アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

源頼家と実朝は、なぜ父、頼朝のように、東国武士の味方になって、あげなかったのですか?

A 回答 (3件)

源氏の悲願は平家に成り代わって天皇に妃を送り込み、朝廷を牛耳ることで、それは頼朝も同じ。



頼朝は、たった一人で坂東武士団に担ぎ上げられていた身。そして坂東武士団の朝廷からの独立という悲願があることは十分承知していた。だから、平家を打倒し、幕府の基盤が固まるまでは、自分の本音を隠して坂東武士団に同調していただけのことだ。

晩年の頼朝は、長女の入内を画策し、その死後は次女の入内を画策するなど激しく運動を展開したが、成功する前に急死している。
坂東武士団にしてみれば、入内が成功すれば源氏が平家に成り代わっただけの話で、坂東独立の話が怪しくなってしまう。彼らにとって頼朝のこのような行動は裏切り行為でしかない。
頼朝の急死は暗殺であったとしても不思議はないくらいだ。

頼家も実朝も、結局は父と同じ道を歩んで横死したということだろう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/01/12 22:31

究極的な結論から言えば、東国武士たちにとって「頼家も実朝も必要なかった」と言うことです。


当時の武士はいわば農民の親玉なので、自分たちの支配権を「京都政権」ではない権力構造によって認めてもらいたかったわけで、その組織は、「京都政権」とは別の「武家のルールに従った組織」であれば、だれが将軍でも構わなかったわけです。重要なのは「本領安堵と新恩給与」であり、鎌倉幕府が内紛で将軍が殺されようが、将軍が変わろうが自分たちの「本領安堵と新恩給与」さえ保証してくれれば、そうした事は、大したことではなかったわけで、誰が将軍なのかと言うより、幕府が本領安堵するために作った政所や問注所の人事が重要になっていきます。
特に頼朝と言うカリスマ亡き後は、将軍の役目は形式化します。その隙を突こうとしたのが後鳥羽上皇で、承久の変をおこしましたが、武士にとっては、将軍は形式的であり「本領安堵が重要だ」と言うことが分かっていなかった後鳥羽上皇が大敗したのは当然でしょう。そうした事の結果出されたのが「貞永式目」でそこには「京都の公家のルールは変える必要はない」と明確に示されています。北条氏をはじめとして、初期の幕府は権力や指揮系統が安定していなかったのですが、1200年代中ごろには、安定した権力構造になっています。
    • good
    • 0

そういうことじゃないよ。

すべての責任は、子を設ける時期が遅く早すぎたのに急死を遂げた源頼朝にあるのだ。鎌倉幕府が成立したといっても源頼朝自身が盤石の支持基盤を得ていた訳ではない。第一人者を朝廷に認められていただけで東国武士が源頼朝を擁立した訳ではない。まして子供の頼家と実朝の味方などどこにもいない。実力者は、北条氏であって源氏ではない。ところが頼家は実力者の北条氏を敵に回してしまう。東国武士がどちらにつくかとなると当然のように北条氏支持に回る訳だ。そうして源頼朝の血筋は、あっけなく絶えてしまった。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!