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平家の政権が、うまくいかなかったのは多くの荘園を持ち、全国の国司の半分を独占し、さらに地方の武士達の土地を保証しなかったからですか?やはり土地の問題が、大きいですか?

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A 回答 (3件)

当時の武士と言うのは武装した農民集団を束ねていた土豪と考えればわかりやすいと思います。


京都政権が全国の農民たちを「税を徴収する対象」としか見なかったことに、全国の農民は不満を持っていました。簡単に言えば次々とかわる国司・様々に寄進される荘園、そうした事により農民たちは過剰な負担に苦しんでいました。武士に対して農民は、自分達と中央政権の橋渡し役を期待したわけです。ところが、平氏政権は中央政権側に立つ政策をとったことで、農民の支持を失ったと言うことです。その一つが質問者の方の指摘だと思います。「一所懸命」に自己の土地を守り豊かにした武士団の土地を取り上げたり過酷な税を要求していた貴族とかわらない平氏の政策に失望したと言うことでしょう。
頼朝が多くの武士たちに本領安堵を行い、武士の土地所有権を「京都政権と別なシステム」で認めたことが、鎌倉政権の成立と継続を多くの武士が支持した結果となったと思います。後白河・後鳥羽・義経と言った人たちは「平氏政権」に混乱の原因のすべてがあったと考えていたような命令や行動をとっていたため、結果的に武士の支持は得られなかったわけです。「義経の死」「承久の変」での結果は当然と言えば当然であったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/01/30 14:02

平氏一族は一枚岩ではありませんでした。


隆盛していたのは、伊勢平氏なのです。
平清盛は日宋貿易で得た富を使って、官位を貰い、朝廷内を騒がした
程度なので、平家の政権と呼べるか疑問ですね。
この頃は、天皇家、平家、源家、共に親子、兄弟で争う政治的に
不安定な時代で、その間隙を縫ってのし上がった、平清盛の手腕は凄く、
武家政権への扉を開けました。
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平家の政権が、うまくいかなかったのは、


「平家が、多くの荘園を持ち、全国の国司の半分を独占し、さらに地方の武士達の土地を保証しなかった」
ということとは、関係がないです。

平氏が隆盛を誇ったころの武士達の位置は、まだ領主的なものはすくなくて、どちらかと言えば、雇われ軍人的なもののようだったらしいです。
各地に武士は育っていたものの、中央との関係で損得が決まるというよりも、各地の地場勢力に留まるもののようで、中央で誰がどのように権力を持つかは関係がなかったようですが、上皇や高級公家が競って寺を造営し、その財源などを地方から調達するので、大きな負担になっていたようです。 後白河などの勢力には、困っていたという実態はあったでしょう。
平安時代末から鎌倉時代はじめを生きた相模国の西部出身の秦野盆地を中心に繁栄した波多野氏の一族に武士に河村義秀という人物がいて、弓馬の達人でもあったのですが、源頼朝が後白河(第三皇子の以仁王)に唆されて挙兵したときには、当時、他の多くの武士と同様に平氏方に入っています。 関東でも基本的にこのようでした。 西国では当然に平氏側が大半です。平氏が嫌われていたのではないようです。 

ただ、いろいろな戦い(中央の勢力争い)に絡んで功績を挙げると、大きな恩賞をえられ、ただの軍・武将というのではなく、公式に領主になれるということを示されたので、これを好機に、中央の院に与するというムーブメントが、蜂起を促す令旨を受けた武士に起きてしまったのでしょう。 それが、富士川の戦いでの甲斐源氏の挙兵になり、富士川の戦いで平氏の討伐軍が敗戦した(天皇が負け、上皇が勝つ)という事態は、全国的に、恩賞期待の蜂起を引き起こすことになるのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF …
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