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耽羅の起源について、Wikiに次のような説明が載っています。

<耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(へきろうこく)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられており、東国の碧浪国について、『高麗史』『南槎録』『耽羅志』は日本国として、日本から来た娘としている>

日本から来た3人の娘については、事実か伝説か創作かはっきりとはしないと思います。

質問は、古代、日本と耽羅は、どのような関係だったのでしょう?

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A 回答 (4件)

新羅の建国神話には、少なくとも2人の日本人が登場する。

一人は有能な臣下。もう一人は王(第四代新羅王の「脱解」)だ。
半島南部諸国と日本とは交易・移住など密接にかかわっていた証拠だろう。

耽羅の建国神話も、耽羅と日本が交易・移住など密接にかかわっていたことの証拠だろう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<耽羅と日本が交易・移住など密接>ですね。
<半島南部諸国と日本とは交易・移住など密接>ですね。
近隣国ですから、(敵対もあるでしょうが)友好な関係が互いに得なのでしょうね。

お礼日時:2022/05/11 18:21

詳しいことも、大雑把なことも知らないのですが、



No.3の回答に対しての次の理解は、おかしいように思います。
① <耽羅と日本が交易・移住など密接>ですね。
② <半島南部諸国と日本とは交易・移住など密接>ですね。
③ 近隣国ですから、(敵対もあるでしょうが)友好な関係が互いに得なのでしょうね。

日本書紀の福永現代語訳には、次の記載があります。
   ~~~~~~~  斉明天皇  ~~~~~~~~~
西征と天皇崩御
七年春一月六日、天皇の船は西に向って、航路についた。八日、船は大伯の海(岡山県邑久の海)についたとき、大田姫皇女(中大兄の子で、大海人皇子の妃)が女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女と名づけた。十四日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊った。
三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。
夏四月、百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済の王子糺解(豊璋)をお迎えしたいと乞うた。――釈道顕の日本世記には、百済の福信は書をたてまつって、その君糺解のことを東朝に願ったと。またある本に、四月、天皇は朝倉宮(福岡県朝倉町)に移り住まれたとある。
五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。このとき朝倉社の木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった。
二十三日、耽羅(済州島)がはじめて王子阿波伎らを遣わして調をたてまつった。 ――伊吉博徳の書に、この年一月二十五日、越州(杭州湾南岸)についた。四月一日越州から出発して東に帰った。七日檉岸山の南についた。八日暁、西南の風に乗って船を大海に出した。海上で路に迷い漂流して苦しんだ。九日八夜してやっと耽羅島についた。島人の王子阿波伎ら九人を招きもてなし、使人の船にのせて、帝にたてまつることとした。五月二十三日、朝倉の朝廷にたてまつった。耽羅の人が入朝するのは、この時に始まった。
また智興の供人の東漢草直足島のために讒言され、使人らは唐の朝廷から寵命(おほめのことば)を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷にうたれて死んだ。時の人は「倭の天の報いは早いことだ」といったとある。
六月、伊勢王が薨じた。
秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その後に天智天皇のところに、何度も耽羅のことが出てきます。
上の斉明7年の記載からすると、耽羅の存在を、日本の大和朝廷は、それ以前には知らなかったと考える方が妥当のように思います。
地理的にみれば、済州島のことを知っていても良さそうですし、住民相互にはローカルな交易のようなものがあった可能性を否定はできないものの、王権にとっては存在さえも知らないということでしょう。
継体天皇のところに、「(継体二年)十二月に、南の海の中の耽羅人(済州島の人)が初めて百済国に使いを送った。」という記載があるけれども、継体の記載は元々怪しいですから。

空海が性霊集の中で、次のように書いているそうです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
賀能(葛野麻呂)等、身を忘れて命(天皇の命)を街み、死を冒して海に入る。既に本涯を辞して中途に及ぶ、比に、暴雨帆を穿って、脱風柁を折る。高波漢(天のこと)にそそいで、短舟裔裔たり。凱風(南風)朝に扇いで肝を耽羅の狼心に罹く。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このころ、耽羅・済州島は、暴風雨で海上遭難すると漂着するような場所という認識があって、通常の交易の地域という認識は、なかったのでないでしょうか。

済州島では、11世紀に、火山噴火で、「済州島の山に四つの孔が開き,赤水が湧出し,五日たって止まる.其水は皆,瓦石となった」、「耽羅で瑞山が海中から湧出した.大学博士の田拱之を遣わし,島に往き視察させた.耽羅人の証言では,山が出始めると雲や霧が暗く覆い地の動じること雷の如くであったが,およそ七昼夜たって始めて晴れ渡ったという.山高は百余丈(300m前後),周囲四十余里(16km前後)はあるだろう.草木は無く煙気がおおい,上を望むと石硫黄のようなものが見える.島人は恐懼して敢えて近づかない」ということもあったようです。

世宗実録地理志の成立は15世紀、高麗史の成立は15世紀、耽羅志の成立は17世紀、南槎日録も17世紀、耽羅巡歴図は18世紀に書かれたもので、古代の事情を知っていて書かれたものではないでしょう。

https://www.moralogy.jp/salon210921-1/
> 日本から来た3人の娘については、事実か伝説か創作かはっきりとはしないと思います。

まあ、創作には違いないでしょうが、誰か一、二名で創作した原作が伝わったというのではなくて、多くの人が適宜枝葉や根、幹を入れ替えたりに関与し、長期にわたって造り上げてきた伝承なのでしょう。

根拠もない推定ですが、三姓穴の伝承も、12世紀以降~14世紀の時代に造られたもので、古代には話しのかけらもなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

<世宗実録地理志の成立は15世紀、高麗史の成立は15世紀、耽羅志の成立は17世紀、南槎日録も17世紀、耽羅巡歴図は18世紀に書かれたもので、古代の事情を知っていて書かれたものではないでしょう。>ですね。
遺跡もないことですので、確定したことは一切ありませんね。

お礼日時:2022/05/13 17:16

週5でタコパしてました。

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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/05/11 18:17

どのような関係でもない。

耽羅が何回か朝貢にやってきたことがある程度。日本は、古来より海外に漂着して行方不明になるのが日常茶飯事で、記録も何にも残らない。

(2) 耽羅 - YouTube
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2022/05/11 18:16

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