卒業論文で銭湯の歴史について調べ、銭湯の現状を踏まえた上で江戸時代の銭湯を中心に銭湯の役割・可能性を地域コミュニティの視点から調べようと思っていました。
それを指導教官に伝えにいったところ「銭湯の役割・可能性を提言するのは論文としてはおかしい。」
提言するというのが論文的におかしいらしいです。
現在ス-パ-銭湯がたくさんできているが、実は江戸の銭湯のコミュニティの流れをうけついでいるものなんのだよという風にしたらいいといわれました。
コミュニティを主観においた場合江戸の銭湯とス-パ-銭湯の共通点てあると思いますか?

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A 回答 (3件)

江戸時代の銭湯はいわゆる湯屋という機能だけでなく、二階で湯女というサービスガールが酒肴も出したようです。

  風俗を乱すというので法令で禁止されたようですが・・・
この後碁、将棋盤をおいて娯楽や、茶飲み話の場としての機能を担ったようです。

現在のスーパー銭湯なるものをよく知りませんので比較などはようできません。
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>どこからの情報ですか?



テレビの経済番組で、ス-パ-銭湯を最初に作った社長さんか何かのインタビューで聞いた記憶がありました。
会社名や番組名などは、憶えていないので申し訳ないです。
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どちらも、複合型の娯楽施設でしょう。



奥さんの社交場が井戸端ならば、男の社交場が銭湯だった。
というか・・・そもそもス-パ-銭湯は、江戸の銭湯文化を研究して作られたんじゃなかったっけ?

この回答への補足

ありがとうございます。
どここからの情報ですか?
なにか情報あったら教えてください

補足日時:2005/03/31 07:46
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Q東京・千葉の銭湯はどんな感じ?

私は現在京都に住んでおり、来年から就職で東京です。私は銭湯に行くのが好きで、京都はもともと銭湯が多く、そして安い(370円)ので、色々なところに入りにいって楽しんでいます。

で・・・。
東京や千葉の銭湯の値段って、どんな感じでしょうか?京都のように、街じゅうそこらじゅうに存在するのでしょうか。それと、サウナが別料金だったりするのでしょうか。京都ならば370円でサウナにも入れるのが当たり前ですけれど。
お金をかけない(安い)、時間もかけない(近場にある)、楽しく飽きない(銭湯がたくさん近くにある)といった銭湯ライフスタイルを変えずに東京でも生活していきたいんですよね・・・。

ご存知の方、どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

銭湯の料金って都道府県ごとに決められていて、東京都は400円、千葉は385円です。

参考URLに載せておきましたが、東京って意外と銭湯多いんですね。そういえば、私も東京(23区外)在住ですが、家から半径2キロ以内に2つあります。京都は残念ながら旅行でしか行ったことが無いので、どのくらい多いのか分かりませんが。。。

私も広いお風呂が好きなので行きつけのちょくちょく行くんですが、私の行く銭湯はサウナ料金込みで400円です。ドライヤーとかマッサージ器を使うのには別に数十円かかります。

あと、月1回ぐらいしか行きませんが、比較的近くにスーパー銭湯があります。私が行くところは感謝デーには800円で3種類のサウナと3種類のお風呂が楽しめるのでなのでついつい長風呂してしまいます。

東京や千葉でも場所によって密集度合が違うので一概に言えませんが、私的には銭湯ライフ楽しんでますよ。

参考URL:http://tazzmory.hp.infoseek.co.jp/sento-ryoukin.htm

Q【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。 戦国時代の

【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。

戦国時代の日本人口は1000万人くらい。

少なく見積もっても800万人。

で、大名に万石という土地を分け与えて国を管理していた。

そのときに3番目に多くの土地を貰っていたのは九州の大名で86万石。

天皇の朝廷
その時の天下人
でこの3番目の九州の大名

3番目の九州の大名で86万石。

日本で3番目に多くの領地を貰っている大名で最大で86万人しか食べられない。

ということは最低でも800万人国民いたとしたら、大名の数が当時の数と合わない。

本当はもっと総人口は少なかったのでは?

天下人と天皇の朝廷は大名に年貢を納めさせたので大名の万石から譲り受けたわけだからノーカウントとして、残り714万石。

あとの大名は10万石とかですよね。

当時の大名ってそんな数いませんよね?

おかしくないですか?

Aベストアンサー

士農工商のうち、武士以外が米を食っていたとでも?

Q川中島の戦いについて教えてください!

