

1573年に武田信玄様の後を継いで武田家当主になった武田勝頼ですが、世間的には「強すぎる大将」として特に有名で、1575年の三河長篠の戦いにおいて、武田勝頼が寵愛してた跡部勝資・長坂釣閑の意見を取り入れ、逆に武田家宿老の山県昌景・馬場信房等の意見を完全無視して織田徳川連合軍と戦った結果、武田信玄様以来の重臣・宿老のほとんどを長篠の戦いで失い、それ以降も織田徳川連合軍に無謀な戦いを挑んだだけでなく、上杉謙信亡き後の上杉家当主を決める戦でも、勝頼自身が寵愛してた跡部勝資・長坂釣閑の意見を取り入れ(跡部・長坂は上杉景勝側から密かにワイロを取ってたらしい)、勝頼が北条家との連合を無視して上杉景勝側についた結果(北条家は上杉景虎側についてた)、それまで武田家と同盟を結んでた北条家とも対立して、その為に同盟解消した北条家も敵に回して武田家は四方八方敵だらけとなり、更に家中にも小山田信茂・木曽義昌・穴山信君等の裏切り行為もあった為か?武田信玄様亡き後、わずか9年(1582年)で甲斐武田家そのものを滅亡させた最後の甲斐武田家当主・武田勝頼を皆さんはどのように評価しますか?そして、武田信玄様の父・武田信虎と武田信玄様の四男・武田勝頼…どちらが政治能力と家中をまとめる力に欠けてたと思いますか?親切丁寧に教えてください。
ちなみに武田信虎も武田勝頼もそれぞれ自身の領国経営はほとんどせず、領国拡大(領国支配)に躍起になってた武田家当主です。
A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
ゲームに全く興味が無いので的外れの回答になるかも・・・
真田が武田の家督を継ぐ事は有り得ないと思いますよ。
真田は信濃の豪族海野の一族です、甲斐の武田とは、敵対関係に有りました。
信濃の勢力に敗れた主家の海野棟綱は、関東管領の上杉憲政を頼って上野国
に身を寄せ、真田幸綱も、上野国箕輪城主・長野業正に身を寄せていました。
そこに、山本勘助が海野家再興の話を持ち掛けて来ました、この説得に
応じて、武田の家臣に加わりました、新田次郎の著作からの抜粋です。
信濃攻略には多大な功績を残しましたが、武田家家臣としては新参者
ですし、山本勘助が戦死してますので、家督云々は有り得ないでしょう。
武田勝頼を岩櫃城に向かい入れて、織田・徳川に抵抗する用意は、してい
たようです。
上野国沼田城の割譲を条件に、小田原の北条と手を組めば、充分に
対抗出来る勢力だと思います。
歴史は真田家を武田勝頼は頼りませんでした。
長篠の戦で長男と次男が戦死したので、養子に出ていた三男昌幸を
真田に復帰させたのが、武田勝頼です、しかも、昌幸が信玄の小姓衆の
頃には知己の間柄だったのに・・・やはり、歴史に「もしも」は、無いの
ですね。
No.4
- 回答日時:
領土拡大路線で戦ばかりしている、父親を追放して、領主に就いた、
倅が父親と同じ領土拡大路線をして、道半ばで死に、征服した氏族の
娘が産んだ子が後を継ぎました、亜流の子は、頑張って、甲斐の国
を最大版図にしました、休む事無くの拡大路線で、内政はおろそかに
したので、領土拡大したのに、財政は潤わず、骨密度がスカスカの
状態です。
そこに、百姓の年貢に頼らず、商いで財政を潤す、信長が登場し、
家臣や領民を大切にする、深謀遠慮の家康の両雄が現れました。
当時の近代兵器を装備した軍隊と新しい戦略の前には、古い騎馬隊
では勝負に、なりませんでした。
結果論ですが、越後勢を駆逐して、信濃を、ほぼ手中にした時点で、
一息ついて、内政を充実すればと、思うのですが、人間の欲は、
もっともっとで、先に行くのですね。
その中で、特筆すべきは真田家です、明治まで、生き残りました。
この、したたかさは、どこから生まれるのですかね。
古来より、覇権主義の国は、ローマ帝国を筆頭に、滅んでますね。
回答ありがとうございます。
ちょっとまた質問ですが、個人的に「信長の野望 創造 with PK」において、武田信玄様で1570年スタートのシナリオでプレイした場合、予め菊姫を側室扱いで真田昌幸に嫁がせて、武田信玄様が西上作戦を達成した後で家督を真田昌幸に譲るって言うやり方をしてます。
武田勝頼(諏訪家)と仁科盛信はは既に他家を継いだ物として、武田家家臣(一門衆)のままプレイしてますけど、仮に、史実で武田家の重臣・宿老が武田家の家督継承者に武田勝頼と仁科盛信よりも能力の優れた・守りに定評がある・家名を存続させた真田昌幸を推して、武田信玄様が重臣・宿老の意見を尊重して真田昌幸に武田家家督を継承させて、家名も武田家から真田家にした場合、真田昌幸を擁する武田家(真田家)はどのような内政・領国支配・外交をすると思いますか?その辺も親切丁寧に教えてください。
No.3
- 回答日時:
信玄は、内政も重視していて、田植えや稲刈りの時期を避けて合戦をしていました。
偉大な先代と比較されることが勝頼の不運。勝つための人材消耗が大きいのはデメリット。合戦に銃が重要な役割をすることを無視したのも大きな失点。
武田信虎は、とりあえず武田家を存続させてますし、そこそこ良い評価でいいかと。
勝頼が下です。
No.1
- 回答日時:
信虎公の功績は近年再評価されていますよ
原昌虎あたりに、足軽を預けて
信虎の直属部隊を作り、機動的に動ける軍隊によって、内乱を次々鎮圧したなんていうのは、当時最先端の軍事的仕組みでしたし
内政では、躑躅ヶ崎館に本拠地を移して、現代にいたる甲府発展の石杖を築いたとされます
軍事で天才的な発想を持っていただけでなく、内政も評価されていて
専門家は、信虎の働きなくして
信玄公の活躍は無かったと評価しているようです
信虎は追放後
信玄公と仲直りして
京の都で武田家のために工作活動をしていたとされます
勝頼公は、諏訪家の姫の子ども
というのがネックでしたが
能力適してには信玄公に勝るとも劣らない、とも評価されますよね
ただ、諏訪家の跡継とになる血筋から、諏訪家の通字
頼
の1字を持ち
信玄公亡きおとは
武田のトップの代理である
陣代
としてトップ代行の地位にあった勝頼公は、活躍しなくてはという焦りからか、大事な場面で致命的なミストは複数回繰り返してしまいましたよね
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