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源範頼は、なぜ曾我兄弟の仇討ち事件の後に源頼朝から疑われて排除されたのですか?

A 回答 (4件)

決定的だったのは、頼朝の機嫌損ねて失却中に、家臣を頼朝の寝所の床下に忍ばせて動向を探っていたこと。


これで申し開きも通らなくなりジ・エンド。
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No.2 回答者: 春閑さんに、一票です。


源義経と同じ理由で、排除されたのです。
力を合わせて、前の政権を倒し、目的が達成された後は、家臣団の
派閥争いが始まります、この時に、一番利用されるのが、弟なのです。
政権発足間もない頃は、態勢が固まっていないので、担ぎ出される事
が多いのです。
頂点に立てば、それを維持するのに、一瞬たりとも、気が休まる事は
無いのです。
この事は、武家に限らず、世界中の王家も同じ状況です。
古事記は天皇の跡目争いが満載の面向きですね。
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吾妻鑑によれば、頼朝の安否を心配した北条政子に、「俺がいるから大丈夫」みたいなことを云ってしまった。


それで頼朝から自分の死後に将軍職を奪い取る可能性を疑われたことになっている。

頼朝に男子が二人いる以上、範頼に将軍の芽はない。ドラマでは比企氏が範頼をそそのかすような策謀が描かれているが、比企氏は二代将軍がほぼ約束された頼家の外戚だ。それはないだろう。

範頼は義経と同じ妾腹だ。異母兄弟は頼朝にとっては家臣と変わらないが、将軍職を継承する可能性はゼロではない。ある意味、頼朝にとっては危険人物の一人には違いない。

範頼は義経の影に隠れて凡将扱いされることが多いが、源平合戦では頼朝の名代として主将格で大軍を率いて勝利に導くなど、それなりに剛毅な人物だった。元々、頼朝からすれば義経と同じく排除すべき人物の一人だったということだろうか。
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この回答へのお礼

いつもご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/06/16 15:31

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84 …

建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。
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