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607年に小野妹子が隋に行ったと思うのですが、
プリントに「前提は高句麗・隋との対立」とありました。
対立の部分をもっと具体的に言うとどうなるのでしょうか?
歴史に詳しい方教えてください。

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A 回答 (4件)

高句麗は日本が嫌いだったのでしょうか。



新羅本紀・百済本紀には倭の記事がたくさん出てくるのに、
高句麗本紀には全く出てこない。
日本書紀には高麗の名で結構あるのに
其れに関係する記事が高句麗本紀にまったくない。

変ですな。わざと消した気がする。

いくら戦争厳しく焼かれた記事多いというが、
それでも違和感覚える。

とはいっても
新羅統一後に
遡っての編纂だから、
失われた記録・伝説多いとは思うけどね。
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中国大陸の統一に成功した隋が、高句麗に大規模な侵略戦争を何度も仕掛けていましたからね。


高句麗はすべて撃退していましたが、百済・新羅を挟んで高句麗vs日本の比較的平穏な対立構造が、一気に食うか食われるかの切羽詰まった国際状況に激変したわけです。
それで朝鮮半島の国々、特に矢面に立たされた高句麗は、日本に仏教の高僧を送るなど、日本と軍事同盟を結んで隋の圧力に対抗しようと画策したわけです。

で、日本としては取り急ぎ、隋の状況や朝鮮半島や日本に対する考え方を把握しようと情報収集のために小野妹子を遣隋使として送った。そういうことです。
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高句麗と隋との対立、と解釈すると当時の日本の外交が垣間見えます。



日本国内では厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我氏に対して優位に立つために、隋と親交を深めようとしたのです。蘇我氏は高句麗と親交があり、蘇我氏と厩戸皇子は対立していました。

朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国に分かれていましたが、当時の世界帝国である隋に対して、高句麗と百済は早々に朝貢して冊封体制が出来上がっていましたが、その後、隋と高句麗は対立するようになります。

以上は、Youtube高校の「遣隋使」の内容です。
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まず、そのプリントをだれが書いたかわかりませんが


一般的な解釈ではないと思われます。

隋書俀国伝
 大業三年其王多利思北孤遣使朝貢
 使者曰聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法
 其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云
 帝覽之不恱謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

 大業三年、その王(倭王)多利思北孤(聖徳太子と思われる)は
 使者を遣わし朝貢した。
 使者曰く。「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に、
 遣わして朝拝し、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばむとす。」
 その国書曰く。「日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。
 恙なきや、」云々。
 帝は之を覧じて悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蛮夷の書、
 無礼有るは復以って聞する勿かれ

これが607年の遣隋使の記述です。
この時の遣隋使の目的は、仏教の教えを乞うことです。
有名な「日出處天子致書日没處天子」は単なる挨拶文で、
仏教用語に「日出処是東方 日没処是西方」と方角を表す語が
あるように、隋との対立を考えたものではありません。
煬帝が立腹したのは、皇帝である自分と同格の王としたこと
だと思われます。



もし興味があれば「隋書俀国伝」の他の記述の口語訳を
読んでみてください。最近は検索すれば出てきますが、
 開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
開皇二十年(600年)にも使者が派遣されています。
この時の報告から、正式に仏教の教えを乞うために
607年の遣隋使が派遣されたと考えます。

また、上記の遣隋使の記述以後を読むと返礼として使者が派遣され
日本側がそれを歓待した様子が書かれています。
これはほぼ同様の記述が日本書紀(巻第22 推古天皇)にも
書かれており、隋書の創作ではないと考えます。
ただし、日本書紀は書かれた時代が隋を倒した唐の時代なので
隋ではなく大唐となっています。

ちなみに、高句麗との対立を挙げるなら倭の五王の頃に
大国である宋の後ろ盾としての官職を要請して
 使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事
 安東大将軍 倭王
の称号をもらったりしています。
遣隋使の頃は頻繁に隋が高句麗に侵攻していますが、
これに関する記述がないので、深読みのし過ぎではないでしょうか。
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