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こんにちは。お世話になります。

デカルトは方法的懐疑により「全ては夢である可能性」を疑ったとのことですが、デカルトは「全ては夢である可能性」を、どのような手法により乗り越えたのでしょうか。

「明晰かつ判明なものは確実に存在する」
「誠実な神が私を騙す訳がない」
「コギト・エルゴ・スム」
等までは理解できるのですが、これらの論拠から「夢説」を乗り越えるに至る過程が理解できません。

宜しくお願い致します。

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A 回答 (10件)

#6、#13です。


夢についてもうひとつだけ。

デカルトのコギトには、やはり独我論に通じていく問題があります。
というのも、あらゆる存在の根底に「考えるわたし」を想定してしまったからです。
「自己」だけが確かなもの、という独我論は、どうしてもでてきます。

この独我論をつきつめて考えた人にウィトゲンシュタインがいます。
この人の独我論に対する考え方は、前期と後期では多少ちがうのですが、ここでは後期のウィトゲンシュタインの考えを、簡単に紹介することで、「世界が夢かどうか」は、実はそれほど大きなもんだいではないのだ、ということを書いてみたいと思います。

この世界も他者もすべてが「わたし」の意識の像にすぎない、というのが独我論です。
「わたし」が死んでしまうとする。世界はどうなるのか。
少なくとも「わたし」にとって、世界はもはや意味をもたない。
世界は「わたし」が存在する限りにおいて、存在する。

ところがこの独我論には、決定的な矛盾があります。
「この世界にはわたししかいない」とことばに出して言う。
それは、あくまで、聞き手の存在を前提としている、ということです。
「この世界に確実に存在するのは自分だけだ」と語ることは、他者に「わたし」の意志を伝達する行為なんです。つまり、独我論は、「語る」ことによって、誤ったものになるのです。
こうやって、ウィトゲンシュタインは、独我論を乗り越えていく筋道を示します(ここから先は、以前紹介した中山さんの本を読んでみてください)。

わたしが見ている世界と、あなたが見ている世界がちがっていても、実はたいした問題ではないのです。

今日わたしは帰りがけにオレンジを買ってきました。
わたしは、オレンジはオレンジ色だと思っています。
あなたも、オレンジ色だと思っていますね。
けれども、もしかしたら、わたしは緑色を「オレンジ色」と言っているのかもしれないんです。
わたしの目には、オレンジが緑色に映っているのかもしれません。けれどもわたしは、わたしの目に映るその色を「オレンジ」と呼んでいますから、だれにもわからないのです。

それでも問題は起きません。
それはわたしたちが言語という共通の基盤を通じて意志を伝達できるからです。

ここからはわたしの結論です。異論があるかもしれませんが(笑)。

この世界は、もしかしたらだれかの夢の世界なのかもしれません。
そのだれかが目を覚ますと、終わってしまう夢の世界なのかも。
けれども、たとえそれが夢だとしても、この世界のなかで生きる「わたし」とわたしではない「他者」が、言語を用いて意志を伝達できているわけですから、夢であるかどうかはたいした問題ではない、と思います。
たとえそのだれかが目が覚めて、終わったとしても、そのときに困る「わたし」はもはや存在していません。

そう考えてみると、世界が夢であろうがなかろうが、わたしにはたいしたもんだいではないように思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ウィトゲンシュタインは、そのような方法で乗り越えようとしたのですね。

この世界が何であれ、この世界で生きていることには変わりませんよね。

お礼日時:2005/04/14 14:25

どういうふうに回答したらいいか、ずいぶん悩んだんですが。



まず、「わたしのいる世界」と、「わたしの夢の世界」を考えてみましょう。
絵がかければ一番良いんだけど、書けないから想像してください。

「世界のなかにいるわたしが、夢を見る」
この場合は「世界」という一番大きな枠がある。
つぎに「わたし」がそのなかに入れ子のようにすっぽりと入る。
さらに、「わたしの夢の世界」は「わたし」の入れ子のなかに入ります。
そういう構造になっている。

そのとき、「わたしの夢の世界」は、「わたし」のなかに組み込まれていますから、「わたし」から離れて、単独には存在しません。
「わたし」が、目が醒めれば、その「わたしの夢の世界」は消滅します。

ところが、問題なのは、一番外側の「世界」です。
これがだれかの夢だと仮定する。
入れ子の「わたし」も「わたしの夢」も含めて、世界全体がだれかの夢、と仮定するんです。
それは「わたし」と同じような誰かなのだろうか。
それとも、まったくほかの、たとえばエイリアンの夢なのかもしれない。
もし、そのエイリアンが夢からさめてしまえば、「わたし」はもちろん、この世界そのもの、こうしたもんだいそのものが消滅してしまうんです。
そして、それが誰かの(もちろんその誰か、はわたしかもしれませんが)夢でない、ということは、どうやったって説明できない。
だって、「わたし」の知らないことがこの「世界」でおきる、つまりその「できごと」は「わたし」から独立してはいますが、「世界」のなかに含まれています。それをすっぽり入れ子のように包む何者かがいない、ということは証明できないんです。

ここまでいくと、SFみたいになってしまうんだけど。
どうかしら。納得がいきましたか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お世話になっております。

まず、前回の質問「(前略)主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、『私の居る世界は夢ではない』ことの証明にはならないのでしょうか?」についてですが、その後、「この理論では『私の居る世界は夢ではない』ことを証明できない」ことを理解できました。

次に、今回のご回答についてですが、色々と考えて見たのですが、現時点の私には「他者の夢説」も否定することはできませんでした。

お礼日時:2005/04/12 01:43

おはようございます。


お礼拝見しました、なるほど、感心いたしました。

夢を見ているときに目を閉じていると認識できない

確かにその通りで、他人に登場してもらうしかありませんが、その他人も夢の中の登場人物かもしれないわけですね。

#1さんの仰るように夢と現実があって、他人が夢を見ている状態と自分が夢を見ている状態が同様なことや、何度も夢を見たり、夢から覚める経験から「了解」は出来ても証明できないのかもしれませんね。

う~んまたまた白旗ですかね(苦笑。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ご回答ありがとうございます。

fishbowl66さんですら白旗なのですから、私に解けないのは当然ですよね。少し安心しました。(でも、解けなくて悔しいです)

お礼日時:2005/04/11 13:08

またまたお邪魔します。


決してストーカーでは有りません。
単に、回答数を増やす為に、無駄な回答を書き込んでいます。

デカルトが乗り越えたのかどうかは解かりませんが。

すべてが夢である可能性は乗り越えねばなりません。

夢と現実の違いを比較すれば出来るのではないでしょうか。

私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。
ほとんどの人が、夢見る時には目を閉じています。
夢は脳の中だけで、脳の視覚野の一部が「視覚の器官」からの刺激を受けずに反応しています。

ひとたび、眼をあければ、外から外的刺激が「視覚の器官」に殺到してきます。
ある種の光の波長を反射する何かがあるのです。

存在があやふやなのではなく、私たちの表象があやふやなのではないでしょうか。

他のご回答者様と意見が異なりますが、
私が思い違いをしているかもしれませんので、回答してみましたが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

一部、私の能力では理解しきれない部分があるので、もしよろしければ教えて頂けないでしょうか。


>私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。(後略)

夢を見ている(寝ている)ときに、「現実(と思われる)世界では目を閉じている(眼を使用していない)」と言う認識はないように思います。つまり「夢を見ているときに目を閉じている」ことを本人が認識するには、「その夢から覚める」と言う条件が必要になるかと存じます。これを前提に思考を進めたのですが、私の頭では、ご回答の理論から「私の居る世界が夢である可能性」を乗り越えることはできませんでした。

この辺りについて教えて頂けたら助かります。宜しくお願い致します。

お礼日時:2005/04/10 19:34

頭の悪い私なので、本屋で哲学の本を手にとっても「一体何語?」ととても買う気にもなれず、我が家にある唯一の哲学関連の本は『ソフィーの世界』なのですが、確かそれ書いてあったなぁ。

。と本を開いたら一発でその箇所開けました!(きゃー あたしってすごい と自画自賛)

