プロが教えるわが家の防犯対策術!

【哲学】とは一体なんでしょう。

そして使い道を教えてください。

A 回答 (19件中1~10件)

主流の枠(役に立つかどうか)と関係なく掘り下げること。


既存の枠の中の常識では解決の見通しも立たない問題を解決するための
きっかけをつかむ可能性をキープする分野。
主流の状況が切羽詰まらないと
真価(使い道)はわからないものかもしれませんね。
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【〇学的】なもの はあるけれど、【〇学】自体は存在しない という、唯一の学問

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「捉え方を変えて説明する」という方法論だと思います。


科学、芸術、宗教、すべてが元は哲学だと言われています。

上手く説明出来た場合は、それを聞いた人が他の人にも説明出来
ます。その逆もあります。例えば考えるのは好きであっても、他
の人が納得できるように説明が出来ないという人もいます。

その場合は哲学ではないという事です。

なので哲学と言うのは本人が「これは哲学だ」と主張するもので
はなく、それを聞いた人が感心して評価したとき認められるもの
です。本人が芸術だと主張しても、他の人は落書きだと思うかも
しれませんよね。

また説明には言葉が便利に使われますが、音や絵を使っても良い
ですし、暑さ寒さ、手触りで伝えても良いわけです。私たちが持
つ感覚は肉体の構造に縛られています。しかし、目で見て、耳で
聞いて、舌で味わって、手で触ってと、すべての感覚で調べてみ
ても良いわけです。

「いつもは目で見るだけで済ませているだろ?
 でも、そこに存在しているんだ。
 触れるんだぞ?
 ここは別の捉え方(触るなど)をしてみて、
 違いを確認しないか? より多くの方法で味わうんだ。
 より、鮮明に存在を確認できるはずだ。」

こんな事も言えますよね。

普段何気なく思っていたこと。
不思議と思わずに使っていたもの。
良くある事と見過ごしていたもの。

そんなとき、

「あれ? なんでだろう?」

と疑問を持ち、考え込む事があるはずです。

これは”考える”を楽しむチャンスですよね。

「一般にはこう説明されている。
 だけど物足りないんだよねえ。
 ここはひとつ別の角度から捉えなおして反芻したい。」

こんな欲求が生じませんか?
目で見るだけではなく、手ざわりも確認する。
色んな感覚を楽しませて、そこにあるもの(そこにある考える
べきネタ)を余さず味わうという事です。

例えば、

「芸術は爆発だ!」

これも捉え方を変えて芸術の神髄を説明していますから、哲学の
一つと言えます。これを聞いた人は芸術作品を見るとき、

「どこが爆発してるんだろう?」

と思うはずです。すると、

「そういえば、確かに。何やらグイグイ来てる。
 お・・・このグイグイ度合い?
 なんか作品ごとに違う。
 パワー? そういうものかな。
 今まで意識しなかったけど、そこだけに着眼すると、分かる。
 あんれまあ。確かに優劣があるわ。
 凄いな、爆発だって表現した人。上手く説明してるわ」

私は物事を説明するとき、上の様な会話文を挿入しています。

人は食事をする時、
口の中の色んな部分を使って感覚を楽しむそうです。
同じように私たちも色んな部分を使って考える事を楽しむんです。

しかし、

「うーん。僕は料理を作るのが好きなんだよ。
 美味しいかどうかは知らない。そこに他人の評価は無用だ。
 料理道具を使って食材を加工する工程にロマンを感じるんだ。」

「う~ん。それ料理じゃないから。調理道具評論家? マニア?」

こんな場合もあるでしょう。

食材を加工する事だけに興味があり、それが美味しいかどうかは
興味が無いという人もいるかもしれません。こういう人が料理研
究家を名乗る事は難しいでしょう。

これでは確かに料理研究家の評判が落ちてしまいますからね。

料理だけではなく、思想や発想についてはどうでしょうか?
異質な考えに夢中に成る人が居たら?
他の人の気持ちに配慮できない人が居たら?
そんな人が「これが哲学だ」と言って自慢をしたら?
そんな人が「発想は自由である」と言ってゴリ押しでもしたらど
うなるでしょうか。

確かに過去の哲学書にある言葉を振り回せば、高尚に見えるかも
しれません。ただこれは料理道具は上手に使っているんであって、
料理をしているのではありませよね。

「上手そうに見えても食えたもんじゃない。」

他の人はこう思っているかもしれませんよね。

そのためなのか?

