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遣唐使に関するルート変更に関して、白村江の戦い以後、新羅との関係が悪化し南ルートに変更したとの記述が数多く見られますが、それはどうも違うようです。
白村江の戦い以後も新羅との国交関係は続いていたようで、ウィキペディアによると668年から836年まで28回になっており、これは同時代の遣唐使の回数の倍以上の数になります。

当時の日本にとって遣新羅使は、遣唐使とは全く違う位置づけのようですので、遣新羅使の目的と果たした役割について教えてください。

質問者からの補足コメント

  • 回答ありがとうございます。質問を締め切ります。
    最近、日本史Bの高校教科書を見る機会があり、サラッと以下の内容が記入されていました。
    ・遣唐使派遣は20年に一回
    ・新羅とも交流があったが、日本が新羅を属国扱いしていた。

      補足日時:2022/08/28 12:51

A 回答 (1件)

白村江の戦い以後は、ご存知と思いますが、唐と新羅の戦いが始まりました。



そうなると、唐と新羅は、互いに援軍を求めて頻繁に日本にやってくる。日本も返礼を兼ねて両国の状況を探りに使節を送る。そういう状況でしょう。

天智天皇は、両国を天秤にかけていましたが、どちらかと云えば、唐側との交渉が優先だったでしょう。白村江の敗戦で日本に逃げ切れなかった多くの敗残兵が唐に抑留されていましたからね。

そうこうしている内に、天智が死んで壬申の乱となり、天武が即位します。
東国に地盤を持っていた天武は、東北の蝦夷の動きを気にしていたようで、新羅と蝦夷の交易にくさびを打つために、新羅との修好を真っ先に行っています。

そして持統天皇の代になると、唐も後ろに隠れていた実力者の則天武后が即位し、女帝同士の話し合いが始まり、日本は再び新羅よりも唐中心の交流が本格化します。
白村江の敗残兵が日本に帰国できたのもこのころです。

日本は再び大陸に派兵することはありませんでしたが、白村江の戦後処理と新しい国際関係の枠組みの中で、三国とも交渉や情報収集のために外交に力を入れたのは当然のことかと思います。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

「歴史を読みなおす 遣唐使船(朝日百科日本の歴史別冊 通巻四号1994年1月20日発行)」を見てわかったのですが、白村江の戦い以後の唐と日本の関係は、日本の朝貢国としての地位が確定し、20年間隔での朝貢を約束させられたのは間違いないようで、実際の遣唐使派遣の間隔を単純平均すると16年ぐらいになるようです。
それに対して、新羅との関係は互いに相手を見下していたとしても対等だったのではないかと思った次第です。

これは、日米韓の同盟関係と、なんとなく似ていると思いました。

お礼日時:2022/08/22 09:29

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