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寺田ヒロオという漫画家について詳しい方、どんな漫画を描いていたか教えて下さい。
人気絶頂時に絶筆し、その後は隠遁したということしか知りません。
勿論、作品も読んだことありません。
トキワ荘メンバーの藤子不二雄や赤塚不二夫、石盛章太郎は兄貴分として頼り、尊敬していたような発言があるし、手塚御大も先述の若手漫画家に対するのとは明らかに違う(寧ろ、福井英一、馬場のぼると同格として見ていた?)ような発言がありました。
ますます謎の漫画家です。

A 回答 (7件)

仲間の漫画家から見た寺田ヒロオさん



https://www.youtube.com/watch?v=jzPgOqSmfmA
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0 …

wikに詳しく載っています。


どんな漫画を描いていたか教えて下さい。
  ↑
くらやみ五段とかスポーツマン金太郎
背番号ゼロなど。

白黒物語(『漫画少年』1955年4月号 - 10月号)
背番号0(『野球少年』1956年1月号 - 1960年4月号、『小学四年生』1961年4月号 - 1962年3月号、『小学五年生』1962年4月号 - 1963年3月号、1967年4月号 - 1968年3月号、『小学六年生』1963年4月号 - 1964年3月号、『ボーイズライフ』1964年4月号 - 11月号)
スポーツマン佐助(『野球少年』1957年9月号 - 1959年6月号)
ラッキーちゃん(『幼年クラブ』1957年)
もうれつ先生(『少年』1958年1月号 - 1961年2月号)
五九郎さん(『おもしろブック』1958年新年号 - 1960年6月号)
ホープくん(『ぼくら』1958年 - 1959年)
スポーツマン金太郎(『週刊少年サンデー』1959年創刊号 - 1960年32号、1961年14号 - 1963年45号、『小学三年生』1962年4月号 - 1963年3月号、『小学五年生』1966年4月号 - 1967年3月号、『小学六年生』1967年4月号 - 1968年3月号、『小学一年生』1969年3月号、『小学二年生』1969年4月号 - 1970年3月号)
わんぱく記者(『少年画報』1959年新年号 - 1960年6月号)
ホームラン教室(『冒険王』1959年 - 1961年)※後半は赤塚不二夫作画
おやまの金ちゃん(『小学一年生』1960年4月号 - 1961年3月号)
タマちゃん野球日記(『こども家の光』1961年)
きんちゃん(『小学一年生』1961年4月号 - 1962年3月号)
カメラマン金太郎(『小学三年生』1962年1月号 - 3月号、『小学四年生』1962年4月号 - 1963年7月号)
代打者(ピンチヒッター)(『少年』1962年4月号 - 1963年2月号)
暗闇五段(『週刊少年サンデー』1963年46号 - 1964年31号)
ロボット兄弟(『小学四年生』1964年9月号 - 1965年3月号、『小学五年生』1965年4月号 - 12月号)
チビッ子選手金太郎(『小学四年生』1966年4月号 - 1967年3月号)
きんちゃんくろちゃん(『小学二年生』1966年9月号 - 1967年3月号)
ノンキ先生まんがノート(『週刊少年サンデー』1968年15号 - 22号)
その後の、スポーツマン金太郎(『ビッグコミック』1969年3月号)
きんたろう(『小学一年生』1969年4月号 - 1970年3月号)
カーブくんドロップくん(『小学二年生』1971年4月号 - 1972年3月号)
パー子ペー吉(『幼年クラブ』)
トキワ荘青春物語(競作)
寺田ヒロオ編:「『漫画少年』史」,湘南出版社 (1981年04月).



ますます謎の漫画家です。
 ↑
職人気質で、児童漫画に特別の思い入れ
があったようで、
ブームになっていた劇画に嫌気がさして
いたそうです。
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この回答へのお礼

叮嚀な回答有難う御座います。
しかし、知らない作品ばかりですw。

お礼日時:2022/09/21 19:44

>>同じくアパートに藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎の他、鈴木伸一、よこたとくお、水野英子等が住んでいたというのは奇跡的な確率ですね。



あの当時は、「漫画家になる」ってのは、現在の「アイドル歌手になる!」とか「小説家になる!」っていうよりも、もっと不安定な職業に思われていたと思います。
でも、そんな願いをもった人が全国にいて、漫画家になるきっかけを探していたのです。

今もありますが、当時においても、マンガ雑誌は、読者の描いたマンガ作品を募集していたわけですし、出版社にいる編集者の方達は、漫画家の卵が住むところを斡旋したりしたでしょうし、出版社が違う編集者間の交流もあったでしょうから、違う出版社に描いている漫画家さんが、同じアパート、近所のアパートに住むことになっていたとしても、それは当然のなりゆきだったのかもしれません。
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トキワ荘マンガミュージアム寺田ヒロオ展へ行ってきました! - YouTube


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この回答へのお礼

トキワ荘は建物ごと永久保存すべきでしたね。

お礼日時:2022/09/21 08:39

昔は良かったの思い出補正であって、現実は漫画家平野耕太のこのツイートのとおりだと思う。


寺田ヒロオは自分が主催した新漫画党に自分の才能を喰われた。

>平野耕太@hiranokohta 9月7日
>まんが道のイメージがあるから、和やかなひよっこ漫画家の青春群像劇のイメージあるけど、
>新漫画党結成で素養のあるバケモノの幼体が全国から集結してるだけなので、
>バキのトーナメント上位とか新撰組とかが共同生活してると思った方がいい気がする。そら色々あると思う

https://twitter.com/hiranokohta/status/156745006 …
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この回答へのお礼

成る程。しかし、同じくアパートに藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎の他、鈴木伸一、よこたとくお、水野英子等が住んでいたというのは奇跡的な確率ですね。

お礼日時:2022/09/21 08:32

>>作品は『背番号0』、『スポーツマン金太郎』などタイトルは知ってますが、読んだことありませんし、読める機会もありません。



ネットで検索すれば、1秒でそれらの作品が売っているところが見つかりますよ。
「マンガに金払えるか!」っていう、無料で読もうという乞食根性丸出しの方は、読める機会はありませんが・・・。
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トキワ荘については、そこに住んだ漫画家の方、住んだことないけど、そこを訪れた方などが、いろいろと本に書かれています。



寺田ヒロオって漫画家さんが何を書いていたかは、ネットで検索しましょう。ネット検索のやり方は分かりますよね?

なお、彼が、いろんな漫画家さんから兄貴分として頼られていたことは、そのとおりです。
若手の漫画家さん(赤塚さん等)が「売れない・・・」と悩んでいたら、相談にのってあげたり、いろいろと援助の手を差し伸べて「面倒見の良い兄貴分」のように行動していたからです。

ただし、「ヒット作品を沢山生み出した漫画家の兄貴分」というポジションで満足できたらいいけど、自分も大ヒット作品を描きたい、と思っていた。
でも、いつまでも自分の漫画が大ヒットしないで、自分が面倒みていた後輩の漫画家さんたちが大ヒット作品を生み出すようになっていったら・・・。
それは漫画家として苦しいですよね?

それで、彼はトキワ荘を去っていくことになりました。
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この回答へのお礼

作品は『背番号0』、『スポーツマン金太郎』などタイトルは知ってますが、読んだことありませんし、読める機会もありません。

お礼日時:2022/09/21 08:15

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