A 回答 (15件中1~10件)
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No.18
- 回答日時:
お礼コメントを踏まえてですが、赤穂浪士側も浅野内匠頭の狼藉に義があったと考えていたわけではありません。
あくまでも「吉良上野介も処罰されるべき」として討ち入りを実行したわけです。とは言えこれは公儀の裁定に物言いを付けているわけですから、結果的に「公儀に歯向かっている」と言う事になるわけですが、前述のように赤穂浪士側は「公儀に歯向かうものではない」と言う旨アピールしています。また詳細は省きますが、万一吉良上野介を討ち取れなかった時にも吉良側が非難されるよう手を打っていました。
No.17
- 回答日時:
実際にどう判断されるかはともかく赤穂浪士側は「公儀に歯向かう意志はない」と考えており、また実際にその旨アピールしていたそうです。
なお赤穂浪士事件は「仇討ち」とされていますが、近年「仇討ちではなく死んだ浅野内匠頭本人に吉良上野介を討たせる」と言うのが真の目的だった事が明らかになったそうです。どう言う事かと言うと、討ち取った吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に置いて刀を当てて「浅野内匠頭本人が吉良上野介の首を斬った」としていたそうです。
ありがとうございます。
公儀に歯向かう意思はないのであれば、公儀の裁定に従うべきではないでしょうか。現実に「仇討ち」を実行した時点で謀反人の誹りは避けられません。しかも、浅野長矩は将軍の御殿内で抜刀し、吉良侍従を殺そうとした大罪人です。そこにどんな「義」が存在したのか・・・
それが私の質問の趣旨です。
No.16
- 回答日時:
> 公儀に逆らうのが義というのは論理性に欠けると思います。
「公儀」
江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。ただし、地方では藩を指して公儀と呼ぶ習慣も残り、幕府のことを「公儀の公儀」と認めて特に大公儀(おおこうぎ)とも呼ぶようになったのは寛永期以後と言われている。
武士は、江戸時代の場合、直上の地位にあるものに義を思うことがあっても、直参旗本でもない、いわゆる陪臣や中間、小者には、幕府は「義」の関係があるものではないです。
親子とか、義兄弟とか、師弟の関係にあれば、義は出来ます。
家主と店子でも、主と奉公人でも、人間関係には、義が付きまとうことが多いです。
通りがかりでも、「助けよう」と思えば、「義を見てせざるは勇なき」とも思ったかもしれません。 義というのは、本人が感じる感じ方のようなもので、制度上のものではないです。 男気、侠気、義侠心のようなのは、文化が醸成する感情の方向性のある種のものを言うだけです。
江戸時代にもお家騒動のような、藩内(家内)などでの抗争はあって、それぞれの抗争に組み込まれているものたちは、義を自分流にそれぞれの人が適当に建てていたのです。
現代でも、正義は人によって、集団によって違うのです。 役所の中でも、企業の中でも、スポーツ団体、暴力団、政党、宗教団体、どこにも、それぞれ、自分流に義を建てて、自分の行動選択の指針に利用することがおおいのです。
No.15
- 回答日時:
回答のNo.1~No.4が見当たらないですが、、、、削除されたのでしょうか。
日本で、名前に「義」がつく人は男に多く、どうも「立派な人物」であるとか、あろうとしているという気持ちが、結構あるようです。 もちろん親や名付け親から一字もらってということも多いのでしょうが。 あっちにふらふらこっちにふらふらしたりしないで、剛直というか、多少気負うとことがあって、自分を曲げない、他人に依存/従順とは違う生き方を選ぶようなことがある気がします。「見てみぬフリをする、利に走る、強きにつく、安逸な生活を求め、危険や苦労は避ける」のを"よし"とはしないのでしょう。 この"よし"も"義"と通じるのでしょう。
年齢で言うと中年や老年よりも若年、身分や暮らしでは上級中級よりも下級の方が、"俺の生き方"を強く意識していることが多いです。 ダンス、ミュージック、遊び、流行に強く傾く人の割合をみてもわかります。 昔のヤンキー、不良、暴走族、○○族などもそうだし、結構、仲間集団をつくって行きます。 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて「かぶき者」と言われるものがいて、派手な服装を好み、立髪や大髭、茶筅髪、通常の物より長い大太刀や長脇差、朱鞘、大煙管などの異形・異様な恰好をして、個人で動くだけでなく、徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いたそうです。 そして、中間や小者といった武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だったのだそうです。 まあ、変わり者、異端児的なのですが、男伊達な生き方だと思われて、人気が出たり、そういうのにあこがれる人も増えて、寛永期頃から江戸には旗本奴、町奴という人も出たそうです。 旗本奴は幕府から取り締まりの対象にされ何度となく多数の切腹者をだしていますが、何度もまた盛んになり、ついに、1686年頃旗本奴・町奴の一掃が行われて、大規模な集団は出来なくなったらしいです。
旗本の家でも、次男三男は将来がない、武勲を上げるような機会もないとなると、若年であれば、かぶいたり、群れて、派手に立ち回り、粋がる方向にならざるをえないでしょう。 まして、中間や小者として、雑役のような仕事しかなければ、突っ張ることが出来る機会があれば、そっちにシフトしがちです。 名目として、義に生きる、義を重んじると、仲間内での風潮もでるのでしょう。
