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日本武家政権の運命は京都か関東の拠点地で決まりますよね?
京では短期(長期政権でも形骸化)、関東では長期安定政権ができる傾向がありますよね(たぶん)。
京都の公家はそこまで、老獪でしたたかなのでしょうか。
公家衆が京都の武家の権力を横取りするのが得意とか(苦笑)。
どう思いますか。

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A 回答 (7件)

#6さんの「朝廷は不可侵」に賛成です。



戦国時代の「天下取り」は「天皇に勅許をもらって幕府を開くこと」だったわけですから、天皇の権威が頼りだったわけです。

で、それを考えると平安京は鎌倉幕府成立まで400年近く権力の中心であり、明治になって東京ができるまで千年以上「日本の首都」だったわけです。この権威の強さが武家の拠点に影響を与えたといえます。

鎌倉幕府と江戸幕府がなぜ関東に置かれたかというと
①東国のほうが土地が広く、農業に頼る武士の勢力が大きかったから
②京都から程よく離れていて、京都の権威に政治が左右されなかったから
です。

鎌倉幕府はそもそも平家という京都の絶大な勢力の影響を排除してスタートしたわけですが、京都には平家だけでなくその他の公家の影響力も大きかったし、公家と出自が姻戚関係にある武家なども多く「西国」というのは公武一体で天皇を支える体制ができあがっていたといえます。

だから鎌倉時代、西国のバックアップを得て後醍醐天皇は建武の新政ができたわけです。

鎌倉幕府はこういう「西国の政治力&軍事力」を警戒して六波羅探題をおいて、ずっと警戒していたわけです。

室町・信長の安土・秀吉の伏見政権時代は京都に近いところで政治を行いまいした。なんで京都に近いところだったかというと「西国と東国の政治的な課題を調整する必要があったから」です。

これが「京都に武家政権があると短命になる」理由です。つまり武家政権は天皇の意向を聞き、西国武士の後ろ盾のある公家たちの我儘を聞きつつ、鎌倉時代から公家の影響力に不満を持つ東国武士たちにも配慮した政治を行う必要があった、のです。

こんなの最初から無理筋ですから、室町幕府の将軍は嫌気をさして事実上の隠遁生活を送ったし、室町幕府の調整力が足りず応仁の乱になっていったわけです。

だから徳川は鎌倉幕府に習って、京都の影響を極力排除しています。江戸に幕府を開いただけでなく、京都に所司代を置いて六波羅探題同様に朝廷を管理しましたし、天皇の叙任権なども制限する「禁中並公家諸法度」を制定してこれを守らせました。

これは幕府が行う各藩の序列を天皇が与える官位で壊されないようにしたためです。たとえば「越前守」は元々天皇がその地方の国司として派遣するときに任命する官位でしたので、公家が「幕府を倒して天皇執権に戻そう」と思い天皇が勝手に「西国の○○に越前守を与えて、越前を占領させよう」なんて言うことができてしまうわけです。

日本では「朝廷は不可侵」ですから「朝廷のご威光は誰が何と言おうと達成するもの」であり、そういう意図で叙任されたらやるしかないわけです。(やらないと国賊です)

でもこれをやられると幕府は各藩に命令できなくなります。だから鎌倉幕府は京都から離れて徹底的に朝廷を見張りましたが、建武の新政でボロボロになります。

それを学んだ江戸幕府は、「武家に官位などを授けるには、幕府の許可を取れ」などともっと徹底的に朝廷の権威を縛ったのです。

だから江戸幕府は長続きしました。そして江戸幕府が倒れたのは、薩長土肥が天皇の後ろ盾を得て「錦の御旗=官軍」を作ったからで、徳川慶喜は「国賊になりたくない」と大政奉還したのです。

結局日本は「天皇の意向を勝ち取ったものが支配する国」なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがうございます。
源頼朝も幼少期に京都にいた思い出が忘れられず、奥州藤原氏滅亡後に
朝廷に対して大姫の婚儀をすすめたというのを知ってます。
朝廷の存在は大事だったのですね。

