徳川家康は,将軍(征夷大将軍)になりました.

でも,秀吉は,「関白」から「太閤」になりました
詳しくは知りませんが,関白というのは天皇の直接の家臣であり,たぶん,「征夷大将軍」よりもかなり上の位だと思います.

信長は,「将軍」就任を拒否したと言います.
おそらく「関白」のようなモノを目指していたのでしょう.

この時代(戦国時代),秀吉の選択した「関白」と家康の選択した「征夷大将軍」とはどのような違いがあったのでしょうか.

一説には,将軍は,足利の直系でないとなれないとか,
そのために,将軍になった人は,「系図を適当にでっち上げた」とか言われていますが,強いだけではダメで,
「血統」も関係しているのでしょうか.

ご存じの方おられましたらお願いします.

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A 回答 (9件)

やはり「征夷大将軍」が武士の棟梁という認識が家康にも他の武将にもあったからではないでしょうか。


秀吉の「関白」職は他の方が書かれた様に征夷大将軍になれなかったので・・・というものです。

仰る通り、形式上は関白は征夷大将軍よりも遥かに上です。
ただ、あくまでも形式上です。
本来、征夷大将軍は蝦夷征伐の為の司令官職です。
それが幕府を開き国内の政を一手に引き受ける最高権力を持つ訳ですから、既に形式上の上下より実質的な上下関係が優先される訳です。
鎌倉・室町時代にも歴代関白が存在しましたが政を行うのは幕府でしたので、この時点で権力はの上下関係は逆転しています。
つまり、一端、落ちた関白の地位を秀吉が実力で最高位に引き上げたという状態です。
それが家康が征夷大将軍職に就き、関白職は元の形式的な位・・・征夷大将軍より権力の低い職となりました。

実力の無い形式・肩書は何の意味も持ちません。
実力に箔をつけるために形式・肩書を利用したのが関白職・征夷大将軍職であったのです。
先に書きました様に秀吉は征夷大将軍職に就けなかったので関白を選んだ。家康は征夷大将軍職に就ける可能性があったのでそれを活用した。

信長は「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」の三職のどれかに就任するよう推されましたが回答をせず。
その後、信長は本能寺の変で討たれてしまいますので
信長の真意がどの職に就く事にあったのか?或いは拒否しつづけたか?さらに上を目指したか?は私たちは憶測するしかありませんが・・・。
何れにせよ、過去にも信長は「形式」をフルに利用し、利用出来なくなればサッサと捨ててしまう経歴を持っていたので「源氏だけ・・・」等と言う慣習を強引に破る事も、全くあたらな地位を設けてしまう事も有り得ることでしょう。

秀吉・家康はそこまで強引な手は用いず、従来の形式・肩書を自分の可能な手段で活用したのでしょうね。

> 強いだけではダメで,「血統」も関係しているのでしょうか.
身分制度の無い今日でさえ、有栖川宮様と偽っただけで金を集める様な詐欺が行われる程ですから血統というものは目に見えない有り難味があるのでしょう・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

私の疑問は,ご回答でほぼ解決しました.

お礼日時:2005/04/07 04:01

将軍を選択したというのではなく、源氏長者を選択した、というべきです。


将軍は皆さんおっしゃるとおり職掌であり、家康は死んだときには征夷大将軍ではありませんでした。(息子の秀忠が将軍)
しかし源氏長者としての地位は譲っていなかったのでそういう意味でも権威は家康のほうにありました。これは天皇の血をひく一族の長であるという権威です。
また、源氏というのはここではすべての源氏を意味します。清和源氏だけではなく、本来もっと格の高かった村上源氏や嵯峨源氏なども含んだ、いわゆる広い意味での天皇家の親戚一族の長ということです。
足利の直系でなければという説は聞いたことが無いです。現に家康の名乗った新田氏も清和源氏ですが足利氏ではありません。
ただ関東の覇者として同時に日本全国を支配下に置くのに将軍職のほうが都合がいいということはいえるでしょう。今更天皇に政権を返す気も必要も無くその権威だけを利用したいのであれば実質的な軍権をもつ将軍のほうが地位が高かろうと文官である大臣やなんかより。
秀吉はもともと庶民ですからむしろ嬉々として天皇に仕えていたという話です。関白というのは少なくともそういう形をとっている職ですから。
つまるところ信長はわかりませんがあとの秀吉と家康はどちらも天皇の権威を利用したのは確かですがその向きが違っていたと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

歴史認識にはいろいろな解釈があり,面白いですね.

江戸時代は,圧倒的に「将軍」の地位が天皇よりも上であった.幕末になると,微妙になってくる.

日本で,形式的とはいえ,何百代もさかのぼれるのは,天皇くらいですが,
将軍職にも血統が必要だったようです.