他の方が既に同様の事を書いていますが、私なりの受け取り方を書かせていただきます。


えっと。
懐疑主義者たちは、2+3=5ということも疑いました。
本当は6かもしれない、でも神が私たちに5と思わせているのかもしれない。
  ↓
でも神が悪さするはずがない
  ↓
じゃあ 悪い霊が我々を真実から遠ざけているとすれば、我々はニセモノを本物と思い込んでしまっているのかも。
  ↓
全ては夢かも。何も信じられない
  ↓
思考停止に陥った。



デカルトも懐疑主義者でしたが、従来の懐疑主義者とはチトちがった。

確かに全て疑わしいが、一つだけ信じていいことがある。
我思う 故に我あり。
ソフィーは「だからなに? 別段珍しくもなんともない結論よ」と思った。
ソフィーはそんなこと当たり前だと思っています。 
『じゃあ「私は散歩する だから私は存在する」とも「私は食べる だから私は存在する」とも言えるじゃないか。
それだって夢かもしれないじゃあないか。』
 ↓
ブブー!
 ↓
そういう言い換えは夢ではない証明にはならない。
もしそういう言い方で表現するとすれば「私は散歩していると考える。だから私は存在する」としなければならない。
散歩しているのも食事をしているのも肉体。
散歩していると思っているのは心としての私。
ここから思考を展開していったみたいです。
これだとまだ「そういう夢を見ることだって可能だから それも夢じゃないの?」って反論されますよね。
我思う ゆえに我あり 危うし!


で、そのあとデカルトは神の存在を証明できれば、全ては夢というものを否定できるんじゃないかって考えたわけです。
えっと・・・
<考える私>以外の存在 つまり善の神の存在が証明できれば、一つじゃなく(夢じゃなく)とすることができる と。
つまり2+3=6ではなく5であるという感覚は夢ではないとすることができる と。
観念と現実が一致しているとなれば、私が私を思うときこの私は幻ではないとなるわけで。

で、デカルトは『神の存在』『私(心)の存在』『その延長の存在』は確実だとしました。
今回は夢か現実かって事なので、えっと・・・。
自分の外に存在する『現実』と思考の中に存在する『現実』は全く違う性質を持つとしました。

一つは思惟するもの→精神。
もう一つは延長(ひろがり)→物体。

例えば人間は悲しんだり喜んだりします。心がありそれは変化します。
石はどうでしょう。
だから心は実体だとしました。

デカルトは人間以外を物体だとしました。
他の動物は延長(ひろがり)だとしました。
だって動物は 我思うゆえに我あり なんて思わないから って。

ソフィーはちょっとまったー! と思いました。
日本の法律も動物は物品だとしていますよね。
したがって他人のペットを殺したら、器物破損罪になりこそすれ、殺人とかそういう重い罪にはならない。

デカルトはこうやって 我思うゆえに我あり に確信を持つ代償として、他の動物は物品であるとしてしまいました。

だと思います・・・


なんかアダムみたい。
イヴはアダムのあばら骨から作られた物体で心などないから粗末に扱っても神は気にも留めないだろう って思ったかどうか。
ユダヤでは女は人間として数のうちに入ってなかったという事実。
がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。
従ってわたしはアダムの延長(物体)なんかじゃないぞーー!と思っています。
証明しろって言われたら、ガンガン喋ってアダムの予想外の反論をまくしたてて、ねじ伏せちゃう。
あたしゃ アダムの世界のうち(夢)になどいないわい!です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「ソフィーの世界」一冊で、これだけの知識を得てしまうkigurumiさんって天才ですね。


>がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。

本当ですよねw 相手が自分のことをそう考えていたら冗談じゃありませんよね。

お礼日時:2005/04/09 23:48

>「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか



まず「主観-客観」ということばを哲学の文脈で使うときは、気をつけた方がいい。
実は、カントのところで意味が大きく転換してるからなんです。
ギリシャ時代の考え方があって、デカルトがそれを引き継ぎつつ、転換を持ち込み(デカルト自身は前の用法で使っていながら)、カントがコペルニクス的転換をやってのける。
以降、哲学で「主観-客観」というときは、カントを踏まえたものになります。

まず主観、もともとギリシャ語ではhypokeimenon、この概念がラテン語に受け継がれてsubjectumとなります。「変化の底において同一であるもの」という意味でした。
桜は四月に花が咲き、五月に青葉になり、秋が来ると紅葉し、落葉する。けれども、「桜そのもの」は変わらずに存在し続ける。それがsubjectumです。このsubjectumは、さまざまな意味を持っているのだけれど、少なくとも今日で言う「主観」の意味は持っていなかった。

じゃあ、「主観」に当たる語は? objectumです。
subjectumが、わたしたちの心に現れるありよう、花が咲き、青葉となり、紅葉し……と「外界に実在するものの観念」がobjectumだった。そうなんです。今日の「客観」はここから来ている。

へ?
主観、というのは、変化しない「(いまでいう)客観的なもの」?
客観、というのは、表象で「(いまでいう)主観的なもの」?
頭、こんがらがっちゃいそうだね。
だけど、デカルトもまだその使い方をしています。

デカルトは「変化の根底において存在し続けるもの」を実体と呼びます。subjectumだね。
ただし!
デカルトの三実体。「神・物体・精神」。
意識する主体も、実体なんです。
「考えているわたし」という、もっとも「主観的なもの」がsubjectumとなった。
歴史が動き出しました。

ここでカントが登場します。
カントはこんなふうに考えるんです。わたしたちは桜を、表象(心に映るイメージ)としてのみ、とらえることができる。花も咲いていなければ、葉もついていない、落ちてもいない、「桜そのもの」を知覚することはできない。
わたしたちにできるのは、認識の形式(時間と空間)を通して、わたしたちに与えられている「桜の表象」を認識する、ということだけだ。

この、人間が認識しうる、花が咲き、青葉に変わり、落葉し、という「現象としての桜」は、主観によって支えられている。
(うつりかわっていく)現象の根底にあって、現象を支えているsubjectumは「主観」だ(おおっ、ひっくり返ったぞ!)。
そして、このような「主観」が、対象としてとらえるものは何だ?
それは、この「主観」に対して「投げ与えられている」ものだ。「人間の表象」だ。それが「客観」だ。

え、待って待って。
「客観的」っていうでしょ? 
「それは客観的に見て正しい」とかって。そういうときの「客観的」って、どういうこと?

それもカントから来ています。
カントは人間の表象と「物自体」が一致することは証明できない、という。そのかわり、人間の表象の構造を分析して、これが普遍的なものであることを証明しようとした。
人間の表象は、個人的なものではなく、あらゆる人に等しく能力として与えられている(みんなが取り外せない緑のサングラスをかけているように)。だから、「主観」の作用とは独立に存在しうる。

わたしたちは「現象」として与えられている世界は認識できるけれど、「世界そのもの」は認識できない、とカントが言った、っていうのは、そういうことです。

でね、ここから

>対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由

ということが出てくるまで、またいろんな人が出てきて、それこそ主観-客観が主体-客体として訳し分けられるようになった経緯とか、すんごいいろいろあるんです。
だから、そうとも言えるし、そうでないとも言える。#2の方が書いていらっしゃるのは、おそらくハイデガーのことだと思うんですが(ちがってたらごめんなさい)、ハイデガーみたいにデカルトのコギトを受け継いで、「存在者」であることについて考えるひとも出てきます。

ごちゃごちゃしてるんです。ほんと。哲学に「すっきり」を求めてはいけません。
哲学を勉強したら、自分のまわりの現象を、きちんと理解するための概念が手に入るような気がする。
だけど、そんなことはできません。かならず、もっと知らなければならないことが出てくるし、おまけに、これまで自分が「知っている」と思っていたことさえ、打ち壊していくようなものなんです。
ただ、「いまわからないこと」が、いろんな本を読んだりしているうちに、いつの間にか自分のなかに定着している。ふりかえってみると、なんとなく整理できている。だけどそのころ、自分はつぎの「わからないこと」に頭を悩ましてるんですが。
だから、ゆっくり、焦らないで。

ごめんなさい、いよいよわからなくさせちゃう回答を書いたかもしれません。
わからないところがあったら、なんぼでもつきあいますんで。

この回答への補足

夢の件ですが、当質問において、ご回答者様から頂いたご回答の内容には、それ以前の私にとっては未知なる知識が含まれております。「私の居る世界は夢」なのであれば、ご回答者様から頂いたご回答の内容は、既に私の知識に含まれているものでなければおかしいように思います。主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、「私の居る世界は夢では無い」ことの証明にはならないのでしょうか?

