
司馬遼太郎と丸谷才一が、天皇という言葉について、次のような対談をしています。
司馬遼太郎
<明治維新になって人工的に天皇を作ったけれども、この「天皇」という言葉は江戸時代の
口語、公家日記、公家の随想などをいくら探しても出てこない。>
<ふつうの宮廷生活では「お上」であったり、会議のときではせいぜい「御門」といっているくらいのものですよ。>
<明治十年の西南戦争までは「御門」ですな。>
丸谷才一
<西南戦争の翌年に「御門」は「天皇」になった。>
質問は、明治の初めに、なぜ、カビの生えたような古い天皇という言葉を、引っ張り出してきたのでしょうか?
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
ナショナリズム及び外国と対等な関係を築きたいという願望から天皇という言葉を採用したと考えられます。
天皇という言葉は、聖徳太子(厩戸皇子)が隋に送った国書で初めて外交的に使われています。この国書の中で、中国の皇帝を西皇帝と呼び、日本の大王を東天皇と称することで、対等の関係として外交を行っているのです。中国は中華思想から、自国が世界の中心で偉大な文明国であると考え、周辺の蛮族に対して自国に朝貢することを要求していました。つまり中国にとって外国との外交関係は対等の関係ではなく、常に中国が上で他国が下の関係でした。ところが、聖徳太子が西と東を太陽の動きと関連させて、日が昇る東の国の天皇が、日が沈む西の国の皇帝に対して国書を送ると述べ、対等の立場(というよりも日本が勃興する国で中国が衰退する国であるとも取れるような表現)を使ったので、隋の第2代皇帝、煬帝は無礼だと激怒したとされています。しかし、当時の国際情勢から日本を敵に回すことはできなかったため、穏便に外交関係を維持して日本からの遣隋使を受け入れています。
つまり、天皇という名称を初めて外交伝書で用いた際に、外国を常に下に見ていた中国と対等な外交関係を築くことができた成功体験があったということが明治期の人間にとって非常に大きな意味があったのです。当時の日本はアヘン戦争に衝撃を受け、外国の脅威を大きく意識していました。何とか欧米列強と対等な外交関係を築きたいと考えていたので、過去の成功体験にあやかって、再び外国と対等な(そして、できれば日本が上に立つような)関係を築けるよう「天皇」という言葉を採用したと考えられます。
早速のご回答ありがとうございます。
<過去の成功体験にあやかって、再び外国と対等な(そして、できれば日本が上に立つような)>なのですね。
No.5
- 回答日時:
明治の初めに、なぜ、カビの生えたような古い
天皇という言葉を、引っ張り出してきたのでしょうか?
↑
西洋列強に対抗するためです。
高杉晋作等が、上海に出かけ、そこで
奴隷化されている中国人を目にし、
危機感を抱き、それが明治維新に
なりました。
しかし、当時の人々は、薩摩藩人
会津藩人、という意識はありましたが、
日本人という意識は弱かったのです。
これでは、バラバラで西洋に対抗出来ない。
そこで、西周と山県有朋が相談し、
天皇を持ってくることにしました。
お前等は、薩摩藩人、会津藩人、という以前に
天皇が治める日本という国の国民、つまり
日本人なのだ。
こうやって日本人をまとめて、西洋列強に
対抗しようとしたのです。
天皇という呼称を用いたのは、歴史に
倣ったのでしょう。
中国には吸収されないぞ、独自性を保つぞ
ということで、中国の皇帝より偉そうな
名称「天皇」にしたわけです。
これには、中国が怒り、日本討伐の話し
まで出たほどです。
No.4
- 回答日時:
天皇とは対外的な称号だから、明治政府の開国政策とともに引っ張り出されたのです。
No.2
- 回答日時:
本当にそれですw
しかし当時は血の継承は当たり前であり、『家』によって何事も決まり長男がそれを受け継ぐという社会にあっては、形式的であっても利用できうる家系たる天皇家(呼び方はともかく)は使わない手はないといったところだったのでしょう。
長州征伐などでは、維新の志士たる面々は国の逆賊であったことに注意が必要です。いくら戦力で互角であったとしても正義を名乗るためには相応の理由が必要だったのでしょう。このあたり、勝者が正義の諸外国と少し違うような違わないような・・
