
0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。
0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒[7‐B]
1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。
1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。
2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。
2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本として対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神=おもちゃの神》でしかない。
2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0]
3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。
3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。
3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。
4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。
5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。
経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)
可知(認識しうるものごと)
既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間
違い得る)
非経験の場(絶対性)
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。
6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。
【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心)
---------------------------------
【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)
【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ)
7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
無梵:空(シューニャター);ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
/ マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然:生命性)
霊:われ(自然本性 +α )
G. ユダヤイズム:霊霊一如
霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
霊:われ
H. イスラーム:霊霊一如
霊:アッラーフ(イラーハ=神)
霊:われ
I. タオイズム:道人一如
道:かみ
人:われ
8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。
8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。
8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。
9. これが 《一般絶対性》である。
10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。
11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。
11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。
12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。
12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。
13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。
14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。
14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。
14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。
14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。
15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。
16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。
16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。
16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。
16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。
16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。
17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。
18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。
18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。
18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。
18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。
19. 神論が 宗教を溶かす。いかに?
A 回答 (14件中1~10件)
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No.14
- 回答日時:
神(自然)は悪魔(人間)を好きではありませんよ。
当然、奇跡で助けたりもしませんし
人間を特別扱いもしなければ、
望んで助ける事もありません。
大きな流行りの宗教では全て人間が発端で始まり
神格化されたその人間がその宗教の祖になってます。
故に人間に都合の良い事、人間に耳触りの言葉ばかりが並んでいます。
神が人間だけに救いや祝福を与えるなんて
少し離れて見て見ればとても馬鹿げています。
まるでマルチ商法ですよ、ビジネスです。
そして決まって人間以外はただの獣で畜生なのです。
私は人間を信じていません
人間と人間以外の生命に差も感じません。
故に人の説く神を信じるに至らない。
そんな神には「お話」以上の何も無いのですよ
★ 神(自然)は悪魔(人間)を好きではありませんよ。
当然、奇跡で助けたりもしませんし
人間を特別扱いもしなければ、
望んで助ける事もありません。
☆ 依怙贔屓しますから 贔屓される人は めぐまれます。
★ 大きな流行りの宗教では全て人間が発端で始まり
神格化されたその人間がその宗教の祖になってます。
故に人間に都合の良い事、人間に耳触りの言葉ばかりが並んでいます。
神が人間だけに救いや祝福を与えるなんて
少し離れて見て見ればとても馬鹿げています。
まるでマルチ商法ですよ、ビジネスです。
そして決まって人間以外はただの獣で畜生なのです。
☆ 意味不明です。どうでもよいと思えるようになりました。
★ 私は人間を信じていません
人間と人間以外の生命に差も感じません。
故に人の説く神を信じるに至らない。
そんな神には「お話」以上の何も無いのですよ
☆ 誰もカミを説いていません。
ご自由にどうぞ。
No.13
- 回答日時:
シベリアの永久凍土になぜそれらが眠っているのか?
シベリアが永久凍土化する前の事に目を向けるべきですね。
この地球は人間のものでも無く
人間に与えられたものでも無い
ただ人間が他から奪い
勝手に所有権を叫んでいるだけなのです
神(自然)が死んでも悪魔(人間)の勝利にはなりません
悪魔(人間)は神(自然)が死んでも去る(絶滅する)だけです。
しかし悪魔(人間)が死ぬと神(自然)の勝利になります。
人間がいかに自然や神に嫌われているのかと言う事です。
★ シベリアの永久凍土になぜそれらが眠っているのか?