宜しくお願い致します。

補足日時:2005/04/09 23:30
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

コペルニクス的転換の件、了解致しました。

哲学では同じ言葉でも哲学者によって意味が異なる場合が多いので訳が分らなくなりますね。

本当、一つのことを考えているうちに、別の疑問が湧いてきますね。

お礼日時:2005/04/09 23:05

>「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか? 



これ、すごくおもしろい質問です。
まず結論的に言って「この世界は夢ではない」ことは証明できないと思います。

というのはね、「この世界は客観的に存在している」ということは証明できないから。
「あなたが見ている世界」と「わたしが見ている世界」が同じものであることは証明できないんです。

まずカントは、人間は、世界そのものは把握できない、と考えるんです。人間の理解する「世界」は、人間が自分に理解できるかたちで認識した「現象という世界」だ、と。
ここでの「世界」というのは、つまり人間が認識できる総体なんです。

このあいだのおさらいですが、デカルトは明晰で判明な観念にもとづいた推論を展開すれば、確実な真理にたどりつける、と考えました。ここでの「観念」というのは、ものごとが心に映った像です。

この「観念」(心に映る像)と、物そのものが一致するとどうして言えるのか?
デカルトは神の存在が、そのことを保証してくれている、と考えるんですね。

でも、もう少し時代がくだっていくと、「神様が保証してくれてるさ」では通らなくなってしまう。

デカルトのころには物が心に映った像も、外から受け取った情報をもとに自分が考えたことも、まとめて「観念」と呼んでいましたが、カントのころになると、それを分けて考えるようになります。

事物の像は「表象」、知覚情報をもとに「表象」を形作っていく人間の精神作用を「感性」、この「感性」で得た情報をもとに判断したり推理したり、という思惟作用を行うものを「悟性」と呼ぶようになります(ことばがごちゃごちゃしてるけど、いったんことばが指し示す範囲を呑み込むと、ずいぶんスッキリ考えられるようになるから、焦らないでがんばって)。

カントは「表象」と物そのもの(カントの用語では物自体)が一致することを証明することは出来ない(人間は、物自体を考えることはできない)とするんです。

そのかわり、すべてのひとが同じ表象を持っている、そのことを証明しさえすれば、表象は客観的に保証される、と考えたんです。
心に映ったある像(表象)を、悟性が分類し、整理してたとえば「木」という概念を割り当てる。
この思考能力は人間が普遍的に同じだ。だから、この概念は普遍的なものなのだ。

つまり、物=表象、かどうかは証明できないけれど、みんなが同じ概念を持っているから、だいじょうぶ!というわけ。

だけどね、これも実は危うい。
カント自身も言ってるんです。すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている、と。

つまり、これって「人間が認識する世界も、人間の感覚器による一種のバーチャルな世界である」ってことなんですね。
となると、世界のリアリティっていったい何なんだ、って話になってくる。

世界が夢ではない、なんて、だれにも証明できないんです。

たとえばバークリーなんかはもうはっきり、主体が意識し、知覚している間だけ世界は存在する、なんて言っています。こういう考え方を「独我論」っていうんだけど、またこれはこれで長い話になってしまう。

だから本を一冊紹介しますね。中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書)
「〈ぼく〉は現実の〈ぼく〉ではなく、ほかの誰かの夢かもしれない。だがそれなら、ほかの誰かとは誰だろう……」
こんなふうに始まります。書いてあることはむずかしいところもあるけど、相当わかりやすく書いてあります。哲学史のなかでは、圧倒的におもしろいよ。

この回答への補足

少しこんがらかってきた為、確認を頂けたら助かります。デキの悪い生徒で申し訳ありません。

「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか?

逆に、「夜寝ているときに見る夢」が、本当に夢であることの証明もできないと言う解釈でよろしいでしょうか?

補足日時:2005/04/08 23:17
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いつもお世話になっております。

「私の居る世界は夢ではない」ことの証明はできず、行き着く果ては「独我論」になる訳ですね。そして独我論を否定することもできないのですね。

今読んでいる本を読み終えたら、教えて頂いた書籍を読ませて頂きます。(しかし、私にとって哲学書は難解過ぎる為、いつになるか分らない状況です。言葉の意味を辞書で引きながら読んでいるレベルですので・・・)

お礼日時:2005/04/08 23:40

デカルトは最初にあらゆるものを疑います。


「考えている自分」も疑ってみる。
夢のなかで考えているんじゃないか、と。
この部分、『省察』にはこんなふうに出てきます。

わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべて夢のなかでも現れうる。その夢のなかの思考は真であるとはいえない。
けれども、夢のなかでの感覚が偽であるとしても、感覚をもたらすわたしたちの身体は確かに存在しているではないか。
画家が想像力にまかせて頭のなかに絵を描いたとする。
確かにその絵はほんとうには存在しない。それでも彼が使用した「色」だけは現実のものでなければならない。
それと同じように「考えているわたし」がたとえ夢のなかの存在であったとしても、「そう考えているわたし」は確かに存在している。
だからやはり「考える」ということにおいて、わたしは存在しているのだ。
と、デカルトの論理の流れはこうなっていきます。

『方法序説』ではこの部分、すっ飛んでるから、ちょっと「え?」という感じがすると思うのですが、『省察』には上記のようになっています。

ここはすごくおもしろいところです。
デカルトは最初、あきらかに存在論(わたしがある、ということは、どういうことなのか)として、もんだいを立てている。
けれども、いつのまにか認識論(わたしが考える、ということは、どういうことなのか)にもんだいは移ってるんです。
事実、デカルト以降、近世の哲学は存在論から認識論に移っていくんですね。

回答はここまで。あとはちょっと余談です。

ところで「夢」、なんでここで出てくるか、ちょっと不思議な気がしません?
わたしはしたんです。その昔、『方法序説』を初めて読んだときに、夢なんて話がいきなり出てくるのがすごく奇妙な気がした。
で、家にあったブリタニカを調べてみたんです(家にあったのはカナーリ昔の版なんで、いまのは変わってるかもしれない)。
そしたらこんなことが書いてあった(細かい記憶は全然なくて、日付や地名はこの文章を書くために確認をとってあります)。

デカルトは1619年、ドイツのウルムというところに宿泊してたんです。デカルトが23歳のときです。そのころデカルトは「自然を数量化すること」について、思索を重ねながら、数学の勉強をしていた。11月10日、昼間から霊感にとらわれていたデカルトは、夜、寝てから、三つの夢を見たという。
これで、自分が数学者・哲学者になる、という啓示を得た。

へえー、夢でお告げかぁ、と思って、このことはずっと記憶に残ってました。
ご質問をきっかけに、その夢の中味が気になって、ちょっと調べてみました。
原文は英語なんですが
http://www.urantiabook.org/archive/science/binio …
ここのなかに夢の内容が詳しく出てきます。

ひとつは、突風に煽られて教会と、風にまったく影響を受けていないような人々のほうに押しやられる、という怖ろしい夢。
ふたつめは、落雷のような大きな音が聞こえて、たくさんの火花を部屋の中に見た夢。
みっつめは、非常に心地の良い夢で、自分が一冊の「辞書」と紙の束を持っている。そのひとつは詩で「人生ではどのような道に従ったら良いだろうか?」ということばで始まっていた。見知らぬ男が詩の断片を渡してくれる。それには「然りと否」と書いてあった。

デカルトはこの夢を解釈して、「辞書」というのは、雑多な知識を意味する。自分がその知識というものを改革し、科学のもとに統合するよう運命づけられている、と思うようになるんです。

ここらへんはデカルトの夢問題として、いろいろ研究されてるみたいですが、ともかく、デカルトはこの夢を「啓示」ととらえるんです。
啓示というのは、デカルトも学んだスコラ学にとっては、「神の直接の教え」として大変重く受けとめられるものだったようです。
デカルトにとって、夢というのは、自分の出発点をなす重要なものだったんですね。

ところでデカルトが始祖とされるこの合理主義によって、のちに宗教の根本原理はだれにとっても自明のものであるから「啓示」というものは必要ないと見なされるようになっていきます。

