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No.3
- 回答日時:
> 自灯明法灯明と唱えられたお釈迦さんがいわれる「法」は誰が創られたんですか。
お釈迦さんが創り、そしてアーナンダに説いたのでしょう。
ヴァイシャーリーには竹林精舎や祇園精舎のような僧坊がないので、比丘たちは分散して雨季をすごさなければならない。
当時、ブッダは病いにかかり、激しい痛みに襲われていた。しかしブッダは、おおぜいの弟子たちのいないいま入滅することはできない、と禅定に入って苦しみに耐える。
最後の説法を懇願するアーナンダにたいして、ブッダは説く。
「アーナンダよ、わたしはすでに、ことごとく説きつくした。 わたしは老いおとろえた。 古い車は革紐の助けでやっとうごく。 わたしの身体も、革紐の助けをかりてやっとうごいているようなものだ。 わたしは教団を守ろうとか、弟子たちを導こうとは思っていない。
自らを燈(あるいは島)とし、自らを依りどころとし、法を燈とし、法を依りどころとして精進しなさい。そのほかのものを燈とし、依りどころにしてはならない」
〈自燈明、法燈明〉〈自帰依、法帰依〉の教えとよばれるこのときのブッダの説法は、もっとも基本的な教えのひとつとして、後世の仏教徒に尊重されている。
仏教では、「創った」とは表現しないで、「悟った」と表現します。

No.2
- 回答日時:
法とは「ダルマ」。
この世を支配する法則。
曰く「縁起」
もう少し嚙み砕いて「諸行無常」「諸法無我」
何事も移ろいゆくのなら、生者必衰も動かせない法である。
しかしそれを納得できない連中が不老不死に手を出す。
結果は惨憺たるものである。
「諸行無常を受け入れ道理にかなった生き方をする」
それが自灯明法灯明である。
諸行無常は「法」である。
しかしそれを受け入れるのも生き方を模索するのも「自」分にしかできない。
少なくとも初期仏教はスピリチュアルとは無縁である。
ついでに言うと、法華経では仏教が迫害されることも予言している。
ブッダが法を説こうとすると、その座から5千人の聴衆が立ち去った。
方便品では「仏の智慧は難解難入ゆえ理解されないだろう」と自ら言い放っている。
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