織田弾正忠家や松永弾正久秀・高坂弾正などの弾正のいわれなり意味を教えていただけませんか

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A 回答 (2件)

「新修角川日本史事典」より引用します。



だんじょうだい 弾正台
律令官司の一つ。二官八省より独立し、官人の綱紀粛正、非違の摘発にあたった。直接的には京内を担当し、全国の治安維持は訴訟を通じて行うにとどまった。9C.初め検非違使の設置により形骸化した。

数ある官職の中で、いかにも武ばった官職ではありませんか。

ちなみに松永久秀は弾正忠経由、二等官である弾正小弼にも昇任しています。公家の日記には「霜台」と弾正台の唐名で記載されています。
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この回答へのお礼

有難うございました、よく解り勉強になりました。

お礼日時:2005/04/04 08:12

律令制度の下では、弾正台(だんじょうだい、ただすつかさ)という組織がありました。


京都の風俗の粛清や犯罪取締り等を担当した機関で、警察みたいなものだったようです。

その役所の三等官である弾正忠という役職は、家柄の低い人が任じられることも多く、役目も警察ということで勇ましいので、武士が官位をもらうときや勝手に自称するときに、よく使われたのだと思います。
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この回答へのお礼

有難うございました勉強になりました。

お礼日時:2005/04/04 08:13

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Q弾正について

織田弾正忠家や松永弾正久秀・高坂弾正などの弾正のいわれなり意味を教えていただけませんか

Aベストアンサー

「新修角川日本史事典」より引用します。

だんじょうだい 弾正台
律令官司の一つ。二官八省より独立し、官人の綱紀粛正、非違の摘発にあたった。直接的には京内を担当し、全国の治安維持は訴訟を通じて行うにとどまった。9C.初め検非違使の設置により形骸化した。

数ある官職の中で、いかにも武ばった官職ではありませんか。

ちなみに松永久秀は弾正忠経由、二等官である弾正小弼にも昇任しています。公家の日記には「霜台」と弾正台の唐名で記載されています。

Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

Aベストアンサー

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む

Q根来コミッショナーの退職金

根来コミッショナーの退職金は
いくらぐらいになるのでしょうか。

Aベストアンサー

推定1億~1億5千万円との噂が・・・貰うのでしょうかね?。
ぜひとも返金するなりどこぞに寄付するなりして欲しいのですが・・・・。

Q戦国期・武田家の高坂昌信について

俗に”弾正”といえば、
高坂昌信「逃げ弾正」
保科正俊「槍弾正」
あたりは有名ですよね。調べてみると、真田幸隆「攻め弾正」なんてのもあるようです。

そしてこの言葉に従えば、なんだか高坂昌信だけは蔑まれていますよね…
いずれにせよ「逃げ上手」というのも、戦国期においては重要な戦略上の能力とも考えられ、もはや「逃げ弾正」というのは褒め言葉だったのでしょうか?
高坂昌信「”穴”弾正」なんかよりは「逃げ弾正」の方が救いがある気もしますが、いかんせん「逃げ弾正」って表現はどうなのかなと…

「逃げ弾正」と「攻め弾正」のセットで表現されているのならばアレですが、その中に「槍弾正」が入ってくると蔑まれ感が倍増します。

とにもかくにも「逃げ弾正」とはどのような意味を込めて、高坂昌信を表現した言葉になるのでしょうか?高坂昌信の活躍を考えると「逃げ弾正」という言葉が、どうにもふに落ちないので…

Aベストアンサー

退却が上手く 逃げながら敵を殲滅させたツワモノ
さらに槍や弓矢が当たらず逃げる様にかわしていたから「逃げ弾正」


ちなみに織田信長 松永久秀も弾正でした

Q雑賀衆・根来衆の住んでいた場所って?

こんにちは、初めまして。
質問はタイトル通りですが…。
雑賀・根来の里がどの辺りにあるのかが
イマイチはっきり分からないのです。
和歌山市の紀ノ川河口北岸とだけは
聞いたことがあるのですが…。
お詳しい方、お教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

~衆といのは基本的に地名です。

根来衆は、根来寺という有名な寺がありますよね。
現在の和歌山県那賀郡岩出町根来。
阪和自動車道和歌山ICから国道24号を東へ8km、
備前交差点を北へ県道泉佐野岩出線で2.5kmを右折し800mの所。
秀吉の根来攻めで当時の建物はほとんどを焼失しましたが、
国宝の多宝塔のほか大師堂、大伝法堂などの国の重要文化財に指定されている堂塔が残ります。
境内には、種子島から鉄砲を伝えた杉坊の住居跡といわれる愛染院があります。
彼の存在が鉄砲&宗教集団の根来衆の始まりで、
根来衆はこの地周辺に住んでいた一向門徒・僧侶のことです。


雑賀も、雑賀庄というのが昔あって
「雑賀」、「十ヶ郷」、「中郷」、「社家郷」、「南郷」などという
小さな5つの集落をまとめたものの総称です。
さらにその下位の惣村さらに惣郷・惣荘単位に結束した一揆集団。
雑賀城は、養珠寺(和歌浦中3丁目)の山頂にありました。

参考URL:http://eieio.jp/~saikashuu/04.htm

Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
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Q根来の子守唄の歌詞について

根来の子守唄の歌詞について質問です。

「さんさ坂本箒はいらんよ
    お不動詣りの裾で掃く 」
「さんさ坂本室谷の娘
    嫁にいたとは住蛇池 」

とありますが、この”さんさ”とは何を意味するのでしょうか?
# きっと「さんさ時雨」とは違いますよね?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