こんなところを見ても、みずからは前の時代に属しながら、新しい時代への転換の礎石を築いたデカルトという哲学者の存在のおもしろさがよくわかりますね。

参考URL:http://www.urantiabook.org/archive/science/binio …

この回答への補足

デカルトには限らず、「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか? ご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。宜しくお願い致します。

補足日時:2005/04/08 01:06
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

前回の質問ではお世話になりました。

デカルトは「この世界は夢ではない」ことを証明した訳ではないのですね。

お蔭様で「我思う、故に我あり」と「夢説」とをリンクさせることができました。

URLもありがとうございました。デカルトは10歳から研究を始めていたのですね。10歳から研究とは・・・ 10歳の頃、カブトムシを捕まえることにばかり熱中していた私には想像がつかない話です・・・

お礼日時:2005/04/07 23:23

私は何も分からないのですが、認識主体の自己不可知性という言葉があるそうです。

要するに認識するための主体は客体(すなわち認識の対象)にならないからこそ認識というもの(の存在)が可能になるということらしいです。私はこれはコギトエルゴスムの意味することかなと思っています。主体以外は夢でもよいのではないでしょうか。逆説ですが、主体は認識の対象にはならないが、だからこそ主体として存在することができるということではないでしょうか。主体も夢であるということはできますが、そのときそれは主体ではなくなっているはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主体以外は夢であろうと現実であろうと、大きな問題ではないのですね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/04/07 23:20

私はデカルトについてはよく知っていません。

ただ少し助けになればと思います。

夢の対比として現実というものがあります。例えば、あなたが今いる現実は夢の出来事かもしれないと疑うことはできるでしょう。しかし、その夢から覚めた現実というものをそのとき同時に前提としていないでしょうか?もちろん夢から覚めた現実もまた夢だったということは可能性としては消えないでしょう。そして永遠に現実にはたどり着けないかもしれません。それでは、現実とは一体何だったのでしょうか?現実がないとしたら夢もまたなくなってしまうのではないでしょうか?ゆえに「全ては夢である可能性」はなくなってしまう。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

「夢がある」と言うことは「現実もある」と言うことですね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/04/07 23:19

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こんにちは。
自分の世界が夢ではなく現実であることを客観的に証明することはどうやっても不可能です。
「夢」も「現実」も、これらはみな我々の意識として投影されるものですから、唯一それを判定する手段とは「主観的内省」しかありません。従いまして、「客観的な外省」というのは本質的に不可能であり、結果は「自覚」としてしか得ることができません。

夢といいますのは覚めてみれば分かります。これと同様に、現実も覚めるならばそれを夢と判定することが可能ということになります。ですが、現実から目覚めるということは、取りも直さず我々が知る「夢」と「現実」以外にもうひとつ別の「状態・世界」が存在し、そこへ移行しなければならないということです。ですが、そのような体験といいますのは未だかつてありませんし、仮に覚めてみたところで、そちらが現実であるかどうかはまた覚めてみなければ分からないのですから、これでは永遠に限がありませんよね。

さて、このご質問は、最終的にはそれが夢であるかどうかではなく、そこに現実というものが存在するか否かの「存在論」ということになります。
「夢」といいますのは「事実と一致しない」という特徴を持っています。仮にその夢が事実に基づく内容であったとしましても、少なくとも起きてみれば、自分はそのとき寝ていたという事実とは必然的に一致しなくなります。
夢が事実と一致しないのは、それは寝ている間は感覚器官からの情報入力が閉ざされており、そこに発生する意識は外部環境との関係を結んでいないからです。これに対しまして、起きているときに発生する意識といいますのは感覚器官から得られる外部情報に事実として対応します。我々はこれにより、それを現実と判定します。
しかしながら、最初に申し上げました通り、このような外界の知覚情報に基づく意識といいましても、本質的には飽くまで「内省による主観」でしかありませんから、その結果が事実であるかどうかを客観的に評価する手段というものは構造的に存在しません。これがどういうことかと申しますと、この世界には60億の人類がおり、我々はその中で家族や友人と共に暮らしている、それが事実であるかどうかを証明することができないということです。

このように、このご質問は最終的には「存在論」ということになります。
この世には自分以外にも60億の人間が存在し、海や川があり、様々な動物たちが暮らしている、我々にはそれを事実として証明することはどうしてもできません。ですが、このような意識が発生するということは、取りも直さずそこには「認識の主体としての自分」というものが何らかの形で存在するということです。ですから、60億の存在が果たして事実であるかを知ることはできませんが、これを認識することができるきる以上、それが現実であれ夢であれ、そこに自分が存在することだけは紛れもない事実であるということになります。このため、「我思う、故に我あり」という結論が導かれました。
夢も現実も、自分という主体がなければ存在しません。ですから、この世界が夢であるか現実であるかは分かりませんが、仮にそれがどちらであったとしましても、そこに自分が存在するということだけは事実であります。

こんにちは。
自分の世界が夢ではなく現実であることを客観的に証明することはどうやっても不可能です。
「夢」も「現実」も、これらはみな我々の意識として投影されるものですから、唯一それを判定する手段とは「主観的内省」しかありません。従いまして、「客観的な外省」というのは本質的に不可能であり、結果は「自覚」としてしか得ることができません。

夢といいますのは覚めてみれば分かります。これと同様に、現実も覚めるならばそれを夢と判定することが可能ということになります。ですが、現実から...続きを読む

Qこの世界はすべて自分の脳が作り出した 世界?

私が神ですか?創造主ですか?この私にとっての、現実。自分だけの現実?

それならば、「空を飛んだり」「スレイヤーズの魔法」を使ったりできますか?

私が女性になったり、何でもかんでも叶う世界になるのですか?

ただ、今は、最適な現実が、今の現実なので、そうなっているようです。

そもそも、人間の姿・形が・・・・・非常によくできてないでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
気が付きましたか

そう、、、この世界はすべて自分の脳が作り出した
世界<プログラム>に過ぎないのです。

人に会っているとき、あなたは話す事ができるでしょう。
しかし、他人が曲がり角を過ぎて見えなくなった時、
存在はしていないのです。

その人に連絡をしてみますか?
あなたは確認できるでしょう。
しかし、それは連絡自体を確認しているのであって
存在はしているのでしょうか?

街も物理法則も時間や運命さえも
脳が作った世界なのです。

全部たいや公園が作った世界なのです。
http://taiyap.hatenablog.com/entry/2013/10/24/184923

私が神ですか?創造主ですか?この私にとっての、現実。自分だけの現実?

それならば、「空を飛んだり」「スレイヤーズの魔法」を使ったりできますか?

私が女性になったり、何でもかんでも叶う世界になるのですか?

ただ、今は、最適な現実が、今の現実なので、そうなっているようです。

そもそも、人間の姿・形が・・・・・非常によくできてないでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
気が付きましたか

そう、、、この世界はすべて自分の脳が作り出した
世界<...続きを読む

Aベストアンサー

作り出した世界というわけではなく、自分が
感じ取った感覚的データを基に、再構築された
仮想空間です。しかし、データの半分程度しか
再構築できないので、低いピクセル数のデータを
拡大して見るようなもので、脆弱な世界です。
もともとある世界からデータをとり、半分程度
を再構築して、もともとある世界に重ね合わせ
ているのだから、私たちは半分しか知らないこ
とになります。

だから、すべてを自分が作り出したと考える
ことは、半分しか知らない人(無明)の、
たわごとです。
より深い真実を知りたければ、
脳が認識できないものを、身体で感じられる
ように鍛えることが必要です。
何事も、経験がものをいう、とはまさにそれ。

>何でもかんでも叶う世界になるのですか?
◆この世界はもともと何でも叶う世界です。
しかし、半分しか知らないので、叶いません。

突然ですが、ここで祝電を披露します。
「汝と隣人の間に、私は介在する。」(神より)
「求めよ、されば与えられん。」(使徒より)
「そうか、パイロットじゃない僕だってありえるんだ」
(?より)

Qクレジットカードで支払いすると手数料が取られるんですか?一括払いでも手

クレジットカードで支払いすると手数料が取られるんですか?一括払いでも手数料がかかるんでしょうか?
詳しい方いましたら教えてください
おねがいします

Aベストアンサー

>クレジットカードで支払いすると手数料が取られるんですか?

