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川中島での武田信玄と上杉謙信の一騎討ちって実話ですか?創作ですか?
戦争で総大将が直接対峙するって中々ないと思うのですが。

A 回答 (5件)

創作です。



川中島の戦いは5回にわたっておこなわれていますが、その中で両軍相乱れて戦った大激戦は第4次の戦いです。この第4次の戦いでは武田信玄の本陣も襲われています。

武田側の歴史である『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉謙信であると知ったとしています。

江戸時代に上杉家が編纂した『上杉家御年譜』では、信玄に斬りつけたのは、荒川伊豆守という謙信の家臣であったとしています。もし実際に上杉謙信が武田信玄と闘っていたとすれば、これほど謙信の武名を高めることを『上杉家御年譜』に書かれていないのは不思議です。

これからは私の推測になります。

本陣を襲われたというのは武将として名誉なことではありません。でもこれが上杉謙信だったら、「彼のような武将だったら本陣の囲いを破られてもしかたがなかった」ということなのでしょう。ですので甲陽軍鑑で「後で上杉謙信とわかった」と書いたと思われます。

そしてこれをもとにして、有名な一騎打ちの話がつくられたのでしょう。上杉謙信、武田信玄という戦国を代表する武将が一騎打ちというのは、話としては面白いですものね。
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あったようです。

両者とも、先頭に立って指揮するタイプですから。
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その出来事は「甲陽軍鑑」を出自とするが、その書は記録としては疑わしいので、史実とは考えにくい。



ただ、近衛前久が謙信に宛てた書状には「自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」とあるので、謙信自身が太刀を振るったことは間違いないと思われる。

第4次川中島の戦いは、両軍とも3~4千人の死傷者を出した戦国屈指の大激戦だった。
一説によれば、謙信が霧に紛れて補給拠点だった善光寺平に撤退しようとしたところ、退路を遮断しようと川中島で陣を敷いていた信玄の本隊と遭遇戦が生じて大激戦となり、謙信が強行突破を図ったときに、謙信自身も太刀打ちせざるを得ないような大乱戦が生じたのではないかという。

私も、おそらくそういうことではなかったかと思う。

また、信玄側は何人も将が戦死するような惨状だったので、信玄自身も負傷したとしても不思議はない。
だとすれば、謙信の「太刀打ち」と信玄の「負傷」が合わさって、二人の一騎打ちという話に変質していったということかもしれない。
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有ったと思ってます。


長尾景虎は三欲の一つ、性欲(女)を断って、毘沙門天に願をかけた、
稀有の武将ですから、常識では考えられない、行動をとります。
その様な逸話には事欠きません、軍神と言われる所以かと。

双方合わせて、一回の合戦としては、日本史上最多の一万人の死傷者
を出した、激突ですから、色々な逸話が生まれるのは必然なのかも。
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ビートルズの武道館公演が終わった、翌週に、NHK教育テレビの、
「歴史探訪」で、このテーマを取り上げていました。
「天と地」の著者海音寺潮五郎さん(無かった派)「風林火山」
の著者新田次郎さん(有った派)の二人の論客です。
双方のテーブルには、関連資料が高く積まれていて、その資料を片手に
口角泡を飛す勢いで熱弁を振るい、沈着冷静な山川静男アナウンサー
が大汗を掻いて司会進行をしていた姿が、今でも眼に浮かびます。
結論は出ず、新たな古文書が見つかるのを待ちましょうで終了しました。

明治まで続いた、真田家ゆかりの地から、ひょこっと発見されない
かな~と、思っているのですが。
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たまたま、家来が全員、大将のそばを離れ、戦いに夢中で


大将の守備が手薄になり、空白が生まれた所に
謙信が見事に突っ込めて
信玄との戦闘が実現したのでしょうね。

謙信の武器を扇子で交わし、
勝負を決する前に
謙信は退却したというわけですか。
テレビなどでは追手が攻めてきて
信玄を守ろうとしたので
不利と見て退き、
どちらも死なずに済んだ。

そんな感じですかね。
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