シベリアが永久凍土化する前の事に目を向けるべきですね。
☆ ふむ。しかるべき研究内容を知らねばならないでしょうが ――すみません――あまり気にかけていませんでした。どうしましょう。
★ この地球は人間のものでも無く
人間に与えられたものでも無い
ただ人間が他から奪い
勝手に所有権を叫んでいるだけなのです
☆ そりゃあ 万物の霊長であると言われるゆえんかも知れないし また逆に おっしゃるように 勝手な振る舞いなのかも知れません。
だけど それほど問題になりますか。
★ 神(自然)が死んでも悪魔(人間)の勝利にはなりません
悪魔(人間)は神(自然)が死んでも去る(絶滅する)だけです。
しかし悪魔(人間)が死ぬと神(自然)の勝利になります。
人間がいかに自然や神に嫌われているのかと言う事です。
☆ ん? 人間が地球を我が物顔で占領しているというのは 人間の勝利であってそれも 神に嘉されている・・・のではないんですかね。
No.12
- 回答日時:
>ところがこれをカントは 《アプリオリ(経験に先立って)》という概念によって捉えたとき その先験的な純粋直観は 実際に人間のおこなう認識に反映すると言った。
神は 括弧の中に入れておいて 神と人とのあいだに《物自体》を置き これは 認識できないけれど 人間の世界認識に――人間に主体性を与えるかたちで――つながっていると見たらしい。へぇ、これはおもしろい。
さすがカント。
究極に近づくと、いずれも似通ってくる。
いえいえ。それは カントの仮説です。
次の質問で問いました。
【Q:カント大関の打っちゃり!?――モリヌー問題をめぐって――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12782738.html
不案内なかたちですが。
No.10
- 回答日時:
久しぶりに遊びに来ました。
貴殿の思想の繰り返しを確認されている作業、でしょうか。
神を知る、とした途端に神は人知の上に乗せられた既知の神。
であるから、絶対性や普遍せいが損なわれ、人造物としての神もどき、となって、
それを宗教化(体系化した学問的解釈、思想)するということは、
神というヒチな存在に対する、勝手な腎臓的解釈の押し付けであると。
僕的には、貴殿はそのような解釈を神、普遍性、絶対性に持っていらっしゃると感じているのですが、
もしもそのようなのでしたら、共通に同感のところも多いです。
僕は、神を知る、ということができるのであれば、
神というのは人間の理解の範囲内に収まる存在であるということになり、
人間=神 という構図が描けてしまう。
道徳的に人間が神の行うという宗教的思想を実践できない、であるから神なのであるという解釈では、
僕の中の神の概念としては、物足りない。
神は、理解し得ないからこそ神であり、絶対性であり、森羅万象の意味にヒントを与える存在、としてあってほしいと勝手に思う。
宗教というのは、組織運営を伴うからこそ、社会的宗教とでも言い換えられるかもしれません。
貴殿の言うように、真なる神や宗教(?)や思想、哲学、それらは各個人の内面だけで遊んでいれば良いこと。
仮説として、芸術というモノや、感覚領域には、
カミのようなものが宿っているようにも感じたりはします。
先の、哲学、それ以外の人間の思考の産物の中にも、
思考を超えて感覚域の経験未満の領域、熱いを熱いと感じる以前の領域に、
カミのような領域が人間にだって、カエルにだって、備わっているかもしれぬ、と遊んでいます。
こんなことは、答えのないまま人生を終える、って残念な前提と。
しかし、人間の性としてそれでは我慢できずに(知恵の実を食べた)、
こうしてここにやってくる、という。
ちなみに、、、
どうでもいい、悪魔や神を対比させる言葉を軽々しく言う人って、浅薄だなって思う。
善悪を論じている時点で、神、普遍性を「判断」「理解」し更に「評価」している、って、
おこがましい。
悪魔が神でない? 神は悪魔ではない? 会っても経験してもいなく。
認識すること自体、できないものへ??????
本当に、しかし、それこそ人間だ、という見本です。
★ 久しぶりに遊びに来ました。
☆ ご回答をありがとうございます。
★ 貴殿の思想の繰り返しを確認されている作業、でしょうか。
☆ ひとつの回答を仮説として提示しているのですが その同じ問いがこのところこのカテで繰り返し提出されているので こちらも重ねて問い求めます。
★ 神を知る、とした途端に神は人知の上に乗せられた既知の神。
☆ 言葉としては ですね。知ったというとき どう定義したかその内容が問題です。
★ であるから、絶対性や普遍せいが損なわれ、人造物としての神もどき、となって、
それを宗教化(体系化した学問的解釈、思想)するということは、
神というヒチな存在に対する、勝手な腎臓的解釈の押し付けであると。
☆ 正解なる神と 補助線なるオシへであり 後者が 神としてとうとばれあがめられる。
★ 僕的には、貴殿はそのような解釈を神、普遍性、絶対性に持っていらっしゃると感じているのですが、
もしもそのようなのでしたら、共通に同感のところも多いです。
☆ Thanks.