吉良邸討ち入りは1703年1月、元禄の終わり頃です。
播州赤穂は、塩を名産にして財政を建てていたようです。 で、藩内の流通には藩札を流通させ、金銀貨幣は城内に蓄える政策だったそうです。 藩士も住民も藩札という紙をあてに生活していたのです。 さらに、元禄期でも状況は厳しかったようで、松の廊下刃傷事件のとき、勅使の饗応費用捻出が必要ですが江戸で使う(藩札は使えません)ので、500両を塩の先売りなどの一種の借金で調達し、別途京都の綿屋から200両を借入し、という状況だったらしいです。 下級の侍やその侍に使われている中間や小者には、先の給金、所得の見込みはたたないでしょう。 かといって、この地域では塩関係の仕事がメインですし、百姓、漁民、町人に雇ってもらう転職のようなことは、プライドも邪魔してできないでしょう。 松の廊下で殿様が切腹、藩の成り行きでは藩札はただの紙切れになる恐れがあるので、藩札を金銀貨幣に交換できる状況を作らねばならなかったのですが、流通藩札12000両分、城内のたくわえ金銀通貨7000両、状況は大変でした。 そして、新しい赤穂藩は永井直敬の家臣が運営・取り仕切るのです。 浅野家の元家臣の下級の中間や小者にとっては、自分の生きる道がないも同然でしょう。 「忠義・義」を名目にすれば、特攻でも討ち入りでも、生きる道を見つけて、張りが出るのだと思います。
No.14
- 回答日時:
山鹿素行という儒学者がおりました。
彼は次のような指摘をしていました。
百姓は米を作り、職人は鍬を造る。
証人は物を動かし、それぞれ
社会の役に立っている。
しかし、武士はどうだ。
武士の存在価値、如何。
武士の存在価値は町民達の模範と
なることである。
義の為には平然と命を捨てる。
こんなことは武士にしか出来ない。
そして、大石内蔵助は、山鹿素行の
弟子でした。
主君の仇を討つ、という義の為に平然と
命を捨てる。
それ自体が全体としての、義、 だったと
思います。
当時の武士は、知識階級だったのです。
心ある武士は、武士の存在価値に
悩んでいたんだと思います。
No.13
- 回答日時:
とても難しい問題で、事件の起こった直後から多くの学者が論じた問題です。
江戸時代は「儒学」特に朱子学が重んじられ、その原理によると「主君」の無念を晴らすのは美徳であるという考え方がありました。さらに言えば「赤穂藩」の藩士は幕府に仕えているのではなく「浅野家」に仕えているので、「主君」とは「将軍」ではなく「浅野内匠頭」と言うことになり、彼らは朱子学の教えに従った武士の鑑と言うことになります。そこに「義」という徳目が生じるわけです。つまり血縁の無い上下関係の行動原理として正しいとしたわけです。一方、幕府は「戦国時代の意識」から脱却すべく「文治主義」を目指していました。つまり「法」による支配の意識を日本中に拡げると言うことです。ここに幕府統治の矛盾があります。精神論としての「義」と統治論としての「儀」が存在し、後の「水戸学」や「尊王論」を生むきっかけとなったのです。現代の視点では「赤穂浪士」は当然法を破った「悪人」と言うことになりますが、当時から今に至るまで、主人の無念を晴らした「義」の人達と言うことになっています。因みに事件後多くの藩が「義士」たちを召し抱えたいと申入れがありました。
No.12
- 回答日時:
No9です。
>何に基づいてそう仰るのですか。私の認識では、元禄期は法秩序を重んじていたと思います。
その法秩序の中に仇討ちというのはきちんと位置付けられていたのですよ。
武家の当主が殺害された場合、その嫡子が敵討ちしなければ、家名の継承が許されないとする慣習さえ広く見らました。仇討ちが禁止されたのは明治6年です。
忠臣蔵は主君の死の復讐として吉良上野介を討ったのですが、これが仇討ちなのか、単なる復讐なのか、幕閣内でも赤穂浪士の処分について意見がわかれました。結局正当な仇討ちではないという結論になりつつも、武士の面目を保つことで切腹となったのです。(武士でも犯罪なら通常は斬首です)
以下ウィキから一部抜粋しますね。
----以下引用----
敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、主君や直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行った日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。
敵討(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E
No.10
- 回答日時:
「喧嘩両成敗」の原則が守られなかったことに対する抗議。
喧嘩両成敗は、争いごとは双方に非があるという法理論。
赤穂藩士は主君に非があることは認めざるを得ないとしても、自分たちに科せられた主君の切腹と改易(赤穂藩の取り潰し)という究極の重い判決に対し、吉良は全くお咎めなしという裁きに驚き、猛烈に怒った。
公儀が法の大義を無視したわけだ。だから幕府が公正な裁きをしないことに抗議し、大義を全うするために討ち入りし、上野介の首を取ったということになる。
これが赤穂浪士側の大義だ。
そもそも、浅野はなぜ吉良に斬りかかったのでしょうか。
将軍家の御殿の中であんなことをすればどうなるか・・
それ程分らなくなるくらい狂っていたんですかね。
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徳川家が代々征夷大将軍として君臨した時代に「幕府」という言葉はなかったと聞きますが、いかがでしょうか。
>回答のNo.1~No.4が見当たらないですが、、、、削除されたのでしょうか。
さあ、知りません。少なくとも私は一切関知しておりません。