周囲の人の共感を得ようとせずに、持論での説明に取りつかれ、
考えや行動を変えようとしない人に対しては、

「やめとけ。あれが奴の哲学ってことだよ。」

などの用法(悪い例として)で使われたりもします。

「俺はさ、聞いて良かったと思われるものを作りたいな。」

せめて、
そう言う思いを持っている人に対して”哲学”を使いたいですよね。

「いやいや違うよ。
 そんなの哲学じゃない。
 俺は考えるのが好きなのであって、
 人を喜ばせるのは大して好きじゃないんだ。
 だから哲学って俺に向いてるって思うんだ。
 哲学って良いなあって思うんだよ。」

「こういう人が好きな哲学」を私たちが哲学と呼ぶかどうかです。
または「こういう人が好きな哲学」が本当に哲学なら、それを私
たちが好きかどうかですよね。

落書きと芸術の違いも似たところにあります。
雑音と音楽の違いもそうです。
能書きと哲学の違いもあると思うんです。

科学、芸術、宗教・・・
哲学から派生したものは「別の確度から説明する」という意思を
含んでいると思います。実利だけではなく理解を促進するという
効能があると思います。

私たちは、

「私は考える事を愛している。
 人間や世界より愛している。
 だから誰にも理解されなくていい。」

と誤解されない様にしないといけません。
誰かに説明しようと頑張る人は哲学者であり、そうでない人を哲
学を(人より)愛する人という訳です。

以上、ご参考になれば。
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自分なりに、物事や真理を追求する思考とか、結果として、納得するまで辿り着いた理屈/試論/考え方。

皮肉も多々ありw
悟りの境地のような感じでしょうか。


何かの物事に対し、
日本では、「ことわざ」や「辞世の句」を使うけど、
欧米人だと、有名な哲学者の言葉を引用し、それを聞いた者が、返事として、その哲学者の名前を出して、「まさにソクラテスですなぁ」とか。
お互いの知識や価値観の共有を確認しあい、認め合えたり、言葉遊び的に使ってますねw
それを知らなそうな相手だと、その確認は出来ないので、教えてあげる感じでしょうか。


哲学ばかりやってて、行動しない人が多いので、哲学オタクは私は好きじゃないです(笑)
そんなん考えたり語るよりも、今目の前の問題解決に向けて、具体案を考えろよ!と・・・
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考えることです。

今では、文系の専門分野の1つと捉えがちですが、考えることすべてが哲学になります。

人間が人間である所以ですから使い道もなにもありません。生きることすべてです。考えない人間は、猿と同じです。
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物事における 真理 真相 真実 を求める事。



学者や研究家のようにならない人には、使い道はありません。
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知(ソフィ)を愛(フィロ)する。


ここからフィロソフィー(哲学)の名が起こった
ことは、周知の事実です。

哲学とは、ある特別な領域を形成している
学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには
誰しももたねばならぬものなのです
ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって
後世に示したのです

近代哲学というものは、「自我の自覚から始まる」
と言われております
いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、
人間が人間らしく生きるための根本でもあるのです

「魂の健康」を育む哲学こそ民主制を支える柱なのである
と言えます

心理学は、心の因果関係や法則を発見し、役立てる学問です
哲学とは 人生観 生き方 宗教で、役立てる魂の学問です

結論すると、哲学とは「より善く生きるための知恵」です
大海原での羅針盤、登山での道標に当たります
今風に言うならば、人生の王道に迷わないためのナビゲーションです



参考・・ソクラテス・プラトン
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage9.html

参考・・汝自身を知れ
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage8.html
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人生いかに生きるべきか。

??┐('~`;)┌一生それを考えて生きて行くのが使い道です?┐('~`;)┌
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色々と考えること!



使い道は、いまだに発見されてないかも?

(  ̄▽ ̄)にっこり!
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次のように考えます。




1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということである)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びるということを知った。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。生命性とも言う。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考える知性)を超えているので 生命性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べる飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとするウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫するなかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔への信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰という蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させる。それに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

知性における哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
感性における自己表現たる芸術行為と同等であると考えられる。
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