★ 僕は、神を知る、ということができるのであれば、
・・・
神は、理解し得ないからこそ神であり、絶対性であり、森羅万象の意味にヒントを与える存在、としてあってほしいと勝手に思う。
☆ 一点。非知は 《理解しうるかも知れないし 同時に理解し得ないかも知れないという事態》です。《同時に》です。
★ 宗教というのは、組織運営を伴うからこそ、・・・
☆ 学習会・研究会だけなら だいじょうぶだと思います。
★ 仮説として、芸術というモノや、感覚領域には、
カミのようなものが宿っているようにも感じたりはします。
・・・思考を超えて感覚域の経験未満の領域・・・
☆ 《 Deus sive natura 神即自然》なる仮説。つまりスピノザによる神観であり 特殊絶対性だと思います。
つづく
No.9
- 回答日時:
地上に出ている凍土の分は海面上昇するでしょう。
その次に何が起こるでしょうか?
凍土が無くなり全球で高湿度気温が高い状態になるには
水分子が大陸上も全て覆っているという事です。
つまり海面は水蒸気として蒸発し今度は海面が下降します
現在の大陸気候は空気が乾燥していますし
砂漠化が進んでいる地域もありますね。
ですが気温が安定するまで地球全体で上がる事で空気中の湿度が増え砂漠化すら止まってしまいます
勿論温暖な環境で気候は安定してしまうので
それ以上に気温は上がりません。
地球を覆う水蒸気が今度は適度な太陽光のバリアになるからですね。
勿論ありえない事ですが地球が引力を失い
水分子が宇宙に全て飛んで無くなり乾燥すれば
昼間は高温で夜間は低温の砂漠の様な状態になり
現在生息するほぼ全ての生命は滅びます。
最近ニュージーランドは実は元々大陸の一部であり
かつては周辺が大陸であった事実が判明しました。
人類が大航海時代に入る以前から
既に海面が上がってしまっているのです。
地球がかつて温暖であったかどうかは化石に聞いてください。
彼らもまた自然側でありかつての地球の記録を伝える神です。
凍土が溶けウイルスが地球を覆うならその状態が本来の地球の状態ですね。
人間がウイルスによって死滅するのでしたら自然淘汰です
つまり…自然が、神が人間は必要無いのだと判断したのでしょう
その時は神の勝利と言えます。
「悪魔は死んだ」となりますね。
★ 地上に出ている凍土の分は海面上昇するでしょう。
▲ 永久凍土が溶けて起きること ~~~
https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0019/topic0 …
いま世界の科学者たちがもっとも懸念しているが、シベリアなどの永久凍土の融解が止まらなくなることです。
永久凍土の中には数多くの“未知のウイルス”が眠っているとみられ、実際に『モリウイルス』という高い増殖能力を持つ新種のウイルス が発見されています。
さらにCO2の25倍の温室効果を持つ『メタンガス』が大量に放出される恐れもあります。
~~~
★ ~~~
その次に何が起こるでしょうか?
