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終戦間際
日本が空襲受けまくってた時って
日本の周りアメリカの空母だらけだったってことですよね?
迎え撃てなかったんですか?
ハワイから軍艦おくりまくってたんですか?

質問者からの補足コメント

  • 軍艦だらけなら上陸したほうが早くないですか?

      補足日時:2022/01/15 08:11
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A 回答 (10件)

B29による爆撃は日本の迎撃戦闘機や高射砲が届かない高高度から行われたので、日本側はほとんど「なされるがまま」だったようです。

B29には迷彩塗装が施されていない事からも「日本はB29を落とせない」と見られていた事が分かると思います。
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本土空襲は1942年4月に空母ホーネットから出撃したB25爆撃機による


ドウリトル空襲が最初です。

これ以降の爆撃は、1944年6月にB29による八幡製鉄所爆撃に始まり、
11月の本格的な爆撃から、1945年3月の東京大空襲や終戦までの
各都市の無差別爆撃へと至ります。

本土爆撃は、B25 によるドウリトル空襲を例外として、全てB29で
行われました。
B29の出撃基地はマリアナ諸島のサイパン、テニアンおよびグアム
島の五つの飛行場からです。(B29は空母には大きすぎます。)

1945年3月に、日本軍が南方防衛と対マリアナ諸島の米軍動向監視
基地として使っていた硫黄島が陥落します。米軍はこの島を日本爆撃
時に損傷や故障したB29の不時着基地として使用します。
(2251機が不時着しています。日本軍の迎撃による損傷が激しく
硫黄島まで辿り着けず不時着水した機の乗員は潜水艦で救助されました。)

硫黄島は、爆撃機を日本上空で日本の迎撃戦闘機から守る航続距離の
長い護衛戦闘機の発進基地と成りました。

日本周辺の制海権と制空権を獲得した米英は空母群を日本近辺に進出
させました。かれらが搭載していたのは護衛戦闘機と小型爆弾も投下
できる戦闘機でした。艦載機の目的はまず爆撃機の護衛でした。
その主な目標は日本軍飛行場と特攻基地の破壊でした。機銃掃射が
広範囲に行われました。
(戦後の米軍将官の証言では、破壊攻撃はその目的を達成できなかった
とされています。)

迎え撃つ日本軍も無能だったわけではありませんが、常に後手を踏み
規模も小さくバラバラでした。(今のコロナ対策と似てますね。)

開発されたばかりのレーダー(電探)を各地に配置し、侵入してくる
B29の位置と数、予想到着時刻を把握していました。これに基づいて
空襲警報や出撃指令が出されました。

迎撃に当たる戦闘機部隊には腕の良いパイロットが集められ、戦闘機も
改良した物や新たに開発された機種が当てられ、個別の迎撃戦闘では
互角以上の戦果を挙げています。しかし、備えのある基地と戦闘機の
少なさで日本の全都市をカバーするのは無理だったのです。
(WikiのB29の項を参照してください。)

当時の防空部隊に配備された高射砲は超高度で侵入してくるB29には
届かず、タマに当たる程度でした。改良は行われていましたが、間に
合いませんでした。レーダーとの組合せ射撃も始められてはいます。
しかし、硫黄島からの護衛戦闘機を伴ったB29の低空爆撃が始まると
ある程度の成果はあったようです。
B29を確実に狙える高射砲は2基が試作された段階で敗戦と成りました。

余談です。
20年ほど前に父が亡くなった時に、田舎から参列した親戚が「懐かしい
ここに来たのは何十年ぶりだろう」と言ったのです。不思議に思い
尋ねると「ここの高射砲部隊に居た」と応えるのです。
彼の話です。
彼の所属する中国戦線では珍しい高射砲部隊に転進命令が出ました。
南方に送られそこで死ぬと云うもっぱらの噂でした。思いがけず東京
近郊の小さな村に配置され「諸君は帝都防衛の任を負う」と訓示され
ました。近くの神社のある小高い丘に高射砲陣地を築いたり、休みの
日は隣の街の遊郭に冷やかしに行ったりしていたそうです。
近くには陸軍が飛行場を建設中だったそうです。
彼の部隊が活躍する事も無く、飛行場が使われる事も無く敗戦となり
ました。
その小さな村は無計画に大きな街になりました。近隣の町村には、
防空指揮所や迎撃戦闘機を爆弾や機銃掃射から護る掩体壕等の戦史
遺跡が散在しています。