クレジットカードでの支払いは、原則手数料が必要です。
あくまで「割賦販売契約又は後払い契約」ですからね。

>一括払いでも手数料がかかるんでしょうか?

例外的に、一括払いの場合は手数料は不要です。
但し、自動的にリボ払いになるカードの場合は手数料が必要です。
例えば、毎月の支払い3000円に設定していて、5000円の買物をした場合は、当然2回に別けて支払いますから手数料が必要です。
お店で「一回払い」と指定しても、カード会社の処理では「契約通りリボ扱い」となり手数料が発生します。
リボ払いの指定が無いカードの場合は、一括払いの場合は手数料不要です。

ただ・・・。
カード支払いは、(支払い回数に関わらず)お店側が一定の手数料を支払います。通常は、利用代金の5%前後。
そこで、「カード支払いの場合は、手数料を代金に加算する」店も存在します。
法的には違反ではありませんが、カード会社とお店の契約違反です。
この様な店を利用した場合は、カード会社に連絡して下さい。

そうそう、世界で唯一「カード使用時に、カード利用者に手数料を請求する事」を合法化したシー・シェパード支援国家があります。
「日本人は鯨を殺すから、私は日本人を殺しても良いですか?」と、日本大使館に国営放送がインタビューして放送しています。(笑)
この国では、日本人の命と鯨の命は、同じ重さです。

>クレジットカードで支払いすると手数料が取られるんですか?

クレジットカードでの支払いは、原則手数料が必要です。
あくまで「割賦販売契約又は後払い契約」ですからね。

>一括払いでも手数料がかかるんでしょうか?

例外的に、一括払いの場合は手数料は不要です。
但し、自動的にリボ払いになるカードの場合は手数料が必要です。
例えば、毎月の支払い3000円に設定していて、5000円の買物をした場合は、当然2回に別けて支払いますから手数料が必要です。
お店で「一回払い」と指定し...続きを読む

Q哲学者にとっての独我論

いろいろ調べましたが独我論や懐疑論を否定するのは難しいようです。ということは多くの哲学者は独我論や懐疑論以外のことを論じているときは(独我論や懐疑論があるゆえに)自分の言っていることが間違っているかもしれないということを覚悟の上で論じているのでしょうか?
変な質問でしょうが宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

まず、最初に言葉の使い方から。
「独我論」というのは、主観的認識論に属する思想を、批判的にとらえるときに使う言葉なんです。

「わたしの意識」ということを「確実なもの」として、認識のしくみを考えていった認識論が、不可避的に陥っていくアポリア(行き詰まり)として「独我論」がある。
それを乗り越えていくためには……、という文脈で使われるものなんです。

>哲学者は独我論や懐疑論以外のことを論じているときは

というように、自分は「独我論」として人間の認識のもんだいを立てるぞ、と、宣言して使っているわけではない。
そこを、最初に押さえておいてください。

あくまでも、人間の認識のありようを考えるとき、「自己の意識とその意識がとらえた像のみが確かなものであって、他者はこころに現れた現象として認識するしかない」と考えるのが独我論であって、世界には自分しかいない、とか、そんなことを言っているわけでは全然ないんです。全然そういうのとちがいます。ここ、ほんとにまちがえないでください。お願いします。

たとえば「強い独我論」とされるバークリー、この人は、懐疑主義を乗り越える方法を考えます。

懐疑主義というのはなにかというと、人間の主観的な知覚から離れた、ものごとの「実在」(現象として存在するのではなく、その普遍的な、絶対的なありよう)は人間には知ることができない、とする考え方です。つまり、人間に可能な認識の範囲をもんだいにしているわけです。つまり認識哲学として分類される人は、大なり小なり懐疑論者であるわけです。

バークリーは、人間が物体をどのように認識するか考えていきます。
わたしたちは、自分の感覚で「物体」というものをとらえている。
たとえば目の前のコップ、これを眼で見、手にとって、手触りや重さを知る。落とすと割れる、中に飲み物を入れることができる、そういったことの一切は、経験によって知っている。
けれども、このコップから、自分の感覚によって与えられた要素を、ことごとく取り去ったら何が残るか?
何も残らない。
ここから有名な「存在とは知覚されることである」ということが出てきます。
こうして、バークリーは「物体」という「実体」(デカルトは「存在するために、他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」として、神・精神・物体の三実体を考えます)を否定するのです。

そうして、ここから世界をつねに知覚しているはずの「神」の存在を証明しようとするのですが、そこはここでは触れません。

つまり、理解してほしいのは、世界も他者も、自己の意識の像にすぎない、と考えたバークリーも、「独我論」をうち立てることを目的として、こうしたことを考えたわけではない、ということです。事実、バークリーは物体を「神の観念」と見ることで、独我論を免れようとしているのです(みんなこの部分はあんまり触れないけどね)。

独我論が「アポリア」とされるのは、そこへ向かおうとしなくても、そこへ落っこっちゃうから「アポリア」なんです。
さて、この回答は
>独我論や懐疑論以外のことを論じているときは(独我論や懐疑論があるゆえに)自分の言っていることが間違っているかもしれないということを覚悟の上で論じているのでしょうか?

という問題の答えになっているでしょうか。

まず、最初に言葉の使い方から。
「独我論」というのは、主観的認識論に属する思想を、批判的にとらえるときに使う言葉なんです。

「わたしの意識」ということを「確実なもの」として、認識のしくみを考えていった認識論が、不可避的に陥っていくアポリア(行き詰まり)として「独我論」がある。
それを乗り越えていくためには……、という文脈で使われるものなんです。

>哲学者は独我論や懐疑論以外のことを論じているときは

というように、自分は「独我論」として人間の認識のもんだいを立てるぞ、と、...続きを読む

Qこの世、この宇宙にいるのは、<私>だけではないか?

何から書いたら良いのやら。根本的考えは、「自分が宇宙と他人の全てを創造している」です。。(私しか意識ある人が宇宙にいない?・・・)

言えそう・・・なのは・・・

「私が生まれてきた理由は、宇宙や人類の学習のため」
だということでしょうか。。。・・・・・(意味不明ですが。)

エヴァンゲリオン26話でも、「世界にはあなたしかいないのよ」と、ミサトが言います。
あの辺は、独我論だと思いますが・・・。エヴァは独我論の話で、碇シンジの妄想みたいなものだと思う。

http://baco-crispy.cocolog-nifty.com/bacoblog/2011/12/post-8e6d.html
参考。宇宙には1人しかいない。これは、宇宙1つが、人1人に与えられていて、部分的に世界同士が接触している?というものです。

でも、違うと思います。と言うのも・・・「幻覚 建物」でGoogle検索しても、私の体験と同じものが出なかったのもあるし、、、幻覚とは何か・・・違うように思えるからです。
幻覚=現実とそっくり。

こんなこともありました。
1,ミルクティーを机の部屋へ持ってくる。
2,扉を閉める。
3,家族の1人が「廊下にこぼれている。こぼしたな?」と扉を開けて言ってくる。
4,1-2年前にこぼした場所と同じ場所に、何故かこぼれていた。しかし、こぼした記憶は無いし、その後の「机のカップの中身」は減っていなかった。=中身が移動したわけではない。

これについて、ここで質問したこともありましたが、答え出ず。
そして、「過去の現象が、今に映ってきたのだろう。」と思ってましたが・・・どうも・・・違うくさい。
昨日辺りに気づきました。
「これは、扉の向こう側は、自分から見えず、観測されていない。だから、ミルクティー事件も、揺らぎの状態が変わったからだろう。」と思いました。
この辺はブログに、「遠い駅は存在しない」というような意見があったので、最近考えています。
事実、自分の身の回り、見える範囲だけ、存在すれば良いわけであって、TVの中などもその範囲だけ存在すれば、「現実そっくり」になります。宇宙全体からすれば、その方が効率は良いでしょうし。

上記のポイントとしては、「見えない場所にこぼれていた」というのがあると思います。
扉は閉まってて、、、向こう側は見えなかった。これは、事実です。
そして、何故か、「こぼれた状態」が廊下に現れた。見えない扉の向こうで。瞬間的に。
そして、タイミング良く、家族の1人がそれを発見した。(これまた偶然にしては・・。私が無意識に動かしたようでもある。)

