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先日、tanzou2様が悪についての御回答をなされ、興味深く読ませて頂きました。
その御回答に触発されて(誤解もあるとは思いますが)、東洋・西洋における善悪の違いについて次のような考えを持ちました。

東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られておるようですね。
一方、西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されているようですね。

質問は、洋の東西により善悪に差がでるのは、何故でしょうか?
(ただし、宗教に要因を求めることはご遠慮願います)

A 回答 (15件中1~10件)

それは ナラハシの違いです。



人には無くて七癖というように 個人ごとに――個性なのかどうか分かりませんが――習慣によって形成されたクセ(エートス)があります。

集団という単位体にも ナラハシとしてそういったエートスが形成されるものと思われます。

エートスから エチカすなわち ものごとのヨシアシを判断する倫理が抽出されて行きます。




★ 東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られておるようですね。
☆ これは 何ごともすべて《情況ないし文脈》によって 価値判断がなされるといった意味合いに採られていると思います。

思いますが けっきょくのところは その文脈ないし場におけるお偉方〔による鶴の一声 あるいはつまり要するに その声によってかもし出されるクウキ〕によって――人治社会というごとく―― 良し悪しが決まる。・・・といった事態ではないか。


★ 一方、西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されているようですね。
☆ ただし 沈黙は金 雄弁は銀とも言い慣わしているようです。

パスカルは 《幾何学の精神と繊細の精神》を論じて 絶対普遍への傾きと えも言われぬ言葉のあやの世界との両面を指摘しています。


西欧社会で 繊細の精神が その場の支配的なクウキを形成するのかどうか。

日本社会で 文脈に隠れた人びとの心を汲んで繊細の精神を発揮する文化が クウキ文化とは別に 伝統をかたちづくるほどに形成されて来ているかどうか。どうなんでししょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
東洋では、<その文脈ないし場におけるお偉方〔による鶴の一声 あるいはつまり要するに その声によってかもし出されるクウキ〕によって――人治社会>によるのですね。
西洋では、パスカルが、<絶対普遍への傾きと えも言われぬ言葉のあやの世界との両面を指摘してい>るのですね。

お礼日時:2022/02/23 12:44

№9です。

おぎないます。


☆☆ (№9) 情感の共同性が 西洋では希薄だとも思えないのですが・つまりは センスス・コムニス(共通感覚)ないしコレスポンダンス(交感)といった言葉で表現されているのですが ただしどちらかと言えば そのような概念としての認識のほうに 重きがおかれているかも知れない。

☆ センスス・コムニスは やがてコモン・センスとして どちらかと言えば――感性よりは――論理ないし知性の問題となったようです。

日本語では常識と訳されているわけですが 必ずしもそうではなく その情況に応じた合理的な判断力をあらわすようになった。

日本語の《常識》としては: 
★ (№2お礼欄) 東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られている
☆ といったかたちに通じていると思われます。





それでは 西洋も東洋もいづれも同じく 《情況に応じた合理的な判断力――そしてそれが 善悪の価値観にも通じて行く――》ということになるが それでよいか?


人間関係という切り口から言えば そうなるかと思います。

そしてしかも 西欧社会では すでに判断の合理性にかんしてさだまった価値観や世界観を追究しており あたかもあらかじめ観念として善や悪が決まっているかに〔人びとが捉えているように〕思われます。


その善悪観は すでに宗教のオシへ〔の名残りまたは遺物〕の問題になるでしょうから ここまでとしたいと思います。



オシへが 文脈――人間関係――に応じないであたまの中ですでに従うべき規範として居座っているのは 人間にとって不自由だと考えます。


(ころすなかれ あるいは 意志ないし心を踏みにじるなかれなる命題〔だけ〕は 規範に成り得るとは思います。文脈に依存しつつも 文脈を超えている。存在ないし生命体を大前提としなければ 価値観をうんぬんすることも出来ない)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
折角の御回答は、私の頭には重すぎます。

お礼日時:2022/03/03 16:23

善悪は宗教と密接に関わっていて、一神教の場合善悪は絶対的でしょう。

他方多神教の場合善悪はそれぞれの神にかかるので相対的でしょう
それを踏まえると
西洋は一神教がメインなので善悪は絶対的となる
東洋は多神教がメインなので善悪は相対的になる
ですね
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/03/03 16:21

P櫃さんおはようございます。


 露が悪です。宇が虐げられています。Biden さんが Green New Deal して原油の値段が上がって露にお金があって宇が西側に入りたがっているのを叩く好機に乗ります。『体制の自由度の度合いは、現地語での自由度をそれぞれの地域専門家に見てもらうしかないんじゃないですかね。』https://twitter.com/chutoislam/status/1496192396 …さんがよかったです。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/02/25 08:08

No.5です。



そうです。植民地時代以降、あるいは18世紀以降の社会的成り立ちが善悪の定義を決めている。

イランはイスラム革命を成し遂げたので、王国は悪だというし、仇敵サウジは、一種の王権神授説をとっています。

アメリカでは、”みんな”が幸せになるような社会を特に若者が探し始めている。社会主義的村社会の日本みたいになるかもしれません。

世界は流転しているように見えます。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<18世紀以降の社会的成り立ちが善悪の定義を決めている。>ですね。
18世紀以降は、善について東西の相違はない、ということですね。