今、川中島の戦いについて調べているんですけど、(五回とも川中島の戦いとして)
・室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
・川中島はどこなのか
・四回目が一番有名ですが、そのわけは?
ということが知りたいです。

それと、私の教科書では室町→安土桃山となっていましたが「南北朝時代」「戦国時代」というのは載っていないんです。一緒に説明してくださるとうれしいです。

Aベストアンサー

はじめまして、
#1さんの書かれているwikiをごらんになればわかる内容ですが、せっかくご質問されているので簡潔に回答します。

>室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
安土桃山時代は1573年に織田信長が足利将軍を京都から追放した年を始めとしています。これで室町幕府が名実ともに終了したということですからね。川中島の戦いは1550年代から1560年代ですから、当然に室町時代です。

>川中島はどこなのか
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地ですから現在の長野県長野市になります。

>四回目が一番有名ですが、そのわけは?
両軍の主力が激突した大規模な戦闘が行われ、双方に最大の戦死者がでたからです。他の戦いは小競り合いの域をでません。

>「南北朝時代」「戦国時代」
南北朝時代は、室町時代の初期に朝廷が北朝・南朝と分裂していた時期のなまえです。同じく戦国時代は応仁の乱から室町幕府の終焉の時期をいいます。普通の歴史教育では双方とも室町時代にはいっています。

ここで聞かれるよりも、ネットで各々のキーワードで検索すればもっと詳しいことがわかりますよ。

はじめまして、
#1さんの書かれているwikiをごらんになればわかる内容ですが、せっかくご質問されているので簡潔に回答します。

>室町時代なのか安土桃山時代なのか(またいでいる?)
安土桃山時代は1573年に織田信長が足利将軍を京都から追放した年を始めとしています。これで室町幕府が名実ともに終了したということですからね。川中島の戦いは1550年代から1560年代ですから、当然に室町時代です。

>川中島はどこなのか
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地ですから現在の長野県長野市になります。

>...続きを読む

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q久御山ICから東名高速へ

帰省で久御山ICから関東方面へ行きます。
お盆休みは避けます。
高速道路のHPでルート検索すると久御山から京滋バイパスを下って大山崎に出て名神を通るように指示されます。
私は久御山から京滋バイパスを上って瀬田東に出て名神に入った方が早いと思うのですが・・・?
なぜ後戻りするように指示されるのでしょうか?
お金が掛かるからでしょうか?
時間が掛かるからでしょうか?
教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

多分「京滋バイパスが高速道路扱いにならずに検索されたから」から
だと思います。サイト上の経路検索って、アホなものが少なくない
ですから、信じちゃダメです。

はい、普通は素直に京滋バイパスを瀬田西に抜けますし、道路上の案内
も「→名古屋」は京滋バイパス瀬田方向を向いていた筈です。つか、
大山崎のI.C.は妙にグルグル回って方向感覚がヘンになりますから、
どうしょうもない時以外は、通らないほうが「吉」です。

Q歴史江戸時代についてです

今学校で歴史をやっていて、課題をまとめるという宿題があるんですけど、
何問か分からないところがあるので簡単にでいいので教えて下さい

(1)江戸幕府は、どのように全国を支配したのだろう。      

(2)江戸幕府の対外関係は、どのように変化していったか。

(3)江戸幕府の対外対策は、どのように変化していったか。

(4)江戸時代には、どの産業が発達しただろうか。

(5)田沼意次と松平定信の政策の特色について。

(6)は外国船の出現と天保の改革についてで、国の内外の危機に幕府どのように
対応したのだろうか。

以上の6つです
1つでもいいのでよろしくお願いします♪

Aベストアンサー

こんにちは。
NO.1です。
私は、自称「歴史作家」です。

NO4の方への反論と賛成です。

>>幕府は全国の直接統治をしていません。
直轄地以外は、藩主を指名して世襲制で統治を委任していました。

『神聖ローマ帝国』との違いを参照して調べるとよいでしょう。

全国の統治権を持っていたから、直轄地や各大名に委任をし、大名家で不祥事、例えば、継嗣がいない・・・などの理由で藩のお取り潰しを行い、できるだけ小規模な国政をしようとしています。

>(2)江戸幕府の対外関係は、どのように変化していったか。

「鎖国」と言う言葉は、ドイツのエンゲルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」に書かれたものを、蘭学者の志築忠雄が、享和元年(1801)の「鎖国論」で初めて使用した言葉であって、「徳川実記」では、「海禁」と書かれています。

また、「鎖国」?とはいっても、幕府は一気に「鎖国」をしたわけではなく、

慶長17年(1612)・キリスト教禁止令を出す。
寛永10年(1633)・奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。
寛永12年(1635)・日本人の海外渡航と帰国を禁止。
寛永14年(1637)・島原の乱。
寛永16年(1639)・ポルトガル船の来航禁止。
寛永18年(1641)・オランダ商館を平戸から長崎の出島への移転。

このように、渡航制限ははしていたものの、幕府としては、やはり、海外の事情にも目を向けざるを得ませんでした。
つまり、「孤独化」であっては、広い日本を牛耳ることができなかったため、
「四口」(よつのくち)と呼ばれる海外との交易は認めていました。

