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河井継之助は、なぜ戊辰戦争の時に長岡藩を挙げて官軍に対し武装中立論を掲げたのですか?なぜ受け入れられなかったからといって無謀な抗戦の道を選択したのですか?もっと上手な負け方を選択すれば良かったと思うのですが。

A 回答 (2件)

幕府は腐っていたが、薩長は横暴すぎる。


当時の河井継之助が武装中立論を掲げて、薩長と会津の仲介をしようとしたのは、両者が戦うのではなく、挙国一致して欧米列強に対抗しなければならないという勝海舟や坂本龍馬に近い考えの持ち主だったからだろう。

戦時においては、武力が根本で力がなければ相手は言うことを聞かない。
勝・西郷の会談で、西郷が妥協したのも、勝が西郷に幕府側のいよいよとなれば江戸を火の海にして迎え撃つ覚悟と、幕府海軍だけでなく、外国も含む海軍力で薩長軍の背後を突く準備を整えていたからだろう。

しかし、長岡に攻めよせてきた官軍司令官は、河井のことも河井が準備していたガトリング砲をはじめとする強力装備を知らない小物だった。恭順か死かを迫ることしか知らない人物だった。

そして、河井の欠点は、横暴なくらい押しが強すぎて自説を絶対に曲げないなど、柔軟性がないことだろう。

剛と剛が出会えば、どちらかが折れてしまうまで戦うしかない。長岡戦争とはそういう戦いだったのだろう。
両軍とも兵力はそれほど多いわけではなかったが、結果として勝敗が次々と何度も入れ替わるという戊辰戦争最大級の大激戦が勃発してしまった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/08/28 12:46

薩摩と長州は日本人で無いので、日本の伝統文化を破壊して各地で虐殺暴行を繰り返していました。


そんなチンピラ犯罪者集団に身を委ねて辱めを受けられますかね?
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