お礼日時:2022/02/25 14:31

>東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られておるようですね。

一方、西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されているようですね。

あのですね、本当の善悪とは絶対不変的な人間関係・社会関係の良し悪しを言うのです。本当の善とはソクラテスが求めた本当の善、つまり絶対善です。この絶対善は世界共通です。そしてこの絶対善とは「みんなの安心・幸せ」です。これこそが世界に共通する絶対の善、最高の善であり私たちが最高の目的とするものなのです。この最高の目的に合致する答こそ常に正しい答えと言えるのです。

絶対善とは答えの事ではなく私たちの理想の目的なのです。ですから絶対善はただ一つであり、絶対であり、それは善のイデアなのです。その「みんなの安心幸せな状態を守る事」こそ最も「みんなの為」になるのです。
ですから絶対善は「みんなの為」であり、それ以外にはなく唯一無二なのです。絶対善は「みんなの為」だけであり他にはないのです。
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この回答へのお礼

絶対善?

お礼日時:2022/02/25 06:32

> tanzou2様が悪についての御回答を、興味深く読ませて頂きました。



内容を示していただけますか。 リンクでも結構です。

> 触発されて、東洋・西洋における善悪の違いについて

漢字文化圏であれば、悪または善あるいは、善悪のような言葉の使用例からその意味内容や概念を何らかの方法で推定したり、詰めることができるのですが、漢字文化圏でない英語、仏語、独語、ラテン語、古代?ギリシャ語の場合、悪・善・善悪に対応する語はどのようなものでしょうか。

そのように語にこだわるのは、漢字で「悪」は、「好き嫌いの嫌い」のイメージが中国の伝統に色濃く、日本の場合「怖い、強い」のイメージでも使っているので、中国と日本では微妙に違いがあるようですし、朝鮮では19世紀に「楽善悪悪(善を楽しみ、悪を憎む)」と善悪を好き嫌いと捉えている例もあり、16世紀中頃から長期間四端七情論争があったほど、邪悪な人欲と天命、悪と善に注目が集まっていて、絶対性は揺らいでいたようです。 日本だと古事記では、音悪し、悪らぶる、悪事も一言善事も一言などであって、昔の日本には現代語の通常の正邪・善悪というイメージそのものがなかったのではないかと思います。 
中国の儒教でも、性善説、性悪説でも、確固として揺らぐことがないか、不安定であるかが基本で、現代語の通常の正邪・善悪というイメージで解するものではないです。 
東洋でも、地域、時代で、善、悪、善悪の意味が違っているのが現実でしょう。
イスラム圏は西洋ではないとしても、西洋でも、時代と地域で、人々が重視していたことは違うでしょう。 ことを「善悪関連」に限定して考え、比較するのであっても、その概念の用語を明確にしないと、わけがわからなく、調べようもないと思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
まず、20日のカテで「悪とは何か?」という質問に対しての御回答でした。
本来、時代・場所に従って<概念の用語を明確にしないと>でしょうが、
私の脳力では、例えば、悪はWrongと単純に割り切って扱っています。

お礼日時:2022/02/24 15:36

★ (№2お礼欄) ~~~~~~~~


<普遍絶対>の例としてパスカル・お母さん・人麻呂をあげて頂きました。

したがって、東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られている、とはいえないのですか(細かく見れば異論はありましょうが総体では)?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 意識の合理性(幾何学の精神)と情感の共同性(繊細の精神)とに分けたばあい 西洋にも東洋にも 両方とも存在すると まづ言いたかったのです。



次に・ただし その具体的な現われは 洋の東西で――ナラハシによって――違って来ている。のではないか。

同じ普遍絶対性が 合理的な推論によって――至高の善(スムム・ボヌム)などの――概念として整理される場合と やはり情感をまじえた倫理の側面で生活じょうの実践として表現される場合とです。

情感の共同性が 西洋では希薄だとも思えないのですが・つまりは センスス・コムニス(共通感覚)ないしコレスポンダンス(交感)といった言葉で表現されているのですが ただしどちらかと言えば そのような概念としての認識のほうに 重きがおかれているかも知れない。といったようにです。




善悪観が そんなナラハシといった文化の形式によって現われ方が異なって来ているように思われます。

表現として 公共性なる善(公平ないし和)について: 

《朕は 国家なり( L'état, c' est moi. )》と
《おほきみは いかづちの雲の上かも》と。


後者の文化でも 《神聖にして侵すべからず》といった露骨な表現を採用するようになったとか。

そんなことを言われたなら 情感の共同性の親分になってしまう。

・・・でも 和魂洋才でしのぎたかったのだけれど。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
東西洋のナラワシにより違っているだけなのですね。
<同じ普遍絶対性が 合理的な推論によって――至高の善(スムム・ボヌム)などの――概念として整理される場合と やはり情感をまじえた倫理の側面で生活じょうの実践として表現される場合とです。>

お礼日時:2022/03/03 16:20

NO4です。


お礼ありがとうございます。

はい。
承知しておりましたが、「それ」に触らずは、
本体に接触できないように、思ったからです。

論理構成、思考法等、地域的、文化的な成立過程が、
色濃く反映しているように、思えました。

やはり、行きすぎかも知れませんでした。

失礼いたしました。
ご容赦を。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございました。

お礼日時:2022/02/24 12:07

▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~


幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。

前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。

しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。

 

ところが 繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。

ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。

というのは このほうの原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。

           (『パンセ』 前田陽一・由木康訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2022/02/24 17:46

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