No.7
- 回答日時:
>確かに聡領制に対する反乱はあったでしょうが、
>血縁地縁による団結も強かったと思います。
>敗戦と判っていてなお戦い続けたのが理解出来ない
>のです。
おそらく、楠正成のことを指していると思います。
その楠正成についてですが、利害損得の観点で見る限り、
彼を理解することは、まず不可能です。
ここは司馬遼太郎氏の言葉を借りますが、彼は宋学の徒
であったと言うことです。
宋学=朱子学です。
鎌倉時代や室町時代には、武士に忠義などという観念は
ほとんどありませんでした。
せいぜいが所領安堵による、御恩と奉公という関係です。
しかし楠正成だけは違いました。
明らかに、忠義という観念をもって行動しています。
それも、『君、君たらずとも、臣、臣たれ』というような
絶対的な忠義を尽くします。
武士道の精神を忘れてしまった現代日本人には、彼の
心情は完全には理解できないと思います。
もちろん、私も完全には分かりません。
しかし、かつての武士道や、儒教の精神を学ぶことで、
少しは楠正成の気持ちが、理解できるようになるかと
思います。
重ねてのご回答有り難うございます。
別に楠木正成だけを意識したのではありません。
彼を宋学の徒とするのは理解できるとしても、その対象を南朝に選んだのが今ひとつスッキリしません。
南北両統は後醍醐帝以前に既にありましたから。
北畠親房が神皇正統記を力作して強調しなければならなかった時代です。
一族郎党を道連れにしてもという点で傑出しすぎているように思われます。
No.6
- 回答日時:
設問が逆のように思えます。
血縁関係・地縁関係の別なく、所領を求めて小競り合いしていた武士達が、なんで南北朝のどちらか(あるいは、別の第三勢力)の権威を利用しようとしたのか?
権威があるに越したことはないから。
鎌倉時代は、しょっちゅう、流血の戦いをやっていましたし、同時代の西欧史を見ても、戦争のない時が珍しいのが当時の一般的な状況です。
4月3日の大河ドラマで、脚本家おもしろい台詞を吐かせたなと思いました。
以仁王の令旨を受けて、北条の一統が、頼朝の前で、決起を促しながら、次の台詞が「これで、伊東のやつらに一泡・・・」などと、近視眼的に、近所の所領問題になっていました。
当時の在地領主にとっては(江戸時代の始まりまでは)意識としては、その程度であったのではないでしょうか?
当時所領の証明に文書による必要は普遍的であったので発行者の権威は認めざるを得なかった事は理解できます。
しかしその権威そのものが南北交代していた時代ですから困ったでしょうね。
ご回答有り難うございます。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
足利尊氏
彼自身は非常に無欲で気前のよい人物なので、それ程深く考えてなかったと思いますが、足利一族としては頼朝依頼の源氏の嫡流が絶えた今、足利氏こそが源氏の嫡流、番頭の北条に奪われた実権を取り返し、征夷大将軍として幕府を開きたい。
新田義貞
家系図では新田氏が源氏の嫡流。
世間では足利氏の傍流と思われてるのが癪。
この機会に源氏の嫡流として、足利と新田のどちらが正嫡か思い知らせたい。
楠正成
この人物に関しては何を考えていたかよく判りません。
勿論この機会にという欲はあったと思いますが、損得抜きで天皇側に付いてますから、案外後醍醐天皇と個人的な親しさがあり、友情から行動してたとも考えられます。
北畠顕家
本来は公家ですから、武士を蔑んでいる面はあったと考えます。
この機会に武士の実権を奪い、公家の利権を図るつもりでは。
赤松円心など、他の武士も荘園を得たいなど、それぞれの思惑で動いてると思います。
この時代、足利兄弟の動きを見るとなかなか面白いですよ。
代表的人物に対するご回答有り難うございました。
私も足利尊氏は当時珍しく経綸というもののあった人物と思っています。
幕府という概念に達したのは公家政治の現実に絶望した後年ではないかと思っているのですが・・・
新田義貞は確かにお説のとうりでしょう。 ただ何度も敗戦を重ねている内の執念が今ひとつスッキリしません。
吉川英治氏は楠正成のひたむきさに触発されたと分析していますが・・・
楠正成はもっとも理解しにくい人物です。
なぜ南朝側に参戦したかも常識的に理解しにくいですし、出身の事情からゲリラ戦術に多少の自信はあったでしょうが、不思議な存在です。 なにかトラウマのようなものをを感じるのは勘ぐり過ぎですか・・
後鳥羽帝と友情があったのでは・・とする事は出来ないと思います。 人柄的に全く正反対ですから。
北畠顕家は先天的なすり込みがあったのではと思われる純真さですが、彼が21歳で戦死する直前、後醍醐帝に諌奏した内容(一部しかのこっていませんが)を見ると立派なもので、もう少し長生きしたらと惜しまれる人材です。
確かに足利兄弟の不和は惜しまれますが、それがなければ日本は変わったかも・・・
No.4
- 回答日時:
この時期の武士達の思考についてを考えるには、武士団の構造変化を見ていく必要があろうかと思います。
まず、鎌倉期後半まで続いた分割相続が所領不足から不可能になってきました。しかし、その惣領・庶子の平等な分割相続が惣領制を支え、同族による武士団を形成していたわけです。それが、惣領単独相続になれば、各地の所領に派遣された庶子は、惣領から独立し、対等な関係となって対立して抗争を生み出す事になりました。
彼らは土地に根ざし、国人と呼ばれる事になりますが、所領支配を円滑に進めて利益を守る為、周辺の国人と協力関係を結び、一揆と言われる土地を媒介とした地縁関係を築き内乱の主役となります。
