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1920年代の中国は、なぜ対立するソ連を見本にして建国を進めたんですか?

A 回答 (7件)

民主主義とは、経済的に豊かで軍事力もあって文明度の高い国でしか成立しない、ぜいたくなシステムだから。



アテネだって真の民主制だったのは絶頂期付近の数百年だけ。
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1920年代の中国共産党は、当時唯一の共産革命を成功させたソ連の支援を受け、勉強させてもらっていた。


当時は、フランスなど西欧留学派も多かったが、ソ連留学派が数的には最も多かった。対立なんてしてませんよ。
毛沢東は中国独特の農村主義を打ち出して、ソ連の都市部の労働者型とは多少異なっていましたが、毛沢東時代もスターリン時代までは、ソ連に支援を何かと受けていた。

中国とソ連が対立し始めたのは、スターリンが死んで、1956年にフルシチョフが「スターリン批判」を行ったため。
これには世界中が驚いたが、スターリンと仲良くしていた毛沢東は大変な衝撃を受けた。毛沢東はスターリンの世話になっていたこともあるが、毛沢東自身もスターリン型の独裁者だったからだ。この影響で毛沢東自身も自分の地位が不安になり、すぐに百花斉放百家争鳴を始めている。
結果は共産党や毛沢東に対する批判が彼の想像以上に激しく、一転して批判者の大弾圧に転じた。

そして毛沢東はフルシチョフと不仲になり、対立を深めていくことになる。
最終的には孤立した毛沢東が、活路を求めて米国ニクソン政権と日本の田中角栄政権に接近し、台湾に代わって国連安保理常任理事国の座を確保することになる。
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中共が建国を進め始めたのは、1931年に毛沢東ら江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立して以降。

 いずれにしても1920年代に中共がソ連と対立していたという事実も、建国を進めていたという事実もありません。 中国共産党が成立したのは1921年7月で、結党当初はコミンテルンの指導が強く、またソビエト連邦への留学生が党の中心勢力でした。 よって、当時の党指導部はコミンテルンの指導に忠実に従っていました。 中共とソ連が対立するようになったのは、中華人民共和国が成立して数年たった、1950年代後半からです。
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中国共産党の事なら、発足時の名称は


中華ソビエト共和国 です。
名前の通り、ソ連の一部にしようとしていたから。
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1920年代は共産党主導の建国はしてません、孫文が中心となって、


満州族の清国から漢民族の中華民国が出来たばかりです。
清王朝を倒しても、袁世凱、張作霖など、強力な軍隊を持った、
軍閥が各地に割拠してました。
軍閥を倒さなければ、新しい国は、生まれません、孫文・蒋介石の
国民党と毛沢東が率いる共産党が、軍閥と戦っている最中です。
1925年に孫文が亡くなり、国民党と共産党の内戦が始まり、内戦に
勝利した、共産党が1949年に中華人民共和国を建立しました。

労働者の国を造ると言う、共産主義革命の理念からです、先に、
労働者の国を造った、ソ連の組織等の仕組みは取り入れたとは、
思いますが。
1917年に労働者の国、ソ連が誕生した時は、世界中にショックが
走りました、大地主、資産家、貴族階級の財産は国に没収されて
しまいますから、資産家たちは恐れ慄きました。

労働者の理想の国は、誕生しませんでした、王族に共産党が変わった
だけで、貧富の差は酷くなり、汚職天国で、ソ連は崩壊して、中華人民
共和国は共産党員の天下です。
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1920年代の中国なら「中華民国」のことだが、中華民国は1912年に成立している。

 時系列的にも、1912年に成立した中華民国が1922年に成立したソ連を見本にして建国を進めたことなんてあり得ないが、何か勘違いしていませんか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。この場合の中国とは、中国共産党の事です。

お礼日時:2022/08/14 17:15

全体主義に魅力を感じたから。


人民を管理できるから。
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