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江戸時代の天皇には、今でいう国事行為的な儀礼的な政治権能すらなかったのですか?

A 回答 (10件)

「幕府は権力、天皇は権威」というのは半ば俗説で、江戸時代(特に前半)は権威すら低下していた。


たとえば紫衣事件(しえじけん)である。古くから朝廷は、諸宗の高徳の僧に紫色の法衣を許可していた。すなわち、天皇が高僧を権威づけてリベートを得ていた。
しかし1613年、幕府はこれを禁ずる。2年後の禁中並公家諸法度でもこれを禁じた。後水尾天皇は幕府に逆らって、紫衣着用の勅許を出す(1626年)。幕府はここぞとばかり勅許状(天皇のお墨付き)の無効を宣言し、高僧らを流罪にする(1629年)。

つまり、幕府は天皇の権威すら条件付きでしか認めなかった。将軍の代替わりも幕府が決めて朝廷に伝え、天皇はその通りに征夷大将軍に任命した。前述のように、仏教勢力を天皇が権威付けすることは許さなかった。
将軍宣下も、京都に参内して任命を受けるのではなく、逆に勅使(天皇の使い)が江戸城へ来た。将軍が上座、勅使が下座で宣旨が渡された。宣旨の箱にリベートの砂金を入れて返すのがならわしだった。

当時、禁裏御料(皇室の所領)は1万石、のちに加増されても3万石だった。これは大名と比較すると小大名程度である。お金に困って大嘗祭(天皇の代替わりの最重要の儀式)を挙行できない天皇さえ出現し、天皇の権威に響いた。
それでも、江戸中期から国学が盛んになって古代・中世の王朝文化を研究した。幕末には外国の軍艦がやって来て日本を脅かした。幕府の権威はゆらぎ、ついに朝廷との上下関係も変化していく。
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勘違いしている人がいるが、官職の叙任権を「天皇」が持っていた訳ではない。


幕府が取りまとめて送った「誰それを越前守に、誰それを左衛門尉に推挙する」という文書が届くと機械的に「朝廷」で任命する旨の文書を作成して幕府に返送するだけで、天皇は1ミリも関与しない。
平安時代の除目も公家の話し合いで決まるもので、天皇は関与しない。
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そんなことはありません。



そもそも将軍に任命する権限は
天皇にありました。

現代でも、内閣総理大臣や最高裁長官は
天皇に任命権がありますが、それは
この名残です。


それに位を与える、という権限がありました。

お前は、正一位に任ずる、てな具合ですね。

これが武家の間では、かなり発言権を持って
いました。

俺は、正一位を持っているんだぞ。
偉いだろう、ということです。

それに、外国からの文書などには、天皇が
日本の王として書かれていた場合も
ありました。
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天皇が行う祭事はもちろんそのままですが、そのほか官職の、例えば「征夷大将軍」や「越前守」などの任命権は天皇の権限です。



そのほか、名目的にしても幕府は国内の行政権を与えられた組織です。外交権は朝廷がそのまま保持していました。

幕末近くの光格天皇が、外国船問題について幕府に意見したり、幕末の孝明天皇が幕府に攘夷を命じた法的根拠はそこにあります。
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>儀礼的な政治権能



「権能」はありましたし、権威も保持していました。でもそれを権力執行につなげるまでのお金がなかったし、天皇自身、そこまで自分達の権力を優越させようとは思っていなかったのです。

もし本気で天皇が「日本国の為政者になる」という意識を持てば、そのような方向性に動くことは問題なくできます。それは現代でも同じ。

たとえば徳川に将軍職を勅許するのを止めて「自分で親政政府をやろう」と思えば、将軍の代替わりの時に勅許を出さなければいいわけで、これは今の日本でも「内閣に任命しないで、自分で親政政府を作るよ」と言えば、政治権能としては間違いなくできます。

ただ、その場合、当然ながら権力闘争になります。
徳川幕府がもっている軍事力に対抗できるだけの軍事力や、徳川幕府が抑えている物流などの経済力などを、天皇とその取り巻きで取り戻して維持できるのか?と言ったらかなり大変であるわけです。

鎌倉時代に失敗したとは言え、建武の新政が可能だったのは、西国は鎌倉幕府を良く思っていなかったからで《鎌倉幕府に対抗できるだけの軍事力》があったからです。

明治維新が起きたのは、慶喜が「国賊になりたくない」と思い大政奉還下からですが、岩倉具視など幕末の公家は、幕府に対抗できる勢力を求めてずっと暗躍してきたわけで「権能」はあっても、それを維持できるだけの様々な能力がないと、権力として維持できないわけです。

現代でもそれは同じで、天皇が内閣総理大臣を任命しなかったとしても、そのまま親政がスタートできるわけではありません。少なくとも国会の過半数に下工作しておいて「内閣は不要、天皇親政に賛成」とやらないと、機能しないわけです。

そういうことをさせないようにしたのが、鎌倉幕府の六波羅探題や徳川幕府の二条城などで、権能や権威はあっても、それが権力行使に結びつかないよに幕府が見張っていたのです。
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幕府全盛期には完全なお飾りです。

幕府の要請を断る事は出来ません。
ただ、国学が盛んになると、幕府にねだって神武天皇陵を新しく造営してもらったり、火災で焼失した御所を住みにくい復古調にしてもらったりというような事を始め、数百年途絶えていた宮中行事を再現したりとかしはじめました。
井伊直弼の暗殺で幕府の権威が地に落ちると、逆に朝廷の権威が上がり、外国との条約締結には勅許が必要というヘンチクリンな少数派理論が主流となりました。
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黒船以後、外国との条約を結ぶのに、朝廷=天皇の許可が必要でした。


許可が出てないのにアメリカに催促されて、幕府独断で条約を結んだのが、井伊大老。すったもんだがありました。
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徳川幕府は「禁中並びに公家諸法度」を制定、京には御所に睨みを利かせる二条城を築城して徹底的押さえ込んでましたからね。

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征夷大将軍を形式的に任命したと思いますよ。

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いいえ。


将軍に委ねてたとはいえ、あくまでもトップは天皇ですから。
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