要するに、血縁的上下関係から地縁的横の関係へと構造変化が起こり、内乱の要因になったと言えます。
南北朝の内乱は、国人に対してもう一人の内乱の主役である守護が、守護職という職権をかざして、国人達と対立することになり、より複雑な内乱へと発展したと言えるでしょう。
そして彼ら多くの武士達は、自己の利益を一番に考えていたはずです。土地の安堵だけなら、守護や有力国人の被官として所領を維持すれば良いわけです。(弱小領主の多くは被官化しました。)利益とは、収入源である所領の支配権や商品流通経路の確保であったりしたわけです。その利益を守るために一揆を結び、軍備を増強して、独立自立性を確保することを思考していたと思われます。(上納金や奉仕によって有力な者の支配下で細々と生きていくか、自立し主として利益を上げるか、現在の会社組織に似ていますね。)対立者が南朝方なら北朝へ、北朝方なら南朝へと、各人の利害関係により離合集散していたと考えるべきではないでしょうか。
ご回答有り難うございます。
惣領制に対する反乱という相続権争いだけで説明するにはまだ十分な理解が出来ません。
確かに独立自尊の時代でしたが、過渡期の思想を理解するのはなにかスッキリしません。
南北朝時代の分析は皇統問題からタブーとされ、まだ解明不十分ですし、今日でも奥歯にものの挟まった感じです。
しかし命をかけて戦い続けた執念は何だったかという理解はしたのです。
悪人、一揆の離合集散はよくわかります。
土地所有の証明に文書が重要であつた事はわかるのですが、当時まだ朝廷の権威が有効だったのでしょうか?
No.3
- 回答日時:
結局、武士というのは土地がすべてなんですよ。
ところがその土地の相続について、固定化したルール
が、ずっと確立しませんでした。
早い話が、長男でなくても、権力者に認めてもらえば、
次男や三男、あるいは庶子であっても、親のもつ土地の
相続者になれるんです。
だから、土地の相続権が欲しい人は、戦が起きそうに
なったときに、勝って権力者になりそうな人のところ
に駆け込むわけです。
鎌倉時代末期から戦国時代まで、だらだらと戦争状態が
続いたのには、こういう理由も強かったのではないかと
思います。
最終的に土地相続問題に決着がついたのは、江戸時代
でした。江戸時代になってようやく、親の財産は原則
として長男が受け継ぐというルールが確定したのです。
ご回答有り難うございます。
確かに聡領制に対する反乱はあったでしょうが、血縁地縁による団結も強かったと思います。
敗戦と判っていてなお戦い続けたのが理解出来ないのです。
No.2
- 回答日時:
こんばんは。
書物からの受け売りですが、武士らは元寇での働きの褒美が出ないのを恨んで、皇室を担いで北条氏の執権政治の幕府を倒したのですが、公家の新政がお話にならない乱脈ぶりだったので、再び愛想を尽かし、南北朝の骨肉相食む戦争時代に突入したのだ、と言われます。ゆえに、この頃の武士は、大なるは自己の出世・栄華、小なるは自家の存亡を最も重要に考えて行動したと思われます。現在我々が典型のように思う赤穂浪士のような洗練された侍ダマシイは、この頃の武士とはほとんど無縁だったのです。詳しいことは下記の本をご参考に。
参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167135 …
ご回答有り難うございます。
元寇の報償という説は確かにありますが、これは関与した西国にいえる事で全国には当てはまらないと考えます。
確かに足利尊氏が九州勢を結集して反攻を図った時は影響しましたが・・・
建武の中興の実態は大衆とは遊離したもので、将来の経綸を欠くものでした。
しかし武士の大半がお説のようであったのは頷けますが、敗戦と判っていてなお戦い続けるエネルギーの源が理解し難いのです。
自派への忠誠などは信じられませんから。
赤穂浪士については異なる異見ですがここでは省略します。
No.1
- 回答日時:
当時の武士は「一所懸命」と言う言葉で表されるように、自分が支配する農地と農民を維持し拡大するために、文字通り命を懸けていました。
自然と隣接の武士や公家・寺社の荘園とは土地争いが生じてきます。さらに、まだ相続における長子相続などの慣習が決まっていない時代ですので、兄弟や叔父甥の間で相続争い=土地争いが頻繁に起こっていました。
南北朝時代に武士がそれこそ昨日は北朝、今日は南朝と、ころころと立場を変えたのは、自分の土地所有を正当と認めてくれる権威を選んでいたからです。
敵が南朝につけば、北朝の権威を利用し、南朝から声がかかれば敵を追放してくれれば協力すると答えるなど、主義主張で動くのではなく、自分の土地所有の正当性を後押ししてくれる側についていたわけです。
平安後期から室町にいたるまでの公家支配(土地の公有・公家所有(荘園制))→武士支配(土地の私有・開墾地主の自立)への流れは、こうした武士たちの土地所有に対する執念が導いた。「息の長い革命」だったとして捉えると、分かりやすいのではないでしょうか?
ご回答有り難うございます。
当時の寺社の権力はなお強く、これらに対する「息の長い革命」という説はよくわかります。
所領の確認には文書が必要で、まだ誰かの権威をからねば成らなかったのでしょう。
しかしその権威の所在があやふやでしたから。
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