この謎の現象は、自分でもよくわかりませんが・・・・。
<私>が、<宇宙>及び<身の回りの現実>を、自分の脳?だと・・・・わかりませんね・・・。
ともかく、自分のどこかに記憶していて、それはどこか、本当にわかりません。単純には、脳ですが。

しかし、宇宙全体を、自分の脳だけで、記憶し、そして、創造していくことが、可能なのでしょうかね?(疑問)容量不足かな?・・・。

ともかく、、、私がカップのミルクティーを運んできました。机に。
その、「過程」でしょうか。その、「記憶」を「書き換えた」のかもしれません。現実って、自分の脳の記憶だけで出来ているのでしょうか?
その場合というか、そういうのを、幻覚とも言いそうですが、しかし、それでは、「家族の1人が幻覚のミルクティーを発見した。」という事実を覆せません。しかし、全てを私が創造している、とすると、私の幻覚体験?は全て説明がついてしまいます。

~~~~~~~~~~~
そう・・・・ネット上の書き込みでも、3次元世界の現実の、外の世界も、外を歩く他人も、全ては自分の創造による存在、、、と考えても矛盾が出て来ません。(勿論異常な考えですが。)
そして、このことは、異端者となり、そして、3次元世界の現実世界は、
「どうあがいても、お前が世界や宇宙を創造していることは、教えないぞ。」と、言ってきているようでもあります。

それは、自分自身が他人が人形のようで、機械のようで、意識が無く、生きていない、生まれても死んでもいない、そして、「世界、宇宙で意識があるのは、自分だけ。自分1人ぼっちの世界。」であることが怖いから、だとも言えそうです。

「完全にロックされている現実世界」のようでもあります。外を歩いていても、他人は自分のことが変わっていると、気づかないし、家族は当然、自分を一般人の1人として話してきます。
これらは作り物かもしれませんが(哲学的ゾンビ)、否、創りモノかもしれませんが、
「本物そっくりの、完全にロックされた3次元体験世界」として、本物そのままに、現れています。

宇宙に自分1人しかいなくて、宇宙は人1人ずつでなく、宇宙がたったの1つしか存在しないとしたら?
「もしも、自分が生まれた瞬間に、宇宙が瞬間的に創造されたとしたら?」
「もしも、自分が自殺したり、事故で無くなってしまったら?宇宙は消えてしまうのだろうか?また、自分の意識は無くなってしまうのか?」
と、疑問に思えます。死後の世界は誰もが疑問に思いますが。
~~~~

話をミルクティーに戻すと・・・「ミルクティーを机まで運んできた」「記憶」が、書き換えられてしまい、「現実が変化してしまった」ということだと思います。
まず・・・分子的に考えると?・・・・・モノとして。ミルクティー+こぼれたミルクティーとなります。
机のミルクティーは、いっぱいでした。だから、こぼれた分を足すと、こぼれたでしょう。
つまり、「持ってきた量が増えていた」ことになります。変です。

「新規に廊下上で、ミルクティーが出現した」とすれば、辻褄が合います。
いや・・・・「記憶」でしょうか。記憶=情報?・・・。
「廊下でこぼさずに持ってきた」情報と、「廊下でこぼしてしまった」情報が、入れ替わってしまったのです。
ちょっと、量子論の揺らぎの宇宙・・・?というのもわかりませんが、AとBの2種類が存在に与えられているのでしょうか?それとも、無限又は多くの種類が存在するのでしょうか?観測で。

何はともあれ、今の宇宙は不安定だと思います。私の脳が不安定なだけ。。。という可能性もありますが。

幻覚体験?は書ききれません。
ともかく、変、です。FEZというネットゲーム(50人vs50人対戦)で、アップデートが変でした。
半年間、ダガー島という1つのマップが、「違っていた」のです。マップの形が。
しかし、この現実を、他人は一切騒ぎません。そう、「私だけの現実」なのです。。。・・・

この場合、疑問が出ます。シュタインズゲートの時間線とか、パラレルワールドがわかりやすいと思うのですが。

1,ダガー島のアップデートの無かった世界(偽世界?)
2,ダガー島のアップデートがあった世界(真世界?)
の2種類が存在したことです。私は、いきなりマップが変わっていたので、調べたら、半年前にアップデート情報が載っていました。

この、1と2がありますが、両方とも、「他人がゲームプレイしていた」わけです。そのマップで。
しかし、「1の世界でプレイしていた人々は、どこへ行ってしまった?」という疑問が沸きますが、
今思いつきましたが、「1の世界は2の世界の記憶に上書きされた」が正しそうです。
今思えば、私が世界を変えてしまった、、、。。。ようでもある。

また、FEZゲームで、攻めと守りが切り替わるのですが、そのタイミングで、「私のゲーム画面が5-10秒止まっていた」のです。そういう日がありました。ネット回線切断された様子と同じ。
これって、、、、他人も同じ状況になれば、チャットで騒ぐはずです。しかし、それはありませんでした。
そう、これは・・・・「まるで、他人=ネット内のキャラがプログラムのロボットのようだ。」と、思えます。
ネトゲなのですが、1人のソロゲーだという。。。
FEZは、仮想戦場で攻めと守りを繰り返します。しかし、その切替タイミングで、止まる、という現象が起こるというのは・・・・実は、他人=ロボット人間じゃないか?と疑ってしまいます。
要は、3次元現実世界がプログラムで出来ていて、自分の周りの現実もプログラムのようなもので出来ている、という可能性です。
「止まる」という現象が5秒ほど起きていたのは・・・・「処理落ち。思考中。」だったからだと考えられます。
PCでも、ゲームでも、よくありますよね?処理落ち。昔のFC、SFCならよくありました。
しかし、正常なFEZでは、その攻守切替がスムーズに行われているように、「見せられている」という。

だから、その日は簡単なゲームでした。だって、相手が攻守切り替えが起きるまでは、相手全員がずっと逃げていくんですから。それまで、自分は攻めてれば良いだけと。FEZは6年ぐらいやってます。

もう文字数が・・。携帯電話が11日間だけニュースが流れていたのも、携帯そのものが書き換えられたからでしょう。新機能・・。

あと、他人の怪我した方の足で階段を上っていたり・・。(左右逆)

幻覚?で、コンビニ店員が手を変に動かしてたり。
J.C.STAFFというアニメ会社の看板の酒場が何故かあったり。
幻覚のファミリーマートが出現したり、デパートの1Fがジュース売り場に書き換えられてたり。
幻覚の建物の3Fで、熱いシャワーを自分が浴びることが可能だったり。(現実は全く違う建物だが、扉・階段にぶつからない。変。)

だから、幻覚でなく、現実だと。
言いたいのはこれらが本当だとしたら一体いつまで世界中で茶番劇してるの?と

何から書いたら良いのやら。根本的考えは、「自分が宇宙と他人の全てを創造している」です。。(私しか意識ある人が宇宙にいない?・・・)

言えそう・・・なのは・・・

「私が生まれてきた理由は、宇宙や人類の学習のため」
だということでしょうか。。。・・・・・(意味不明ですが。)

エヴァンゲリオン26話でも、「世界にはあなたしかいないのよ」と、ミサトが言います。
あの辺は、独我論だと思いますが・・・。エヴァは独我論の話で、碇シンジの妄想みたいなものだと思う。

http://baco-crispy.cocolog-...続きを読む

Aベストアンサー

>世界中で茶番劇してるの?

 そろそろ人間の固有特性から離脱したらどうですか。
 世界も宇宙もあなたが作り出したものものですから、さっさと離脱するということです。

 茶番劇はもういい加減うんざりでしょう。沢山の人がもう気づいています。

 それこそ、ご自由に・・・

Q独我論が正しいのでは?世界は自分が創っている?

