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家の本家の基準はいつの時代からとか何代続いたらとかそう言う基準はありますか?区切りがないとほとんどの人が同じ家系にたどり着くことになりますが。庶民も公に苗字を名乗り出した明治時点での家が本家の基準にしてることが多いですか?

A 回答 (3件)

旧民法では家のトップを戸主といい、全ての財産や家族の人生の決定権は戸主のもので、その代わり家族の扶養、監督、家の祭祀を行う義務などがありました。


このトップの座は長男に受け継がれ、次男以下は他家に養子に行く、奉公にでて身を立てる、同居して独身のまま家業を手伝うなどになります。

次男以下が家の財産を分け与えられて、トップになることを許されるのが分家です。
この分家からみて、戸主が生まれた家が本家になります。
この分家も数代経つうちに財産を増やし、分家ができるほどになれば、さらに分家して・・・こうやって家が増えていきます。

法律で決まったのが明治の旧民法っていうだけで、相続の方法(一人が全ての義務と権利を受け継ぐ)というのは江戸時代も同じでした。
特に農民は財産の基本が田畑なので、平等に分けると家を維持していけなくなります。

現代では法律上は本家分家はありませんが、旧民法時代のイメージで、親戚で中心となる家、祭祀を主宰(墓守)している家、祖父の在所などを指して本家と呼ぶことが多いです。
また、旧民法の時代に本家だった家を慣習的に本家と呼ぶ場合もあります。この場合は一種の屋号ですね。
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単純に「本家と名乗っている所が本家」となるはずです。

本家かどうかは第三者が客観的に判断するべきものではないので。
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うちの家は 祖父は加藤清正の本家の出だと家系図があります


祖母の家は足軽から武士になり家老を務めていたという家系。
加藤の藤という文字で藤原氏の末裔だと名前で分かります。
奈良時代からの家系が続いています
秦さんなどは渡来人 秦一族です
弥生時代からの定住者もおられます 
京都の町は応仁の乱以降移り住んできた人が多いのですが
美濃から来た吉べぇさんで 美濃吉というようにどこから来た人かわかるような名前を付ける人もいます
明治時代に名前を付けた人のほとんどは同時にでたらめの家系図を書いてもらい清和源氏が本家だと言っています。
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