お礼日時:2022/02/28 11:16

「京都の武家政権は短命」という傾向を、俺は見いだせない。


強いて、凹の中間が短期。
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武家政権と言っても5つしかないけどね。


鎌倉、室町、織田、豊臣、徳川
そのうち形だけでも長期政権だったのは
鎌倉(鎌倉)、室町(京都)、徳川(江戸)
短期だったのが
織田(美濃→近江)、豊臣(京都・大阪)

申し訳ないが「京都の武家政権は短命」という因果関係を、俺は見いだせない。

いちおう言うと、日本の権力の源泉は朝廷。
朝廷を敵に回せば日本中が敵になる。
武家に政権が渡っても、それは「朝廷から委託された」という形式であり、面と向かえば委託した側の朝廷の方が委託された側の武家より上位になった。
なにしろ「征夷大将軍」は朝廷から任ぜられるのである。

それはあの信長も覆せなかった。
信長は天皇に后を送り込み姻戚になろうとしたが拒否され、代わりに三職のいずれかということでお茶を濁されてしまった。
いわばメンツを潰された形だが、それでも朝廷を攻め滅ぼすことはできなかった。
むしろ信長がたった義昭擁立から2か月で上洛できた裏には、間違いなく朝廷の影響があったはずである。

日本において朝廷はそれこそ「不可侵」なのである。
そんな相手には誰も勝てない。
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公家は政治的動物ですから、もちろん老獪ではあります。


公家と武家の明確な違いは、公家は荘園等を通じて全国的ネットワークを持っていたのに対し、武家は公家の地方代官的存在であった時期も含めて地元地域だけの支配者だったという点でしょう。

そうなれば、ある武家が幕府的に全国的権力を掌握したとしても、その武家の力の源泉は地元の武力・経済力でしかない。
それなのに、地元ではなく京都に中央政府を置けば、公家が全国に反乱の指示(実際には天皇皇族の勅)を出したらどうなるか。
他の方も仰っておられるように、京都は防衛には適していない。桓武天皇が京都に平安京を建設したのも、全国各地との流通が便利だったからで、流通の便が良いというのは進軍にも便利ということになる。
桓武天皇は蝦夷を平定し、国軍を大幅に縮小した天皇でもある。つまり日本を平和で安全な国にしようとしたので都を「平安京」とし、実際に軍事的には安全になったので軍隊も原則的に廃止したわけだ。

昔は、そういう京都を首都にしても、ロクなことは無かったということだろう。
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京都に政権を置くと言うことは武家側が「天皇や公家」の権威を利用するという宣言を行ったのだと思います。

関東に政権を置くということは、そうした権威から距離を置くと言うことでしょう。さらにいえばそのような権威を利用しなくとも、ある程度支配できるだけの政権構造が関東政権だったと思います。つまり公家が老獪であったのではなく、武家の公家権力に対する姿勢が、政権の長短を決めたのだと思います。
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> 京では短期(長期政権でも形骸化)、関東では長期安定政権ができる傾向がありますよね(たぶん)。



これは間違いですね。
本当に長期安定的な政権を作ったのは徳川幕府だけです。

鎌倉幕府なんて、幕府としては150年ほど続いただけであって、そもそも源の血筋は早くに耐えてしまい、支配領域も関東周辺に限られていました。日本全国をがっちり支配するような盤石の権力は持っていませんでした。


> 京都の公家はそこまで、老獪でしたたかなのでしょうか。

明治維新の岩倉具視の立ち回りなんかを見ると、権力への渇望を感じます。
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まあ、軍事的に京都は


攻めるに易く、守るに難し
と言う地ですから、京都に本拠地を置くのは不利ですよね
足利将軍も攻め込まれる度に近江などの隣国へ一旦退避
と言う事を幾度かしてますし
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