>vitaさん
>我々人間は、光や音、匂いや触感などの外部刺激を受容することで、自我、心を形成しています。その受容には僅かとはいえ、有限の時間がかかります。つまり我々は過去しか受容できないのです。そして我々はその外部刺激に反応し世界に働きかけるのです。その方向性は一方通行で過去から未来への方向なのです。ところが独我論は、そもそも受容する外部刺激そのものを自分自らが作り出し、それを可逆的に自ら受容し反応していくということなのです。つまり未来から過去を形成するという全く非常識な方向性を持っているのです。自ら外部刺激を作ることなど本来できないのですから、独我論など全くの妄想であり、議題にすること自体無意味なのです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1389656183

↑ これの意味がよくわかりませんが・・・。。。確かに過去を受信?して、現実を自分の脳で理解している。


>独我論とは、客観的世界など存在しない、すべては自分の意識のみ存在している。
他人や椅子や机などのものは脳が見せている幻影であり、そのものの存在はあり得ない。

>つまり、世界の中に自分がいる のではなく、
自分がいて、世界は自分が創っている。という考えです。
~~~~~~~
 そんなわけで、独我論が正しいのではないかな~?っと、思ったわけです。

しかし、どうも、仮に、「世界は自分が創っている」としても、そのヒントは世界にほとんど存在しません。
誰1人、「あなたが創造している」とはしません。(しかしネット上にはいくつかそういう説も出される)


1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
2,独我論のように、1人1人が独立した世界を持っている?というオカルト説。1人1宇宙。

の2種類がほとんどです。
しかし、私は、

3,実は、世界、宇宙には、「私という自分しか存在しない」という独自に近い考え。。を持ったりもします。
しかし、これは、まさに、「有り得ない話」でもある。
というのも、1人1宇宙で、60億人分の自分だけの現実(アニメとある魔術の禁書目録・超電磁砲)を持つ、という、2番目の説ならまだしも、

3、の、私しかこの世に存在しない、というのは、無茶苦茶でしょう。やはり・・・。
それはつまり、「一切の他人に、意識が存在しない人形のようなモノ」だと、してしまうからです。
これは、怖い話。。。 また、これを他人に聞いたら、どう答えられるでしょう?
他人は、「いや、それは違う。私には意識がちゃんとある。だから、貴方は間違っている。考えすぎだ。頭冷やせ。病院行ったら?」と、なります。

2,3番目の考えは、神=自分=私、わたし、だという考えにも、近く、「私が神だ!」と主張する
=馬鹿で頭イカれた精神異常者、だと、他人からは映ります。。。

・・・さて、何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが・・・思うことが、多々あるってことです。


とあるサイトで、2番目?の「1人1宇宙説」を唱えている人がいました。
観測についての記述ありました。
「あなたの真後ろ、遠い駅、地球の裏側」は、見えていないから、観測されず、存在しない、真っ暗な何か、というような説明がありました。
なるほど、と思います。

というのも、それならば、「エネルギーの節約になる」からです。
最近はよく、「この世はスーパーコンピューターの世界だ。」という話を見かけます。
それならば、この世界を描写するのならば、「私だけ」描写すれば良いわけです。
私のパソコン画面、と、その周辺だけ、描写すると。それも、完全にリアルに。。。

(また、私の幻覚体験で、建物幻覚=中に入れた、熱いシャワーが出た、という謎や、廊下に過去の記憶のミルクティーこぼれていた事件や、携帯電話が11日間だけ最新ニュースが流れていた、や、Gigazineに明らかに私と関係ある記事が載っていた(←これは完全に幻覚でしょう。)といったことなどなどが、ありました。)

これは、私の脳が壊れかかっている?wのか、それとも・・・・・?
世界が壊れかかっているwのか、、、・・・・?・・・・・。

個人的には、「世界が壊れかかっていた」という方が、2010年3月の色々な幻覚体験は、説明が付きます。その直前は、一週間家から出なかった?忘れた、とかあったので、明らかに、私の脳が異常を出して、幻覚になってしまった、とも、言えるのですが。

何れにしても、世界=宇宙=自分の脳みそ、というのは、正そうです。。。。

Aという世界、Aという宇宙は、Aという私の脳が創りだす、Aという、Aだけの現実・・・だとも言えそうです。
そしてまた、B,CDEFG・・・・という世界が、他人にもあると。まぁ、5感で生まれてからの経験の積み重ね=現実世界のようなので・・・・。(これはまさに2番目の話)


さて・・・そう考えていくと・・・・・・・・・・・・?
結局、最低でも、「1人1宇宙」であり、それとも、
「私の宇宙だけしか、この世に存在しない。宇宙は1つしか存在しない。唯一。」という、
無茶苦茶な考えが出てきます。

また、この考えについて、他人のほとんどが否定する理由は・・・・・・・・・・・
「宇宙にたった1人しかいない、私・・・・・・。。。」というのを、信じていかないとならない点です。
1人1宇宙ならば、60億人分の現実があり、現実世界が無数に存在し、人間もまた、60億人、別々の世界でも、確かにそれぞれが、存在する。だから、「この世には1人じゃなく、60億人は確かに存在する。」と、できます。

しかし、宇宙が1つ、意識を持つのも、私1人・・・・・・だとすると?・・・・・・・・・・・・
もしも、それが真実ならば、、、、とても、「虚しい」気がしてきます。

全ての他人は、所詮、意識がなく、人形のようであり、また、<私の無意識>が創造した他人である、と。。。。

宇宙がどうやって出来たのか?わかりません。しかし、「一番初めには、確かに私1人しかいなかった。それじゃぁ、虚しい。だったら、私の分身を、完全に他人に思えるように、創造していこう。」っと、神である私。。。が、、、、、、、、、考えて、創造していった、としたら?・・・・・・・・・。。。
確かに、辻褄は合うと思います。

結局、人形劇、自作自演ということです。それが真実かは不明ですが・・・。。。
さて。自作自演と言えば、911テロです。これは陰謀論ですが、、、、。。。
また、2chでも、自作自演という単語は出てきます。笑い話でもあります。

しかし、「他人は、自分が創造していて、、、、自分=他人だとしたら? 鏡だとしたら?」
んーーーーーーーーー、、、、。。。これまた、虚しいと。。。。
自作自演、ってやつですね。こんにちは。ありがとう。さようなら・・・・・。。。

そして、「これらが真実だと仮定すると、これらが公にならない理由は・・・・・・・・・」
やはり・・・・・・「自分1人だけの世界は虚しいから・・・・・・・・・・・・・・・。。。。」ということだと思います。

超超超超・・・・・・・・・・・・超超超・・・・・・・強力な・・・・・・・・・「ロック=鍵=Key」がかかっている、ということでしょう。Key=ゲーム会社でもありますが。
パンドラの箱・・・・・・・かもしれません。
超強力なロックだからこそ・・・・・・・・・・・・・。。。。。。。。他人は、ネット上でも、現実世界でも、
誰1人、他人は、「あなたが創造している」というようなことを、言わないのだと思えてきます。
他人は、嘘を付いている?・・・・・ような感じです。
結局、自分しか信じられない、ということに、尽きるかもしれません。

・・・・・・・あとは。
この世がスパコンで出来ているとして、幻覚は、私が、
「実はこの現実は、自分が創造しているのではないか?」 っと、「潜在意識がここに来て顕在化(これはOVA超電磁砲黒子の台詞)、した」ということのような気もします。

ずっとずっとずっと、、、、自分が全てを創造しているとしたら?・・・・・・・・
ずっとずっと、「自分で自分に嘘をつき続けている」ということになります。
これまた、しっくり来るのですが・・・。。。

http://www1.ttcn.ne.jp/turu/30souzousyuhe.htm
これなんかも、あなたが創造している、としているサイトの1つですが。1人1宇宙論かもしれません。

また、さっきの911ですが、CG説があり、これも、「変だな?」と思わせます。
311も何故、911+311=1222=2012年12月22日人類滅亡?説になるのか?っと。
福知山線脱線事故だって、何故、運転手がスピードを出してしまったのか?謎です。
最近では、全てのニュースが、自分が創造したようにも思えてきます。。。


さて・・・・・・観測ですが・・・・・・・・。
自分の目で、観測しています。問題は・・・・・・・・・・・「自分も、他人も、同じように、5感を持っている」ということでしょう。
「自分も他人も、同じ体を持っている。だから、自分も他人も、同じ存在だ。だから、独我論は間違っている。」とも、仮定できます。
これは質問ですが、これを否定することはできるのでしょうか?

もしも、自分だけしか、意識が無いとすれば、自分=他人の体、という事実は、何故か否定され、観測しているのも、自分1人だけ、だということになります。

ここで字数制限・・・。。。

>vitaさん