凍土が無くなり全球で高湿度気温が高い状態になるには
水分子が大陸上も全て覆っているという事です。
・・・
ですが気温が安定するまで地球全体で上がる事で空気中の湿度が増え砂漠化すら止まってしまいます
勿論温暖な環境で気候は安定してしまうので
それ以上に気温は上がりません。
地球を覆う水蒸気が今度は適度な太陽光のバリアになるからですね。
・・・
最近ニュージーランドは実は元々大陸の一部であり
・・・
既に海面が上がってしまっているのです。
地球がかつて温暖であったかどうかは化石に聞いてください。
彼らもまた自然側でありかつての地球の記録を伝える神です。
~~~
★ 凍土が溶けウイルスが地球を覆うならその状態が本来の地球の状態ですね。
人間がウイルスによって死滅するのでしたら自然淘汰です
つまり…自然が、神が人間は必要無いのだと判断したのでしょう
その時は神の勝利と言えます。
「悪魔は死んだ」となりますね。
☆ 神は死んだ・悪魔の勝利・・・ではなかったのかな。
No.8
- 回答日時:
気候変動は人間によって僅かに加速される事実は有るのでしょうが、
本来の地球の気候はほぼ全球でシダが生い茂る程の高湿度で温暖〜熱帯な気候です。
故に自然災害により氷に閉ざされた時代から元の状態へ戻る過程が現代の気候であると…
皆が一度は触れ知っていた筈なのですが…
なぜ全ての人間はこの歴史の事実を忘れているのでしょうか?
人間の存在に関係なく太陽からの距離に相応しい
気候で安定するまで気温は戻り続けますよね?
最初の「自然の輪廻」は言葉を間違えました
「自然の円環の理」と言いたかったのでした。
残念ながら死んだ神は生きていませんし蘇りません。
人間という悪魔に消費され尽くされ絶滅したのです。
悪魔では無い神々は人間と違い輪廻転生しませんからね。
★ 気候変動は人間によって僅かに加速される事実は有るのでしょうが、
本来の地球の気候はほぼ全球でシダが生い茂る程の高湿度で温暖〜熱帯な気候です。
故に自然災害により氷に閉ざされた時代から元の状態へ戻る過程が現代の気候であると…
☆ たしかですか? もしそうだとして その《元の状態へ戻る》と氷が溶けて水面が上がって来るのでは?
それに凍土が溶けると そこに閉じ込められていたヰルスがたくさん出て来るのだそうです。
★ 皆が一度は触れ知っていた筈なのですが…
なぜ全ての人間はこの歴史の事実を忘れているのでしょうか?
人間の存在に関係なく太陽からの距離に相応しい
気候で安定するまで気温は戻り続けますよね?
☆ 上に述べたように聞いていまして その状態では生きて行けないとか。
★ 最初の「自然の輪廻」は言葉を間違えました
「自然の円環の理」と言いたかったのでした。
☆ 時間観で 円環説があるようです。わたしはあまり分かりません。ピンと来ないんです。
★ 残念ながら死んだ神は生きていませんし蘇りません。
人間という悪魔に消費され尽くされ絶滅したのです。
悪魔では無い神々は人間と違い輪廻転生しませんからね。
☆ よく分かりません。《生きていた》時代のことが分からないのです。
神々は 普遍神の分身です。
No.7
- 回答日時:
私が言いたいのは結局のところ
人とは自然の輪廻から外れた存在という事です。
故に悪魔であるのです。
前回の問答での通り、神とは自然そのものであり
人以外の全てであるという事に他なりません。
宇宙に始まり太陽と呼ばれる恒星が生まれその周りに惑星が生まれ、その一つである地球に生命と呼ばれる知性体が存在し始め繋がりがあるかどうかはっきりしないですが人間が形造られる。
では神とは何かと問われた場合、
この宇宙が存在する前、そして後、
これまでのこの今を人間に与えた全てという事でしょう。
ただし人間の存在意義を考えた場合
人間からこれ以上先に成りえるものが
いくら考えてもおもいうかびません。
ただ人間の行動には人間以外のその他全てに及ぶ
消費と欲による破壊しか無いのです。
これは人間が悪あるいは悪魔故に起こす行動であるからでしょう。
人間もその自然のなかから自然発生したのであれば
同じ神性を人間も持つのでしょうが
これが神である自然の円環の理の一つであるとするならば
それは邪神、荒ぶる神、破壊神というべき存在ととらえるしか、人間の行動からは説明が付きません。
故に人間は人間以外の全てにおいてあらがう存在、
悪魔であるのです。
そして人間が悪魔である故に自然こそが神である事を認識しなくなった時、出来なくなった時、
神は死ぬのです。
悲しくも人が知恵を得て進化と呼ばれる繁栄を手にした時、人間が発生し時が過ぎる程
それははっきりと目に見える形で神は死んでしまったり死んでいくのです。
では人間が死ぬ時それは本当に死であるのか?
