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英語分析家様が、良心や咎め、道徳の起源について、下に引用させて頂きましたように、ご説明されており、興味深く拝読させて頂きました。

<良心や咎め、道徳の起源とは何かな?と考えてみた時、他者への共感能力や感受能力なのではないか?と考えています。人々が生まれながらにもつミラーニューロンや松果体などに起因する「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos」は、自身の他者への行いが「歪み」と自他に判定されたとき、良心や良心の咎め、道徳違反感覚を覚えるのだな、と考えています。>

歪みについて理解ができないので質問します。
あるものとあるものとを比較した際、後者が変形していたら、その変形部分が歪みになるのですね。
質問は、このあるものとあるものとは何でしょうか?

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A 回答 (10件)

ブラジュロンヌさんの回答を見ての、再考です。


回答No.1は、どうやら間違っていそうですね。

英語さんは、道徳の起源を共感能力や、感受能力に有りと見ていて、自身の他者への行いが「歪み」と自他に判定されたときに、良心の咎め、道徳違反感覚を覚えるのだろうと云っています。

ここで、「歪み」が自他に判定される、と云うその意味は、他に不快な行為をしたと云う自覚のある事、ではないでしょうか。
その自覚がある故にそこに「歪み」を覚える、と云う事かと思います。

ここでの共感能力や感受能力とは、相手を思いやる心の事のように思います。
そう思わないと「歪み」にたどり着けないからです。

相手を思いやる心は良心ですから、その良心が歪む=咎め、道徳違反、と云う感覚となると云っているようです。

自身の「良心」に反する行為によって、他者を不快にさせてしまった、と云う事を、「歪み」が自他に判定される、と表現したのだろうと思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
<自身の「良心」に反する行為によって、他者を不快にさせてしまった、と云う事を、「歪み」が自他に判定される、と表現>されているのですね。

お礼日時:2022/02/11 14:05

№8に対する№9についてですが 音色さん それは失礼しました。




◆ (№7) ・・・その良心が歪む=咎め

○ その良心が みづからの〔心ないし意志の判断力の〕歪みを咎め

☆ と読むべきでした。すみません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/02/16 18:06

良心そのものが歪む、とは云ってないように思うのですが。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/02/16 18:05

アマノジャク・ぶらじゅくんの出番です。



◆ (№7) 相手を思いやる心は良心ですから、その良心が歪む=咎め、道徳違反、と云う感覚となると云っているようです。
☆ 《良心が――すでに内なるヤマシサ反応にさからった行動を起こしてしまったので――自己をとがめる》ことはありますが 《良心が歪む》ことはありません。

揚げ足取りに聞こえたら ごめんなさい。


良心は 《自然体なるわたしがわたしである状態》のことです。げんみつに言えば その自然本性なるわたしの源泉です。そういう精神です。また 霊性であり生命性だと見ます。

この良心性は 限りのあるものでしょうが 一生のあいだを取ってみれば 変わりません。傷つくこともありません。

良心の呵責は 良心にさからったわたし〔のその時の意志行為〕を咎めています。その判断力ないし思想のあやまちをあらためなさいと語っている。


そして:
◆ 道徳違反、と云う感覚
☆ ということですが――道徳嫌いのわたしとしましては―― その場その時の道徳のおしえるところにあえて・またはすすんで違反することを わが良心が命じたということさえあり得ます。

クウキに水を差す場合などなど。


良心は 普遍性また不可変性につうじます。

道徳は 人工物です。


したがいまして:
◆ 自身の「良心」に反する行為によって、他者を不快にさせてしまった、と云う事を、「歪み」が自他に判定される、と表現したのだろうと思います。
☆ というとき 良心に忠実におのれの真実をつらぬきとおしたとき 他者を不快にしてしまうことがあります。他者の思想や行動が間違っていることを指摘することになる場合です。

《アマノジャクですが・・・》と言って そのときのわが《〈道徳〉違反による〈罪〉》を何とかやわらげようと腐心しつつも こういった投稿は 浮いてしまうでしょうか。




しかししかし みんなは 哲学をなめとるよなぁ。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。した
<自身の「良心」に反する行為によって、他者を不快にさせてしまった、と云う事を、「歪み」が自他に判定される、と表現した>のですね。
「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos」によって<他者を不快にさせてしまった>ことが分かるのですね。

お礼日時:2022/02/11 14:20

★ (№4お礼欄) 《自然本性としてわたしがわたしである状態》に比較し、「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos」が働いた”わたしである状態”に歪みが現れた際に、道徳として認知される、ということになりますね。



