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哲学とはなんですか?

A 回答 (11件中1~10件)

疑問を持つことです。



過去と未来の間に現在はあるのか?
それとも過去は未来に接触しているのか?
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次のように考えます。





1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言葉による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともあるいはルーアハやプネウマ(霊性・生命性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考える知性)を超えているので 霊性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べる飛躍の中で こう思った。:

 神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
 ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
 るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
 由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
 さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとするウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫するなかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔への信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。

宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰という蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられたからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現の手段と方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

知性における哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
感性における自己表現たる芸術行為と同等である――また 互いに補完的である――と考えられる。
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難しい言葉で相手のマウントをとる学問です

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神と言う言葉を使わない宗教です。

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〇知(ソフィ)を愛(フィロ)することです


 ここからフィロソフィー(哲学)の名が起こった
ことは、周知の事実です。

〇より善く生きるための知恵です

哲学とは、ある特別な領域を形成している
学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには
誰しももたねばならぬものなのです
 いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、
人間が人間らしく生きるための根本でもあるからです
 ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって
後世に示したのです。
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人間は前頭葉が極端に発達している


ので、不可思議なことについて
説明したくなります。

昔は、これを神話でやっていました。

しかし、時代が経つと神話では
我慢出来なくなり、
徹底した理詰めで説明する
ことになります。

これが哲学です。

これでおわかりだと思いますが、
だから西洋で、近代科学が発達
したのです。
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辞書によれば「世界や人生の根本原理を追求しようとする学問」とかだったと思います。

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学問の根本になるべき考えです。



今はもう骨董品のように成っています

共産主義もプラグマティズムも実存主義も間違っています

唯心論と唯物論を調和統合しなければ

まるで違う思想が幾つもあるというのでは どれを信じて良いのかわからない

三つともまとめてしまうことも可能です

それが 存在性理論ではないでしょうか みなさん^^
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今は屁理屈。


~100年前までの哲学と、今の哲学は違う。
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疑問を解決する為の学問です。

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