>我々人間は、光や音、匂いや触感などの外部刺激を受容することで、自我、心を形成しています。その受容には僅かとはいえ、有限の時間がかかります。つまり我々は過去しか受容できないのです。そして我々はその外部刺激に反応し世界に働きかけるのです。その方向性は一方通行で過去から未来への方向なのです。ところが独我論は、そもそも受容する外部刺激そのものを自分自らが作り出し、それを可逆的に自ら受容し反応していくということなのです。つまり未来から過去を形成するという全く非常識な方向...続きを読む

Aベストアンサー

1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
から全力で逃亡している感じだと思いました。

「自分=唯一神 ならば 自分=唯一神 である」 (まさかね… でもまじで? けどひょっとすると… もし自分=神 なら…たしかに あれやこれを思い合わせると 自分=神 …となる けど まさかね… でもまじで?)
を繰り返しているようにみえました。前提と結論が一緒というか、循環論法というのでしょうか、はじめから答えが決まっていてその答えに合うような材料をつい拾い集めているというか。

もし自分がそういう堂々巡りの状態になるとしたら、どういう場合かと考え、自分もすぐひとつの結論に飛びますが、心の問題かと思いました。劣等感や運動不足が原因で、他者との交流・交感の不足からくる寂しさもあるように思います。

アニメやカルトが提供する世界観にすがるのは、現実をそのままでは受け入れられないくらい心や体や感覚が弱くなっているためかと思います。
「自分≠唯一神」や「すべての人≠神」である世界では、心がなんだかつらいので「自分=神」かつ「他者≠神」という世界、「自分=唯一神」の世界、ようするに自分のみがずば抜けて優越している世界を空想したり妄想したりして、人々独自の存在を暗に否むことで、現世的な生活に伴う恨めしさや劣等感を晴らしているのではないでしょうか。
空想世界に不安を感じつつ、そうした世界にある優越的状況を期待してもいるのではないでしょうか。
自分の世界観を変えることは簡単で座ったままでできるので楽です、空想の世界に多少おかしい点があってもそれを生々しい現実らしさとして妄想の補強に用い、「自分=唯一神」という世界を築いて、しばしばその異常さに自ら疑い、そこから少し出てみると実際の世界もまた異常というか不本意で、よく見れば他者たちのいきいきとしている世界にあって、その活気が自分にはまぶしく、見ないことにして、また「自分=唯一神」の世界に舞い戻り、そこで人すべてに優越していようとする、そこにはつよい劣等感や無力感がひそんでいて、現実で負けがこんでつらいから自分に都合のよい世界観に入り、圧倒的に勝っていようという、一発逆転の発想かと思い、よくあることなので共感しますが

現実や他者にたいする手ごたえがないのは、自身がふだん生々しい手ごたえのない、あまり五感を使っていない暮らしをしているせいではないですか。
ディスプレイで映像ばかり見ていると身体感覚が鈍り、感覚や感性が低下すると現実感も薄まり、五感をいきいきと使う感じがどんなものか分からなくなり、忘れて、まるで他者たちも感覚や感性に乏しいもののように思われてくるかも。
自分にだけ感覚や思考があり他者たちにはそれがない、という世界観を質問文で提示していますが、むしろ実際には他者たちの方が五感や肉体や思考力をいきいきともちいて生活していて、自身の方があまり五感その他をよく使わずに暮らしているのではないですか、よく分かりませんが。
自然の多いところで土だか樹だか水とか山とか、生き物やら人やらと触れ合うといいような気がしました。肉体のエネルギーは節約するより使うほうが生の手ごたえ得られますし健康的です。体を動かしてスポーツとかほどよい喧嘩だとか、泳ぐとか、おもいきり走るとか、筋肉痛になるとかして自分の感覚を自分なりに味わい、それを他者にじかに伝え、他者にも自分の五感が得る内容を打ち明けてなるべく分かってもらい、また他者が他者なりに味わっている感覚をこちらからもなるべく分かろうとするとか、生身の思いやりというか。首や胸より下の部分もよく使うと良いと思います。
ごちゃごちゃと意味不明かも知れませんが、質問文を読んでいて現実感・世界観を得る際に、肉体感覚が乏しいような印象を持ったのでこんなことを書きました。

1,唯物論?のように、全ての人に意識がある=常識論、当たり前とされている考え
から全力で逃亡している感じだと思いました。

「自分=唯一神 ならば 自分=唯一神 である」 (まさかね… でもまじで? けどひょっとすると… もし自分=神 なら…たしかに あれやこれを思い合わせると 自分=神 …となる けど まさかね… でもまじで?)
を繰り返しているようにみえました。前提と結論が一緒というか、循環論法というのでしょうか、はじめから答えが決まっていてその答えに合うような材料をつい拾い集...続きを読む

Qマゾヒストになる要因って、あるのでしょうか?

自分のことを「マゾかも?」って思っています。
マゾになる人にはどういった要因があるのですか?

(1)家庭環境に問題があるのでしょうか?

(2)幼少期に精神的肉体的虐待を受けた場合と何か関係があるのでしょうか?

Aベストアンサー

>人間だれしもSの自分、Mの自分を持っているんです。

lupinmamaさんのこの言葉が、真だと思います。フロイトによれば、サディズム、マゾヒズムの両者は、すべての人に少なからず「傾向として」ある、と言うことです。

ところで、フロイト後期の理論で、「死の欲動」という理論があるのですが、これは、“人間は、そもそも「破壊願望」とでも言うべきものを持っていて、主体、客体に関わらず、攻撃の対象になり得る”というものです。なんだか、過激な感じがしますね。つまり、人間が持っている攻撃性が極端に外に向けば、サディズム。内に向けばマゾヒズムになる、と言う話です。例えば、嫌なことがあったとき、人間は攻撃性を発揮します。他人に当り散らす人もいれば、自分を責めまくる人もいるわけです。その根っこがこの攻撃性というやつです。ただ、これだけでは、「マゾになる人にはどういった要因があるのですか」というcoconutさんの疑問には、答えきれていませんね…。

そこで、またまた、フロイトの登場です。彼は、この両傾向の発生をcoconutさんが(2)で挙げられている「幼少期」に求めます。ただし、「精神的肉体的虐待」と必ずしもイコールではないようです。まず、子どもが、残酷なことを好むというのは、よく言われることですよね。これが第一次の攻撃性。ここにサドとマゾが、同居していると、彼は言います。初めの頃のフロイトは、このときに感じた罪悪感がマゾヒズムの原型だといいます。そして後で、外部に対する攻撃性になるとサディズムだとも言っています。(深層系の心理学説は仮説の域を出ていませんから[出ることが出来ないんだけど]、実感としてはそんな気もするという程度に考えておいた方が無難です。)

ここからは僕の考えです。自分のサド-マゾ傾向の起源を「幼少期」に求めるのは、正しいと思います。おそらく、育った環境の中で、こう生きるのが自分にとって一番良い生き方だというものを学習したのでしょう。心に溜まったもやもや(怒りとか悲しみとか)を、どのように解消するかと考えたとき、他人に当たるか、自分に当たるかという選択がなされたのかも知れません。それが、大人になってから、サドとして出るかマゾとして出るかというのは、よく分かりませんが、土台は子ども時代にあったのだと思います。

マゾになる人が問題のある家庭環境に育つとは限りませんし、まして精神的肉体的虐待を受けていると、必ずしも言えません。ただ、もしもそのようなことがあった場合に、その影響も考慮されてしかるべきだという程度には関係があるのだと思います。

>人間だれしもSの自分、Mの自分を持っているんです。

lupinmamaさんのこの言葉が、真だと思います。フロイトによれば、サディズム、マゾヒズムの両者は、すべての人に少なからず「傾向として」ある、と言うことです。

ところで、フロイト後期の理論で、「死の欲動」という理論があるのですが、これは、“人間は、そもそも「破壊願望」とでも言うべきものを持っていて、主体、客体に関わらず、攻撃の対象になり得る”というものです。なんだか、過激な感じがしますね。つまり、人間が持っている攻撃性が極端...続きを読む

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qデカルトの身心二元論、わかりやすく教えて!

デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
特にわからないのは、
「物(身体)は延長を本質とし,心(精神)は非延長的な思考を本質とする」
という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

Aベストアンサー

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
どれもないものは、だから精神なわけです。

延長というのは物体が空間の中に存在する以上、必然のことであり、
空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む


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