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言語は意味を持っている。

先に、「意味とは何か、どこにあるのか?」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12891226.html
で、諸賢のご意見を伺いましたが、はかばかしい応答は得られませんでした。
現在の言語学の状況と、言語過程説に基づく最新の知見を纏めましたので、諸賢のご意見を伺えれば思います。

田中茂範(慶應義塾大学名誉教授、PEN言語教育サービス)先生は、次のように宣っています。

2つの意味観   https://www.arcle.jp/note/2019/0039.html

 意味の捉え方については、荒っぽい言い方をすれば、2つある。まず、意味というのは実在する何かであるとする実在論的な捉え方がある。標準的な記号論では、言語記号の表現面(シニフィアン)と内容面(シニフィエ)の相関物(表裏一体の関係態)として捉える。そして、そこから、「コトバには意味がある」「コトバは意味をもつ」という前提が生まれる。実際、多くの人は「コトバには意味がある」と考える傾向がある。しかし、「意味の在処(ありか)」を問うと、その考え方には疑問がでてくる。「コトバには意味がある」と考える人は、「辞書に意味が記述されているではないか」と指摘する。しかし、辞書にあるのはコトバであり、意味そのものではないのである。なお、本連載では、音あるいは文字として表現された言語を「コトバ」とカタカナで表す。例えば「正義」の項に「正しい物事の道理」と書かれていても、それは、意味ではなく、コトバである。「正しい物事」とは何か、「道理」とは何かが改めて問われるからである。~
 もう1つの意味の捉え方として、意味構成論の立場がある。端的にいうと、「コトバの意味はつくられる」という考え方である。コトバにある意味が所与として備わっているのではなく、コミュニケーション行為のその都度、意味はつくられるという立場である。この「つくられる」というのは、もちろん誰かによってつくられるのであり、意味の問題を問う際に重要なのは、例えば「『家族』の意味とは何か」ではなく、「Aにとって『家族』の意味とは何か」である。日本語がわからない人にとっては、「カゾク」という音(コトバ)は聞こえても、その意味を構成することはできない。すなわち、コトバを聞くということと、コトバから意味を構成するということは同じことではないということである。//

「意味というのは実在する何かであるとする実在論的な捉え方がある。」のは当然であろう。事実、文、文章は意味を持ち、読み手にそれが伝達され、全体を内容とも呼ばれる。だが、田中先生は、

 しかし、「意味の在処(ありか)」を問うと、その考え方には疑問がでてくる。」と宣う。さらに、
  ”辞書にあるのはコトバであり、意味そのものではないのである。”
と面妖なことを述べられる。では、「意味そのもの」とな何なのか???

これが、認知言語学という科学的を称する言語論の実態である。つまり、言語とコトバという意味不明な区分を持ち出し、「意味そのものではない」と意味不明なコトバを並べられる。これでは、「ハイ、そうですか」と黙って受け取る訳には参らぬというのが常識的な考えというものである。

 この連載の題は『言語の役割を考える』であり、本稿は「第1回 意味の問題をめぐって」となっている。つまり、「言語とは何か」が問われることなく、「役割」が問題となっているのである。そのため、「はじめに」では、「言語は、人間の営みにおける最大のメディアである。」と言語の役割が述べられているだけで、議論の対象である「言語」の本質は何ら明らかにされていないのである。それゆえに、言語とコトバなどという言葉遊びにならざるを得ない実態を露呈している。

 正しくは言語とは何かを明らかにした上で、さらにコトバとは何か、そして意味とは何かが明らかにされなければならない。この本質を明らかに出来ないまま、機能を問題にするしかないのが現在の言語学の実態である。
 したがって、意味とは何かには答えられずに、意味構成の機能に逃げ込んでお茶を濁すという体たらくである。

 ”この意味構成論は、フッサール(1979)の現象学や時枝誠記(1941)の国語学で提唱された考えである。しかし、構成される意味とはいかなるものか、それはどのようにして構成されるのであろうか。この問題に真正面から問うたのが深谷・田中(1996)と田中・深谷(1998)の「意味づけ論」である。”
 
「この問題に真正面から問うた」のは良いが問いそのものがピント外れということで、その前段から転(こ)けるしかないという惨状を呈している。結局、結論は、

”意味とは何か。それは、まず、誰かにとっての何かについての意味である。そして、意味はコトバに張り付いているのではなく、誰かによってつくられる。そのつくられる意味は、事態であり、コトバからの事態構成が理解、コトバへの事態構成が表現ということである。”

で、「意味はコトバに張り付いているのではなく」なってしまった。では「つくられる意味は」どこにあるのか???
 この先生は一体何を言わんとしているのであろうか???

 残念ながら、現在の機能主義的な言語観では、こうなる他ないということである。これに対し、時枝の提起した言語過程説を唯物弁証法の論理に基づき科学的に解明したのが〔三浦つとむ〕である。そして、その言語論、意味論を正しく理解し、自然言語処理に応用にしたのは言語学者ではなく工学研究者である。その意味論は以下のように纏められ展開されている。

言語表現の意味

言語理論は自然科学と異なり、人間の精神的活動を対象とするだけに、その見方によって様々な説が生まれる。その中でも「意味の意味」については哲学的にも混乱した状況にあるが、意味処理を目指すには、対象とする「意味」の明確化は避けて通れない問題と言える。ここでは従来の意味論とその問題点を示すと共に、著者が現在最適と考える関係意味論を紹介する。

新しい意味論(関係意味論)
 解釈意味論では与えられた表現の形式から意味が生まれると言う観念的な説明になる。逆に、形式は内容から生まれると見れば、対象意味論か認識意味論となるが、対象も認識もいつまでもそのまま存在するとは限らないし、誤って書かれた文でも意味は正しいと言う困難さがある。
 三浦つとむは言語過程説を踏襲しつつも時枝の意味論を修正し、関係意味論を提案した。すなわち、「音声や文字にはその背景に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられている。このような音声や文字の種類に結びつき固定された客観的な関係を言語の意味という。」と説明している。対象や話者の認識は意味そのものではなくて、意味を形成する実体だとする説明である。これによれば、意味は話者や聞き手の側にあるのではなく、表現そのものに客観的に存在するのであって、表現(音声や文字)の消滅と共に、そこに言語規範によって固定されていた対象と認識の関係、すなわち意味も消滅すると言うことになり、従来の意味論の持っていた基本的な問題点が解決を見たと思われる。
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/ikehara/paper …
//
 これこそが、現在の科学的な言語論の到達点であり、科学的な言語論である言語過程説という世界に誇るべき業績である。

なお、この池原悟氏の業績については、下記を参照。
追悼 池原悟先生
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnlp/17/1/1 …

A 回答 (4件)

もっと、学問の初歩から勉強しなさい。

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この回答へのお礼

おたがい、頑張りましょう!!!

お礼日時:2022/04/21 16:22

この世界は何もない幻想と捉えた方が、100万倍生きやすくなるんじゃないかと思いました。

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この回答へのお礼

なるほど、がってん!!!

お礼日時:2022/04/21 16:24

知らんがな...

「意味とは何か? どこにあるのか?(Ⅱ)」の回答画像3
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この回答へのお礼

ありがとう!!

お礼日時:2022/04/21 16:22

デジタルコンピューターの論理回路(ハード)にはそんなものありません。

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この回答へのお礼

ははは!!!
春の妖気に脳を侵されていますね。
いやいや、単なるアルツハイマ~!!

論理回路(ハード)なしに動作するデジタルコンピューターが在ったら持ってこい!!!

プレハト 夏井風。

お礼日時:2022/04/22 12:05

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