの立場、利益のためにシンパシー、ユヅリアイを維持できることが市民あるべき姿でしょう。
けれど、手は、手として作業しないと手にならず、頭も心も使わないとその当のものにならないとエンゲルスは言ってました。
スミスは人の能力として道徳学者の立場からシンパシーの機能を指摘しています。が、これを他者との交わりの中で使用しないと、有るものもないに等しいですね。社会を共に生きる、そのための器と心の酌み交わしをしていくという実践は、公共のルールというよりも、一重に1人1人の判断と実行。倫理、エシックスの領域になってくるかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


けっきょく 《止まひ(病ひ)》論と同じだと気づきました。その《負の自由(裏返した自由≒病ひ)》を ミラーニューロン現象として相手から受け取った側に起こる事態についてです。


★ 他者の立場、利益を踏まえて、考え行動する、スミスのシンパシー。日本人ではユヅリアイともうしてます。
☆ 漏れ聞くところによりますと シンパシーは ルウソから受け継いだとか。《共感》では 浮動性の意味を帯びるようで 《同感》と訳されていますね。

世紀末には 《第三者の審級》が流行りました。大澤真幸がしきりにこれを今でも使っています。

ユヅリ愛は まだ判断を保留している恰好ですが 相手とともに互いにとってしかも人びと一般にとっても《同感》の得られる解決手を模索します。


★ いや、そもそも道徳の本質とは、このことを言ってるのであって社会を穏やかにスムーズに過ごすのなら、互いの立場、利益のためにシンパシー、ユヅリアイを維持できることが市民あるべき姿でしょう。
☆ 《話し愛》という道へとみちびきます。

政治は最高の道徳であると言って 日本の政治家は 不法行為を為す側をもこの対話の場にみちびき容れて よきにつけあしきにつけ《 compromise 》を模索する。


★ けれど、手は、手として作業しないと手にならず、頭も心も使わないとその当のものにならないとエンゲルスは言ってました。
☆ なるほど。


★ スミスは人の能力として道徳学者の立場からシンパシーの機能を指摘しています。が、これを他者との交わりの中で使用しないと、有るものもないに等しいですね。社会を共に生きる、そのための器と心の酌み交わしをしていくという実践は、公共のルールというよりも、一重に1人1人の判断と実行。倫理、エシックスの領域になってくるかと思います。
☆ コンプロマイズは 《リスクを負う・利益を損なう》といった意味合いを持つようになっています。同感には 一歩ゆづる妥協がしばしば必要でしょうか。

談合ないしカルテルも 特に中小企業の立ち場からすると 止むを得ないナラハシなのでしょうか? 

現実は むつかしいですね。

お礼日時:2021/12/30 03:41

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