何事も成り行き任せで後手後手に回る日本体質は今も変わっていない
ようです。
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>日本の周りアメリカの空母だらけだったってことですよね?



あの大きなB29が空母で離発艦できるわけがない。終戦近くに日本本土爆撃が増えたのは、グアムやマリアナが陥落して、そこから爆撃機を飛ばしたから。

既にグアムやマリアナの制空権は米軍が抑えたから、そこへの攻撃も成功しない。あるのは本土上空や近隣で迎え撃つことだけ。

日本は夜間迎撃機が限られていたので、夜間爆撃任務のB29はさほど迎え打てなかった。高度を保たれれば日本軍機はそこまで上がれず、米軍護衛機は性能が上回っていた。何より、B29同士が接触して墜落事故を起したり、上空のB29が落とした爆弾があたって墜落するB29がいたぐらいの密度でやってきていたので、残存数、能力が劣った陸軍機も海軍機も焼け石に水だった。
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B-29爆撃機による初めての空襲は、1944年(昭和19年)6月に八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われました。

 成都からの爆撃はB-29航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料輸送の困難のため出撃回数も限られていました。 このためにアメリカはマリアナ諸島を攻略し、テニアン島などに大規模な航空基地を建設すると日本本土の大半が攻撃可能となりました。 因みに、広島・長崎に原爆を落としたB29も、テニアン基地から飛び立ちました。 空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われました。 その後、米軍は中国からのB29の爆撃をやめてその部隊をマリアナに合流させました。 1945年4月7日以降は硫黄島配備のアメリカ陸軍のP-51やP-47、イギリス海軍空母艦載機のスピットファイアなどの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行いました。 硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地として重要でした。 高高度を飛行するB-29の迎撃には高高度戦闘機が必要であり、日本陸軍では2,000馬力エンジンの「疾風」が1945年に入ってから使用されるようになりましたが、高高度性能は他機より良い程度で依然厳しい状態でした。 そこで高高度性能を持つ百式司偵を武装し、これも防空に使用しました。 夜間邀撃は従来の昼夜兼任から「屠龍」などによる専任部隊が設けられました。 海軍では、零戦はカタログ値では1万メートル以上上がれることになっていましたが、実際は陸軍機と同様に高高度では活動が困難でした。 局地戦闘機は、「雷電」も最初は高高度性能が厳しかったものの、プロペラの改善で高度1万メートルを可能にし、「紫電」は空戦性能に優れていたので対戦闘機に回されました。 しかし護衛のP-51は高度1万メートルでも運動性が低下せず安定して703キロメートル/時を発揮することから、護衛戦闘機を振り切る高速な局地戦闘機として震電の開発が行われましたが間に合いませんでした。 大戦後期には、新型の高射算定具や要地防空用に電波標定機(陸軍開発の射撃レーダー)・防空指揮通信機・特種指揮電話機などが配備されていたため、射撃精度は従来より向上していましたが、高射砲も性能不足・門数不足・電波標定機不足により、ナチス・ドイツのような強力な迎撃を行うことは出来ませんでした。 重高射砲である五式十五糎高射砲も開発されましたが、2門が製造され末期に配備されたにとどまりました。 先進兵器の開発も進められ、ナチス・ドイツの技術供与でロケット戦闘機「秋水」や陸軍のジェット戦闘機キ201「火龍」、ビームライディング地対空誘導弾奮龍の試作や計画がされましたが、残念ながら終戦に間に合いませんでした。
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空母を常駐させるのはコスト高なのと使える機体が限られるので


