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周到に計画した後鳥羽上皇の討幕は失敗したのに、なぜ杜撰な後醍醐天皇の討幕は成功したのですか?両者の違いは何ですか?

A 回答 (4件)

幕府に対する不満がたかまっていたことでしょうね。



後鳥羽上皇は、実朝の暗殺で幕府が混乱しているとみて挙兵をしたのでしょう。ところが実際には将軍の実権はなく、北条氏が板東武者を掌握していました(というより対抗する有力御家人を潰していました)。ですのであっけなく勝敗が決しています。

後醍醐天皇が挙兵していた期は、御家人の中で幕府に対する不満が高まっていましたからね。元寇で蒙古軍を撃退したとはいえ、その後恩賞もなく、元寇に再度の襲来にそなえての負担など御家人の窮乏が高まっていました。後醍醐天皇でなくても誰かが決起すれば一挙になびく可能性が高かったでしょう。とりわけ有力御家人の足利尊氏が倒幕に動いたことが決定的になりましたね。

もっとも、その後の政治があまりにも杜撰で時代錯誤的でしたので、あっという間に建武政府は崩壊してしまいますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/09/16 15:24

承久の乱は、後鳥羽上皇は武家の力を舐めていた。


領国の年貢を管理して、京都に年貢を送る、配達人より、領国はあなたが
管理・支配して下さいの方が断然、良いですよね、一度、旨味を知ったら
基には戻れないのです。

後醍醐天皇の時は、執権制度に対する不満からの、鎌倉幕府の内乱です。
八幡太郎源義家の血筋としては、頼朝と新田・足利は同じ血筋なのです、
伊豆の片田舎の豪族出身の北条に幕府の実権を握られている事に、
ず~と我慢してたのです。
頼朝挙兵の折は、浅間山の噴火後の領地回復の最中であり、平清盛から
復興の手助けを受けていた事も有、挙兵に参加しなかったのです。
関東の源氏の雄、新田家に恩を売って、抑え込む、平清盛さんは、
凄い御方なのです。

足利尊氏から政権を返された、後醍醐天皇は平安の御世の公家の時代
に戻す、政策を行いましたので、武家が反発するのは、当然の事で、
尊氏は室町幕府を建立しました。
かくして、明治維新の時に、天皇への大謀反人と足利尊氏はなりました。
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後鳥羽と後醍醐の違いは、主として、時代が違うということで、個人的な資質の問題でも、両者の育ちや取り巻きの違いも、倒幕の成功失敗とはあまり関係ないのではないでしょうか。




ネットには次のように書かれています。
足利尊氏  (又太郎(幼名)→高氏→尊氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9 …
① 高氏は京都への上洛途中、三河国八つ橋まで来たところで、幕府に謀反を起こすことを吉良貞義を含めた腹心に打ち明け、同意を得た。三河国で謀反の志を打ち明けた理由は、三河国が足利氏一族や被官が濃密に分布していたからであると考えられる。その後海老名六郎季行を密かに船上山へ参候させ、後醍醐により討幕の密勅を受け取った。
 ⇒ 倒幕を決意した尊氏(高氏)が、後醍醐を利用しようとして、成功した。

② 高氏が倒幕を決意した原因は、『太平記』や『梅松論』に見えるように、亡父の法要を満足にできぬまま出兵させられたことが1番に挙げられる。また足利氏は、建長2年(1250年)の閑院代理造営や、建治元年(1275年)の六条八幡宮造営などで、多額の費用を負担させられており、北条氏による足利氏への経済的要求は他の御家人と比較して突出していた。加えて『吾妻鏡』には、足利義氏と結城朝光が書状の書式をめぐって争った際、義氏が足利氏を源氏一門として別格であると主張したのに対し、朝光は御家人としての立場は変わらないと主張し、その論争に仲裁に入った幕府は朝光の主張を正当なものとした、という記述がある。
 ⇒ 北条氏による(鎌倉幕府支配)を許容・受容することは、足利家の衰亡にしかならないので、北条氏も結城氏も一挙に倒すことが、足利家の当主としての選択と、尊氏は追い込まれていた。 

足利家を追い込んで、窮鼠猫を噛む事態にしてしまったという北条側の手違いがなければ、鎌倉幕府体制が続いたということも考えられるでしょう。
歴史は仮定で予想しても意味はないですから、[運命だった]というしかないでしょう。

後醍醐は、文人的資質は高かったようですが、当時の時代、後代の名家・高位継承とそれに見合う行動・思考の様式を重視する人からみれば、[どうしようもない出来損ない]だったようですね。
後醍醐 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D …
先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している。

《個人的資質や周囲の人物評価とは、関係なく歴史は動く》ということでしょう。
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武力の背景もなく、安易に多くの坂東武者が上皇の命令に従うと考えていたのは同じこと。

どっちも杜撰だ。

後鳥羽上皇に関して云えば、北条義時の要望に応じて、皇族から将軍を派遣しておけば、それからもそれなりに幕府に強い影響力を保持できただろう。
しかし、それを朝廷寄りの実朝が殺されたことに猛反発し、皇族将軍派遣を断固拒否した。

そこまではまだ良いとしても、摂関家将軍ならいいかと認めたのは明らかに大失敗。それで鎌倉幕府は安定してしまった。坂東武者たちにとっては、それなりのお飾りの貴種が将軍に座ればそれで十分だったのだ。
将軍を送らないのなら徹底して送らなかったほうが、幕府は不安定な状態が続いたはずだ。

最後の大失敗の決め手は、幕府が安定し始めたところで、何を血迷ったのか、挙兵したうえで義時追討の院宣を発したことだ。
坂東武者たちは混乱したとはいえ、尼御台の政子の有名な大演説で、坂東武者たちは結束し、上皇の傍にいる奸臣を除くという名目で大軍を京に向け、上皇側はあっけなく敗北。幕府に屈することになってしまった。

後醍醐天皇は、ある種の狂信的な人物だった。確かに杜撰だが、彼は後鳥羽上皇のようにたった一度の敗北で簡単に屈するようなヤワな人間ではなかった。負けても負けても幕府に屈することはなかった。
その信念と行動力がカリスマ性を生み、最終的には幕府に不満を持っていた武家たちを糾合することに成功し、大逆転勝利となった。

両者の成功と失敗の違いは、信念を貫き通す意志の強さの有無にあったということだろう。

そういえば誰かが言ってましたね。
「失敗とは、成功を諦めたときのことである」
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