☆ 揚げ足取りになりますが 《道徳》という用語は わたしは 用いません。

なぜなら ひづみを判定する基準として 道徳は あまりにも曖昧な内容だからです。

きのうの道徳は もうきょうには 使われなくなっていることがあり得ます。

お隣の国の道徳は こちらでは 効かないことがあり得ます。ゆえ。


      *


せいぜい倫理規範というのが 判定基準ですが これも 常識というような内容以上に有効だとは思えない場合があります。 

せいぜい《他人であれ自己であれ ひとの意志および心をふみにじってはいけない。そして 意志の主体である人間という存在ないし命をないがしろにしてはならない》といったことが 普遍的な基準だと思われます。


そして そういった普遍内容に頼ろうとする以前に 各自の主観の内でヤマシサ反応に従って ひづみは――本人には――分かります。


      *


◆ 「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos」
☆ これらは むしろいまの判定基準に成り得るハタラキだと思います。

どちらかと言うと 《われ》の内で《自然体と冒険体》を対照させるのではなく 《われ と かれ》のあいだで 比較対照がなされる場合に作用します。

《冒険体》が どれだけ《自然体》からのゆがみを生じたか? つまり《変形》の具合いについてです。



      *


なお この《変形》は すべてウソをつくことに発していると言っていいと思います。ウソ・イツハリが 脱線のキッカケです。


ウソも――心を踏みにじるものなのですが―― 自由意志の自由度の範囲に入っていますから けっきょく《道徳》といったオキテは 大したものではないです。気休め程度にはなるかも知れませんが。


《自然本性としてわたしがわたしである状態》が 基軸になり得ます。主観内面において本人にしか分からないのですが。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
<倫理規範>道徳は、基準であり、
<せいぜい《他人であれ自己であれ ひとの意志および心をふみにじってはいけない。そして 意志の主体である人間という存在ないし命をないがしろにしてはならない》といったことが 普遍的な基準だと思われます。>
<各自の主観の内でヤマシサ反応に従って ひづみは――本人には――分かります。>
 <「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos>が、<《冒険体》>に作用する。
<《冒険体》が どれだけ《自然体》からのゆがみを生じたか? つまり《変形》の具合いについてです。>この変形が、倫理規範なのですね。

お礼日時:2022/02/11 13:55

良心と共感能力sympathy 、道徳と感受能力pathos。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/02/10 11:46

★ あるものとあるものとを比較した際、後者が変形していたら、その変形部分が歪みになるのですね。


質問は、このあるものとあるものとは何でしょうか?

☆ 《自然本性としてわたしがわたしである状態》と《意志行為に際していわゆるヤマシサ反応が出ているのにこれを押し切って行動に出た場合のわたしの状態》とです。

この二つの状態は 同じ人であるわれの場合でもいいでしょうし われと誰か他者とを比較対照する場合でもあり得ます。

もっともこの後者の《自と他の場合》にも くらべるのは 《自然体 と 冒険する姿と》です。(自と他との組があって つごう四つの要素で組み合わせがいくつかできます)。



         *



ご質問からズレるかと思いますが 問題はここで 対照させる二つの《あるもの》であるよりは――焦点としては――:
★ 変形していたら、その変形部分が歪みになる
☆ というときの《変形》にあるのではないでしょうか?


つまり なぜ――《わたしの状態》に――変形が生じるのか?

わたしとしましては 触れましたように《ヤマシサ反応》だと言いました。

つまり ヤマシサ反応を押し切って――心に自然体とは異なる気持ちが生じ感じているのにしかもこれに逆らって――コトを起こす場合です。
・・・
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
《自然本性としてわたしがわたしである状態》を使わして頂きます。
《自然本性としてわたしがわたしである状態》に比較し、「共感能力sympathy 」や「感受能力pathos」が働いた”わたしである状態”に歪みが現れた際に、道徳として認知される、ということになりますね。

お礼日時:2022/02/10 11:57

良心と良心の歪み。

道徳心と道徳心の歪み。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
ほぼ同義語反復ですね。

お礼日時:2022/02/10 09:08

理想と現実でしょう。



どっちが歪んでるか?
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
何の<理想と現実>ですか?

お礼日時:2022/02/10 09:04

自と他、の事でしょう。



自他の共感能力や感受能力のずれ(違い)を、変形と表現したのだと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます
<自他の共感能力や感受能力のずれ(違い)を、変形>なのですね。
気になった点は、”自他”の”能力”のずれ、なのですね。

お礼日時:2022/02/10 09:02

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