グアムや硫黄島から飛ばします
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日本は島国で資源に事欠いていましたから、燃料(石油)も金属(鉄など)もすぐに尽きて戦えなくなったんです。


戦争が終わって周りを見渡すと、たとえばガードレール(当時は鉄パイプ)の鉄は全部むしり取られ、兵器にされていたという記憶が鮮明にあります。

終戦間際は日本はヘトヘトになっており、とても戦える状態にはなっていなかったんですよ。
ソ連(当時)とは不可侵条約(のようなもの)を結んでいて、当初は日本に侵入してきませんでした。ですが、日本がヘトヘトになって戦える状態になっていなかったことを見計らって、日本に侵入し易々と領地を占領したわけです。
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中、朝鮮の方?

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本土空襲は、サイパンや硫黄島、中国辺りの飛行場からですね。


B29重爆撃機は空母に搭載できません。B29は主にサイパン方面から、護衛戦闘機は長距離を飛べるP51ムスタングを使い、硫黄島から飛来しました。

閑話休題、その頃の日本帝国海軍は、事実上壊滅状態です。
多くは撃沈され、残存艦隊は燃料切れで大規模な艦隊行動は出来ませんでした。

大規模な艦隊行動は、栗田艦隊のレイテ湾に向かった出撃が最後です。
しかし、栗田艦隊は直前で反転し、旗艦の戦艦大和はブルネイで石油を満載して本土に帰港しました。その時の日本は、輸送船も不足し、大和を輸送船として使わざるを得ないほど本土は石油が不足していたわけです。もう艦隊を組んで出撃できる燃料がありませんでした。

その大和も自分で運んできた石油の一部を使って沖縄特攻に行き、撃沈されてしまいました。

合掌。
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>>日本の周りアメリカの空母だらけだったってことですよね?


迎え撃てなかったんですか?

真珠湾攻撃の頃は、日本海軍もベテランパイロットがそろっていたし、米国のほうはドイツがいるヨーロッパ戦線のほうが重要だと考えていて、「日本なんてのは後回し、軽く潰せるぜ!」っていう絵を描いていたみたいですね。(まあ、国力差から、そう考えるのは当然だったでしょう)

日本軍ってのは、「気合いでがんばれ!」で技術面での改善を無視するとか、ミッドウエー海戦での大敗北を日本国民に隠蔽するために、その戦いに参加して生き残った日本兵を、他の日本人と接触させないように人員配置したりとか、作戦で負けた原因を分析せず、次の戦いでも同じミスを続けていた。
それに対して、米軍は、常に作戦の流れを記録して、問題点があれば、次回の作戦行動を変更していた。
さらに新兵器の開発にも頑張っていましたからね。
元米軍の方は「日本軍は、戦い方の反省を全くしない!」なんて述べられていましたのが印象的でした。

日米とも「空母が重要!」と認識されてきたとき、米海軍は、戦いがあるごとに空母の防御力を強化しました。
また、空母を守るための護衛戦艦の攻撃力も飛躍的に向上しました。
レーダーによる自動照準の機関砲や、近接信管によって、敵機の近くで自爆する砲弾などで撃墜効率が飛躍的に向上したようです。

日本軍機が空母などを狙って来襲したとき、防衛にあたる米戦艦の砲火があまりに激しくて、米軍の僚艦から「貴艦は炎上中なのか?」と問い合わせがあったくらい対空砲火が凄かったようですからね。

だから、日本軍の攻撃機が空母に接近するのは、とても困難になっていたのです。

そして、映画「この世界の片隅に」で描かれたように、戦争末期には、もう防衛にあたる航空戦力も乏しくなっていたし、軍艦なんかも米軍の機雷が沢山敷設されていたから、外海に出ていかれない・・・。
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飛行機無いし、制空権無いし、レーダー無いし。

燃料無いし。ドーニモデキン
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