アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

井上靖と司馬遼太郎が、西域を旅した後の対談からです。
二人は次のように語っています。

「土の遺跡はこわいですね。それに比べたら石の遺跡はさしてこわくなかった」

質問は、二人の語っていることは、本当にそう感じられるのですか?

A 回答 (1件)

> 土の遺跡はこわいですね。

それに比べたら石の遺跡はさしてこわくなかった

印象の比較ですから、「男は怖いですね。それに比べたら女はさして怖くなかった」でも、「女は怖いですね。それに比べたら男はさして怖くなかった」でも、2~3人が「ほんと、そうだよね~」ということはあります。
司馬にしても、井上にしても、逆の感想・印象をもつことだってあったはずです。 

司馬遼太郎と井上靖が1977年に、土で築かれた都市遺跡交河故城を一緒に訪れている。 「住居があって、ついさっきまで子供が遊んでいたという感じの横丁もある…整然としたイメージかというと、そうではなくやはり泥が風化した感じです…そこで感じたのは、なんといってもこわさでした。非常に原始的な一種異様なこわさの感覚」、「タタリのようなものでしょうね」のようなことを思ったらしいです。 「石なら整然としたままに残り、泥なら崩れて」で、廃虚の感覚を原始的感覚、幽霊・悪霊がいそう、遺恨が残ってそうと思うのでしょう。
でも、司馬は、「高取城は石垣しか残っていないのがかえって蒼古としていていい。その石垣も数が多く種類も多いのである。登るに従って横あいから石塁があらわれさらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいでまことに重畳としている。それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた」と書き、その直前に「石組みの補修や新規の普請などを担当したかれらはそれぞれ堅牢に石岻を細みあげたが、できあがってからもそれが崩れはしまいかとたえず心配していた。自分たちは死後も御城を守りたいとそれぞれ遺言し、諸木大膳は岡口門のそとに墓所をきめた。清水勘太郎は壺坂口門外に、本多外記は吉野口門外にというぐあいに、城の三方にそれぞれ葬られたというのだが城普請というのはそれほど大変なものだったらしい」と書いているので、石垣の重畳の様の中に、死後にも残す執着を空恐ろしいと感じたのでしょう。 高取城が1973年頃だとすると、1977年に見た交河故城の方が怖く、高取城はそれほどでもなかったというだけのことでしょう。
作家の一般化した表現を、その人の恒常的でいつでも通用させているものと理解するのは、常識的ではないです。 平気で、違うことを言ったり書いたりします。 そのときの状況認識が重要だからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<そのときの状況認識が重要だからです。>ですね。
この場面では<泥なら崩れて」で、廃虚の感覚を原始的感覚、幽霊・悪霊がいそう、遺恨が残ってそうと思う>のですね。
<高取城>の石の場合はそれとは違って当然なのですね。

お礼日時:2022/07/06 12:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!