明治維新で天皇の伝統はぶっ壊され、再び担ぎ上げられて国の象徴となりました。周りはちやほや(忖度)しましたが、実権は乏しかったようです(太平洋戦争の参戦を止めていれば評価や歴史も違ったのでしょうが・・)。とはいえ(金持ち喧嘩せずかもしれませんが)現天皇家の思考などは個人的には評価できるもので(というか好きですw)、天皇を利用してとやかく言っているバカ右翼どもがいなければ、日本の誇りたるものと言っても良いものと思っています。
余談ですが、明治維新で天皇の伝統はぶっ壊されているので、愛子ちゃんを天皇にしてその子供を次代の天皇にすることで、天皇制度がすでにぶっ壊されたものであることをちゃんと示すのが妥当だと思っております。
No.1
- 回答日時:
「日本書紀」などに記載があり、初代と伝えられるのが神武天皇。
だが、2世紀ごろまでは神話の域を出ない。古代の天皇については戦後、実在性や在位期間について論争が続いている。大王(おおきみ)の時代を経た7世紀、645年の大化の改新で本格的な中央集権国家の建設が始まった。初めて「天皇」を自称したのは天武天皇とする説が有力だ。
平安時代に入ると天皇に代わって貴族が実権を握り、摂関政治の時代となる。鎌倉時代以降は武家が政治を支配したが、天皇が歴史から排除されることはなく名目上の統治者として存続した。
明治政府は大日本帝国憲法で天皇を主権者に位置づけた。第2次世界大戦の敗戦後、日本国憲法は政治的権能を否定し、天皇は「国民統合の象徴」となった。
退位は59例、上皇さまは200年ぶり
歴史上、退位した天皇は太上天皇(上皇)と呼ばれた。大化の改新を機に弟に皇位を譲った皇極天皇が最初とされる。宮内庁によると、歴代天皇のうち存命中の退位は上皇さまを含め59例。上皇さまの退位は1817年の光格天皇以来、約200年ぶりとなった。
江戸時代の皇位交代の儀式を描いた絵図。宮廷行事を記録するため明治時代に編さんされた「公事録附図」より=宮内庁書陵部提供
過去には上皇が天皇に代わって実権を握る「院政」を敷いた時期もあった。天皇に政治的権能のない現憲法下では院政のような弊害は起こらないが、新天皇よりも国民に長く敬愛されてきた上皇さまに親しみが集まることで「権威の二重化」を懸念する専門家もいる。
退位の儀式は、9世紀に編さんされた宮廷儀式書「貞観儀式」などに基づき執り行われてきた。政府は天皇の国政関与を禁じた憲法に抵触しないように配慮し、今回の儀式の内容を決めた。
女性天皇は10代8人
歴代天皇には女性もいた。初めての女性天皇は6世紀末に即位した推古天皇。再び皇位に就いた2人を含め、飛鳥、奈良と江戸時代に計10代8人の女性天皇が誕生した。
皇室典範に関する有識者会議では女性・女系天皇を認める報告書がまとめられた(2005年11月)
全員が天皇の皇女で男系。女性天皇や母方が天皇の血筋を引く「女系天皇」が即位したことはない。男系男子に皇位が継承されるまでの中継ぎだったとの説が有力となっている。明治時代に制定された旧皇室典範は皇位継承者を「男系男子」に限ると定め、現行の皇室典範にも同様の規定が引き継がれた。
男性皇族が減少する中、小泉政権が設置した「皇室典範に関する有識者会議」は2005年11月、女性・女系にも皇位継承を認める報告書をまとめた。翌06年9月に秋篠宮家の長男、悠仁さまが生まれたこともあり、制度化には至っていない。
戦後に11宮家、51人が皇籍離脱
皇族で宮号を持つ家を「宮家」と呼ぶ。現在は秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の4つがあり、天皇家を支えながら皇室の公務を担っている。
鎌倉時代の亀山天皇の皇孫、全仁親王に始まる常磐井宮が現在の宮家制度につながる前身とされる。その後、皇位継承者を確保するため世襲宮家が必要となり、江戸時代には伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮が世襲親王家となった。
明治時代には皇室の繁栄を目的に新たな宮家の創設が相次いだが、敗戦後の1947年に11宮家の51人が皇籍を離脱し、一般国民となった。
現在の宮家では秋篠宮家と常陸宮家にしか男性皇族がいない。民間人と結婚した女性皇族は皇籍を離れることになり、将来は現状の公務が維持できなくなる恐れがある。
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