(1)中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
(2)中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
(3)中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。(これが一般的な出島貿易です)
(4)蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。

とにかく、幕府がいち早く、海外情勢を知ることを第一条件としました。

近年、「鎖国」と言う言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版の「新日本史」では、本文中には一切「鎖国むという文字は出てきません。

編者の東大教授藤田覚氏によれば、
「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではなく、その状態がたまたま200年ほど続いたから「なんとなく鎖国」だつだのだろう、という結論に至っています。
従って、幕府は、断固として外国勢力や情報を意図して排除したわけではなかったのです。

と、いうことは、貿易を排除するということは、自国自産で国が成り立っていける・・・と考えたからです。


>(4)江戸時代には、どの産業が発達しただろうか。

戦国時代の終焉と同時に、農業機械や施設、灌漑整備が非常な速度で「発明」「工夫」がなされました。
例えば、それまでの「鍬」(くわ)から「備中鍬」(びっちゅうぐわ)や、灌漑用水の堰き止め方などが工夫されました。
従って、納税義務である「米」の収穫量は飛躍的に増加しました。

農村では、「米」の収穫量は増加しましたが、「米」は自然栽培でしたので、天候不順などによって凶作となることもあり、非常な不安定な「税金」でした。しかし、新田開発などに人々は努力を惜しまなかったのです。

>(5)田沼意次と松平定信の政策の特色について。
重商主義と重農主義でしらべるとよいと思います。

これは、そのまま「検索」で調べて、自分なりの考えをまとめて下さい。

>(6)は外国船の出現と天保の改革についてで、国の内外の危機に幕府どのように
対応したのだろうか。
ヒントは、日本が武家、即ち武人が覇権を握る国家だったということです。
隣の文人国家であった李氏朝鮮との対応を比較してみるとよいでしょう。

まあ、「正解」とも言えるのですが、「桜田門外の変」などを良く「検索」して、自分なりにまとめてはいかがでしょうか。
対外政策としては、幕末の一大大事件ですから・・・。

こんにちは。
NO.1です。
私は、自称「歴史作家」です。

NO4の方への反論と賛成です。

>>幕府は全国の直接統治をしていません。
直轄地以外は、藩主を指名して世襲制で統治を委任していました。

『神聖ローマ帝国』との違いを参照して調べるとよいでしょう。

全国の統治権を持っていたから、直轄地や各大名に委任をし、大名家で不祥事、例えば、継嗣がいない・・・などの理由で藩のお取り潰しを行い、できるだけ小規模な国政をしようとしています。

>(2)江戸幕府の対外関係は、どのように変化し...続きを読む

QJR松本駅付近のおすすめの銭湯はどこでしょう

JR松本駅付近のおすすめの銭湯はどこでしょう

いつもお世話になっています。
さて今年は槍が岳に登ろうと思うのですが、下山後、松本で一風呂あびようと考えています。ところが、最近では銭湯がどんどんなくなっていますね。

つきましては、松本駅周辺でスーパー銭湯も含めたおすすめの銭湯がありましたら、ご教示下さい。

Aベストアンサー

下記が松本駅周辺の銭湯の分布地図です。意外に沢山あるのでびっくりしました。この中から選んで下さい。



http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%EF%BC%AA%EF%BC%B2%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%A7%85%E3%80%80%E9%8A%AD%E6%B9%AF&ie=UTF8&brcurrent=3,0x601d1400e84368c7:0xcb8d6d363210cddd,1&radius=30.07&sll=36.235412,137.885284&sspn=0.68455,0.899506&split=1&filter=0&rq=1&ev=zi&hq=%EF%BC%AA%EF%BC%B2%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%A7%85%E3%80%80%E9%8A%AD%E6%B9%AF&hnear=&ll=36.232989,137.971802&spn=0.042786,0.056219&z=14

Q【歴史・江戸時代の虚舟(うつろぶね)は何だったのでしょう?】もう真実は分かっているのでしょうか?

【歴史・江戸時代の虚舟(うつろぶね)は何だったのでしょう?】もう真実は分かっているのでしょうか?

うつろ船はUFOの形をしており、上面はガラスで、下面は鉄で出来ていた。

UFOから女性が小箱を持って降り立った。

UFOには何らかの言語と思われる文字が記載されていた。

疑問1
うつろ舟は何だったのでしょう?

疑問2
うつろ舟から出て来た女性は異国人だった。

中国系?朝鮮系の服を着ていたことからうつろ舟は当時の最先端技術である鉄とガラスで作られた船だった?

船はカプセル型で中から開けられたが1人乗りで中国や朝鮮半島から日本に漂流してたどり着いたとして食事はどうしていたのか疑問が残る。

疑問3
女性が持っていた小箱の中身を知っていますか?