そこで宗教による輪廻の話になります
人間がまた生まれ変わるのであればそれはもう
本当の死ではなく肉体が滅んだが故に一時的に
この世から去ったと言うべきでしょう。
それらの神と悪魔の関わり合いを要点で現したのが
「神は死んだ悪魔は去った」となるのです。
★ 私が言いたいのは結局のところ
人とは自然の輪廻から外れた存在という事です。
☆ 輪廻は 転生(つまり 生まれ変わり)のことだとすればそれは――同じDNAの人がいないからには――あり得ません。
ですから 次の推論へとは つながりません。
★ 故に悪魔であるのです。
★ 前回の問答での通り、神とは自然そのものであり
☆ そういった神観(つまりわたしの言葉で 特殊絶対性なる主観)としてあり得ます。スピノザが 《 Deus sive natura 神即自然》と言っています。
★ 〔神とは〕人以外の全てであるという事に他なりません。
☆ 神の霊性(生命性)が――仏性でもいいのですが――ひとにやどるという説もあり得ます。
ひとは神とは 絶対のへだたりがあるを前提にしてです。
★ 宇宙に始まり・・・
では神とは何かと問われた場合、
この宇宙が存在する前、そして後、
これまでのこの今を人間に与えた全てという事でしょう。
☆ [5]の《非経験の場(絶対性)》を参照してください。
★ ただし人間の存在意義を考えた場合
人間からこれ以上先に成りえるものが
いくら考えてもおもいうかびません。
ただ人間の行動には人間以外のその他全てに及ぶ
消費と欲による破壊しか無いのです。
☆ 気候変動などによって やっと反省し始めました。
★ これは人間が悪あるいは悪魔故に起こす行動であるからでしょう。
☆ そういう側面があります。
★ 人間もその自然のなかから自然発生したのであれば
同じ神性を人間も持つのでしょうが
これが神である自然の円環の理の一つであるとするならば
それは邪神、荒ぶる神、破壊神というべき存在ととらえるしか、人間の行動からは説明が付きません。
☆ そのように知性のはたらく存在です。反省を実際の行動に移していきたいものです。
★ 故に人間は人間以外の全てにおいてあらがう存在、
悪魔であるのです。
そして人間が悪魔である故に自然こそが神である事を認識しなくなった時、出来なくなった時、
神は死ぬのです。
☆ 脱CO2のウゴキが ポシャったとき ほろぶでしょう。
★ ・・・
そこで宗教による輪廻の話になります
☆ 虚構としてあり得ます。
★ 「神は死んだ悪魔は去った」となるのです。
☆ 悪魔が去ったなら いいのでは? 神は死んだなら 生きていたんですね。
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《親鸞ひとりがためなり》なる信仰の理論から行くと 二角関係に《先生》を持ち出すのは 必ずしもかんばしいものではないかもですよ。
№6 入力まちがいがありました。すみません。
x よくない方ですが
○ よくない言い方ですが
№10 つづき
▲ ( Hitopedia:神即自然 スピノザ) ~~~
一切の事物は神により、必然的に生ぜしめられたものであり、一として偶然のものは存在しない。
神と事物との関係は原因と結果との関係である。しかし、この原因と結果は時間的な因果関係ではなく、永遠の相の下に考察された関係である。・・・
~~~
☆ 《永遠の相の下に》が効いていると思います。
★ 思考を超えて感覚域の経験未満の領域
☆ についてです。
ところがこれをカントは 《アプリオリ(経験に先立って)》という概念によって捉えたとき その先験的な純粋直観は 実際に人間のおこなう認識に反映すると言った。神は 括弧の中に入れておいて 神と人とのあいだに《物自体》を置き これは 認識できないけれど 人間の世界認識に――人間に主体性を与えるかたちで――つながっていると見たらしい。
あと割愛 あしからず。