アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

民主主義も社会主義も正義の制裁をくわえたがりますが、これってキリスト教概念から来てるんですか?

A 回答 (9件)

>これってキリスト教概念から来てるんですか?


違うと思います。
(一般的にはその様に言われているようですが・・・正義かどうかも判定できませんので不問・・・)
民主主義(フランス革命)と社会主義(マルクス主義)の発生地域が、偶々、キリスト教文化地域であった為に、その様に思われているだけではないでしょうか。
前記の思想は、自由・平等・博愛を旗印に、被差別民の開放を求め発生しました。これを一歩進めた達成手段として、中央集権・集中生産で実現した物を社会主義と呼び、そのまた先の極端な姿が共産主義です。これは大きな政府です。
しかし、自由と、その手段である中央集権(大きな政府)とは矛盾します。かつ、自由・平等思想には混乱を助長し、革命の温床となる毒性を秘めています。この毒性を無視し、差別的過酷的境遇からの解放を切望したのが、民主主義や社会主義と考えます。つまり、単なる政治的手段でしかない。
対して、
キリスト教の神髄は、ユダヤの神をユダヤ民族以外の民衆にも開放した事です。開放後にキリスト教は、数々の福音(神様ニュース)を届けてくれます。その福音を聞きそれに従って、幸せに生きるのがキリスト教徒と考えます。新約聖書には「救われる」「神の前には平等」「隣人を愛せ」と、自由・平等・博愛を謳っていますが、これは飽くまでも、キリスト教徒の神の前にと限定されます。その他の神に従う者には、自由・平等・博愛などありません。必ず地獄行き。同じ神である筈のユダヤ教徒でさえ弾圧します。
キリスト教が素地であるならば、それ以前の長い年月の中で民主主義は起きている筈です。別物で在るが故に、1789年フランス革命まで、自由・平等・博愛を旗印にした民主主義は起きませんでした。
    • good
    • 0

その通りです


民主主義も社会主義も二元論的思考法であり、その淵源はキリスト教的概念から来ています。
自然と人間、人間と神、教徒と異教徒、すべて相対する存在として見てきました。そしてそこに、理性的法則を意味する法則を明かしたのです。
例えばマルクス主義は、歴史の発展や社会の構造を明らかにする 「法則 」がこの議論の前提にあると言うのです。そのため、理論 によって行動を律するようになるのです

この信念を「ロゴス中心主義」 といい、その淵源を、
「太初に言(Logos)あり、言 は神と供にあり、言は神なりき」(8)(ヨハネ伝福音書第1章1節)と 説いたキリスト教に求めたたのです 。
すなわち 、『神の言葉 』 を一 切 の根本 とする ロゴス(言語)中心 主義は 、キリスト教文明 の根底にある もっとも大きな特徴といってよい のです

言葉 は、はたして生々流動しゆく実在を、あますところなく写し取ることができるのか。人聞はそうした実在を固定化してしまう 「言語の虚構性」の罠、「抽象化の罠」から、どうしたら け出 ことができるのか一 このような「言葉の虚構性 」に対する警戒 、さらには 「言葉への不信」 さえもが、いまほど必要とされている時代もありません。
先に指摘 したように、マルクス主義 、また社会科学の多くは、
言葉で表現される理性的法則によって現実の問題の原因を明らかにし、
その解決 策を示そうとする。
しかし、しかし、そもそも現実を 「あますところなく写し取る」
ロゴスなど存在するのか、 と思うのです

ロックは言語論で目的達成への道具と捉えていますが
私的性格を主張している以上、私的のみに限られすべてを表せないのです
又、受け取る側の多様な環境により容易に別の意味に変化してしまうのです
言葉の限界、と見ていいと思います

神や理論 によって行動を律するのではなく、
すべての人間がもつ可能性 を開くことが出発点だと思います

巨人ゲーテは「太初に行ありき」と言いましたが
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問題 を解決する知恵がある。 その力、知恵の発揮から出発すべきであって、それなしに、どんな立派な理論を作ってもだめだ。こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にある。と訴えているように思えますが。
    • good
    • 0

正義とは正しいと言う事。

正しいとは「みんなの為」です。みんなの為になる事はすべて正しいのです。
その民主主義もそれがみんなの為であればその民主主義は正しく、みんなの為にならなければその民主主義は正しくないのです。
平等もその平等がみんなの為であればその平等は正しく、みんなの為でないならばその平等は正しくないのです。
人を殺すこともそれがみんなの為ならば正しく、みんなの為でないならば正しくないのです。
人権もそれがみんなの為であれば正しく、みんなの為でなければその人権は正しくないのです。
キリスト教もそれがみんなの為になるのであれば正しく、みんなの為にならないならば正しくないのです。
このように正しいとはすべて「みんなの為」になる、適う、合致することを言うのです。
だからそれが正しいかどうかはみんなで「それはみんなの為になるのかどうか?」と話し合って決めればいいのです。
    • good
    • 0

正義の中身は空虚です。

「正義は勝つ」のではなく、「勝った者が正義になる」だけのことです。キリスト教も、負ければ正義ではありません。
    • good
    • 1

キリスト教は 愛 の宗教だと言われていました



ところがこの頃 正義はない 自分とこだけが正義だと

言う人が大勢出てきて キリスト教を頭からバカにし始めたので

何時頃くらいか分かりませんが 十字軍の前だと思いますが

キリスト教こそ正義だ と言うような人が出てきて

逆らう人を邪教だと色々と攻撃し始めたので

攻撃しないはずのキリスト教が攻撃し始めて

キリスト教の正義は破綻したのでしょうね。
    • good
    • 0

弟子が書いたのが聖書でキリスト本人が書いたものは


一つもないそうです。

どこまであてになるでしょう。

キリストは本当は殺されず、影武者が処刑されて
本人は我は復活したと芝居を演じたと言う人がいます。

マリアには別の男がいて
キリストを産んだと
考えると
辻褄が合うと思いませんか。
    • good
    • 0

どんな思想であっても、それを信じている人たちからすれば、それが正義になるのでは


キリスト教にはキリスト教の、共産主義者には共産主義者の、犬には犬の正義がある
    • good
    • 0

キリストの教えは「右のホホを打たれたら


左のホホを差し出せ」というものです
    • good
    • 0

英語のジャスティス【justice】とは、元々ラテン語から来ており平等とか公平という意味です。


キリスト教と言うより、ギリシャやマケドニアからの文化です。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!