文字は○と十と△という記号。

ただ○を△と間違えたとしたら、江戸時代にうつろ舟に乗っていた女性はハングル文字を使っていたと思われる。

江戸時代に朝鮮半島はハングル文字を既に言語化して使用していたのでしょうか?

女性は朝鮮半島の人ですよね。ハングル文字とアジアっぽい服装。

では、うつろ舟は何だったのでしょう?

漂流させたらどこにたどり着くか調べる調査船だったのでしょうか?

【歴史・江戸時代の虚舟(うつろぶね)は何だったのでしょう?】もう真実は分かっているのでしょうか?

うつろ船はUFOの形をしており、上面はガラスで、下面は鉄で出来ていた。

UFOから女性が小箱を持って降り立った。

UFOには何らかの言語と思われる文字が記載されていた。

疑問1
うつろ舟は何だったのでしょう?

疑問2
うつろ舟から出て来た女性は異国人だった。

中国系?朝鮮系の服を着ていたことからうつろ舟は当時の最先端技術である鉄とガラスで作られた船だった?

船はカプセル型で中から開けられた...続きを読む

Aベストアンサー

真実はわからないでしょう。
虚舟のことが書かれた物も、実際に目撃した様子を記したのではなく、
人に聞いて書いた物なので、
今で言うと、怪談を話す時に「これは、友達の友達に聞いた話なんだけど・・・」というのと同じですね。
よりリアルにするために、こと細かく、説明してるんですね。
昔の人って、この「よりリアル」感を出すために、けっこう手の込んだことをしています。
人魚の本物に見せるために、動物のミイラをつなぎ合わせたり。
未知の物、不思議な物に対して、興味津々。
楽しむすべを知っていたんですね。
疑問に書かれたように、想像してみるとおもしろいですよね。

Qさいたま市か春日部市付近で電気風呂があるスーパー銭湯を教えて下さい。

さいたま市か春日部市付近で電気風呂があるスーパー銭湯を教えて下さい。幸手市の極楽湯にあることは知人から聞き知りました。他に御存じであれば教えて下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
探索したら下記がありました。

湯屋敷孝楽
http://www.yuyashiki.com/

でこいち元気湯
http://oo-tdmura.com/main4.html

ゆけむり横丁おおみや店
http://www.yukaisoukai.com/ohm/

ご参考までに

Q江戸時代・・・歴史学

江戸時代、公の機関で歴史学研究というのは為されていたのでしょうか?

水戸の大日本史は有名ですが、公儀や諸藩で歴史学とりわけ古代史・中世史の研究・考古学や、法制史の研究はされてなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 考古でもないし、古代、中世でもないのですが……。

『徳川実記』が公儀の編纂です。初代家康から10代家治までの編年体実録。幕府の命により、大学頭林述斎をリーダーとして編まれ、1849(嘉永2)年に完成されています。全516巻。なお『続徳川実記』もありますが、これは維新後のもの。
 なお『大日本史』は、徳川光圀の個人事業だったのが、水戸家に引き継がれ、完成したのはなんと1906(明治39)年。全397巻。まあ水戸藩の編史事業ですが、勤皇史観です。

 なお#1さんの言及されている「資料」ですが、江戸時代は文書社会です。だから文書を多く生産し、保存してきました。これが現在の近世史研究に役立っています。ただ、研究者によると、多すぎて、近世の研究者は「紙屑屋」などといわれているとか。「史料の限られている古代、中世の研究者が羨ましい」とは、知り合いの近世研究者のことばです。

 また、質問者さまは、「公儀」「諸藩」に絞って質問をされているので、これは贅言なのですが。
 たとえば考古学では、松平定信の命による図録『集古十種』などがあり、また民間には、いろいろなサークルがあり、好事家中心のものから、かなり実証的なものまで、盛んに活動しています。地誌や寺社の縁起、稗史(歴史書に近い歴史小説)などの出版が相次いだのもこの時期です。
 系図を作る職業もあったそうです。客は武家、豪農でしょうね。
 近世期の「歴史学」ならば、民間(というか個人的なそれ)のほうが活性化していて、後世への影響も大きいようです(頼山陽の『日本外史』が、維新の思想的支柱になったように)。

 話ずれました。ご参考になれば。

 こんにちは。

 考古でもないし、古代、中世でもないのですが……。

『徳川実記』が公儀の編纂です。初代家康から10代家治までの編年体実録。幕府の命により、大学頭林述斎をリーダーとして編まれ、1849(嘉永2)年に完成されています。全516巻。なお『続徳川実記』もありますが、これは維新後のもの。
 なお『大日本史』は、徳川光圀の個人事業だったのが、水戸家に引き継がれ、完成したのはなんと1906(明治39)年。全397巻。まあ水戸藩の編史事業ですが、勤皇史観です。

 なお#1さんの言及され...続きを読む


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