『さんさ坂本』とは、根来寺の門前町のことを言うそうです。

http://www2.w-shokokai.or.jp/iwade/history/history.html

参考URL:http://www2.w-shokokai.or.jp/iwade/history/history.html

Q織田家と津田家について(信長の家系)

織田信長の家系に苗字として津田を称する(一時期称した)武将が多くいます。
信長の兄・信広、弟・長利、子・勝長、甥・信澄、従兄弟・信成等々。
津田は織田の発祥縁の苗字(平家落人の伝承・母が近江津田家再婚し、子が織田剣神社の神官の養子となった)である事は存じています。

さて最近、書籍やネットの中でこの津田を苗字とする織田一族について
 「尾張国内で織田を名乗る城主の内、家格が上の嫡流家以外は津田に苗字を
  改めさせ、織田を名乗ることを禁じた」
と、紹介されたものも幾つかあります。
ですが、その出典についてはどこも触れておりません。

江戸時代の徳川-松平の様なものであるとも思えるのですが、徳川のそれのように
御三家・御三卿と言った明確な家系別にはなっていないようですし。   

実際に織田を称することを禁じた事を発布した文書は何でしょうか?
若しくは、それについて何らかの事が書かれた文献や日記などはあるのでしょうか?
ご存じの方、お見えに成られましたらよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

文書などの文献で禁止令を見たことがありません。たぶん無いのではないでしょうか。「織田嫡流以外は禁じた」というのは、状況証拠ではないかと思います。

織田信長在命時、織田姓だけだったのは信忠・信包・長益くらいでしょうか。決して嫡流だけではありませんね。

「織田信雄分限帳」を拾ってみましたが、織田姓は恐らく長益の「源五殿」だけでした(一万三千貫文)。津田姓は十二名(掃部・勝右衛門・三四郎・勝三郎・勘平・七右衛門・左近・上・孫十郎・小平次・清次・利助)。判読できる範囲で津田姓の最大は二千貫文。ご存じの通り源五長益は後に大名として独り立ちします。

信長在命時と信雄分限帳とに共通するのは、大名(万石?)級で他家に養子に出されていない者と嫡流です。江戸時代はどうなのか、さっぱりわかりませんが、これらから状況証拠的に「織田を名乗ることを禁じた」と言われるようになったのでしょうか。

Q戦国の大悪人松永弾正久秀

私は戦国時代の大悪人は松永弾正だと思うのですが皆さんの思う戦国の大悪人は誰ですか?理由付けでお答えお願いします。ちなみに私の理由ですがあの織田信長をして悪人と言わしめたからです。また戦国は裏切り、下剋上の時代だからみんな悪人、みたいな安易な理由はなしにさせてください。

Aベストアンサー

松永久秀をそう評した本人は もっとすごい事をしていますし
北条早雲・斎藤道三・松永久秀・織田信長あたりはどっこいどっこいですよ。

Q松永久秀 宇喜多直家

戦国の悪人というと、松永久秀、宇喜多直家が浮かびます。
この時代に謀略、裏切り、下克上は当たり前だったはず。
何故彼らは悪人と言われるのですか?
彼らは存命中に、もうすでに周囲から悪人と言われていたのでしょうか。
それとも、後世に悪人と言われるようになったのでしょうか。
この二人が臣下の裏切りに遭ったという記述は、いままで見たことないです。
特に直家は有能な家臣に、小さい頃からよく支えられて盛り立てられています。
また彼に殺された金光宗高の子等も、後に宇喜多軍で、手柄を
立てています。
二人とも実際には非常に魅力のある人物だったのではないかという気もするんですが。

Aベストアンサー

悪党とは現代で言う意味合いとは少し違った意味を持ち、強い人たちとのイメージがあったようです。

松永久秀については他の方の回答と同じくしていますので割愛。

宇喜多直家にはいろいろ逸話があります。
直家が病死する寸前、家臣(それも重臣)の一人に「殉死してくれるのか?」と訪ねたところ、その家臣は「普段から殿が可愛がっている法華の坊主どもにお頼みあれ」といったとか。直家が普段から僧侶ばかりを可愛がり、重臣たちに褒美が少なかったので家臣が嫌味を込めて言ったと言うものです。

また、直家自身が縁組した中山某(舅)を責め滅ぼしたり、娘(養子も含む)を嫁がせた家を安心させてから謀略(暗殺)を計った。
そのため、直家の弟、忠家は兄の前に出る時には鎖帷子を肌身に着けて出たと言われるほど用心していたという逸話は有名。

反面、宇喜多能家(直家の祖父)の仇を討つため幼少の頃から用心深く過ごし(敵に討たれないため)、ついには本懐を遂げるなどしている。

その幼少期も宇喜多家再興のため家臣が良く尽くしている。一子秀家も秀吉の養子の中ではとても出来の良いほうだったのを見ても、直家自身、名門を誇っていたと見て良いだろう。

ただ悪いだけでは備前、備中、美作の三国を治める事は叶わなかっただろう。

悪党とは現代で言う意味合いとは少し違った意味を持ち、強い人たちとのイメージがあったようです。

松永久秀については他の方の回答と同じくしていますので割愛。

宇喜多直家にはいろいろ逸話があります。
直家が病死する寸前、家臣(それも重臣)の一人に「殉死してくれるのか?」と訪ねたところ、その家臣は「普段から殿が可愛がっている法華の坊主どもにお頼みあれ」といったとか。直家が普段から僧侶ばかりを可愛がり、重臣たちに褒美が少なかったので家臣が嫌味を込めて言ったと言うものです。

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