成り上がり,現有する組織や,権威,血統というものに興味の無かった「信長」.
百姓出身の「秀吉」
血統を自認する「家康」

それぞれの価値観が推測されて面白いですね.

お礼日時:2005/04/07 04:16

No.3さんの回答とほぼ同じなので、視点を変えてコメントします。



征夷大将軍とは、もともと蝦夷(アイヌ人・アイヌ系和人)を征伐する、れっきとした「官職」です。古くは坂上田村麻呂が征夷大将軍として赴任しています。官職としては低かったものの、現地において朝廷の許諾を求めずとも自由に兵馬を操る権限がありました。

信長は将軍への就任要請を断っています。官職である限りは天皇の家臣であり、最大勢力となった信長にとっては最早天皇制なんて無用の長物でしかなく、従って「官職」なんて不要だったわけですね。

将軍は源氏しかなれない、という意見がありましたが、源平藤橘(源氏、平氏、藤原氏、橘氏)の4家の子孫であれば将軍になれます。元々この4家は祖先が天皇ですし。実際に、鎌倉幕府の第4代~第9代の将軍は藤原家や公家出身です(決して第3代実朝で将軍が不在となったわけではありません)。

 信長と同様、鎌倉・北条氏も平氏の子孫だから「将軍」就任資格がありました。しかし、「将軍になりたくて源氏を断絶させた」という批判を反らすため断念しています。学校の教科書では第三代実朝で将軍は断絶したと説明していますが、上記の通り、その後藤原氏や皇族を都から呼び寄せて「将軍」に据えています(名ばかりですが)。1333年の鎌倉幕府滅亡まで、将軍は存在しています(第9代 守邦親王まで)。その将軍の補佐として「執権」に就任していただけです。

家康の将軍就任は、本人に聞いてみないことにはわかりませんが、信長のように天皇制を廃することよりも、単に兵馬権と行政権を掌握できて徳川の世を創り上げられればそれで良いと考えたのかも知れません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2005/04/07 04:09

関白はあくまでも公家政治の中の制度(なのですが(天皇の後見人であり、未成人の場合は摂政、政治の場合は関白になる。

)、秀吉は氏を持たない為、公家社会に入り込みその頂点に立つ事によって権力を掌握せざる終えなかった。その為に、一条家の猶子になり、藤原氏として関白になり、なおかつ、新しい氏である豊臣を賜っり、その新しい豊臣と言う氏の権威で権力を継承していこうと言う考えだったのかも知れません。

一方、幕府を開くには、征夷大将軍の他に源氏長者である必要があるため、徳川家康は新田系得川氏の子孫として源氏をなのりだします。それ以前の家康は藤原氏を称しています。もっとも松平家は元々は源氏を名乗ってたと言われています。
江戸幕府はは、ついで公家の官位と武家の官位を分離しました。江戸時代武家の官位は単純に幕府内の序列をあらわす基準の一つとして、公家の官位とは別物と扱われていたはずです。

なお、織田信長も源氏のはずですが、源平交代論を信じていたのか途中で平氏に変えた様です。しかし織田信長が最終的に何を目指したのははっきり解りません。天皇を越える権威になろうとしたため暗殺されたと言う説もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

その時々で,最高実力者がどのような「役職」を名乗るのかというのは,
その時代や,その人が昇りつめた経緯をあらわしていて面白いと私は思うんです.

関白や将軍がその地位の上下関係にたいした意味の無いことは,皆さんすでにご回答のとおりなんですよね.

でも,江戸時代のように太平の世が続くと,
自分の力で昇りつめた始祖に対して,その後継者は,
始祖の力を借りようとし,
そのあまり重要でなかった役職自体が意味を持ってくるという.

お礼日時:2005/04/07 04:06

簡単に言えば、家康は前述の通り源氏としての血統があっあために将軍になった。

秀吉は元は百姓なので武士ですらなかったため朝廷においての地位しか確立できなかった。
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こんばんは。


なにぶん素人なんで、知っている限りの乏しい知識を総動員してみますネ。間違ってたらゴメンナサイ!

まず、鎌倉幕府以降の将軍は源氏でなければ、ダメ!って慣行があったようです。ですから、鎌倉幕府後期の将軍的存在「北条氏」は執権だったと思われます。

織田信長の家系は、元を辿れば平氏なので、将軍としての資格を欠いています。また、信長が拒否したのは内府か右府だったような気が・・・。
右大臣と、将軍には決定的な違いがあるように思えます。
右大臣は朝廷内の地位をあらわし、将軍は兵権を司ると言った職掌をあらわす言葉なので、同じ土俵には立たない称号のはずです。
右大臣にして、将軍ということもありうるわけです。
信長は、将軍になりたくてもなれなかった???

右府の就任拒否は、朝廷の支配下に入りたくないが為の拒否であったという説もあります。

豊臣秀吉は仰るとおり、関白から太閤になりましたが、征夷大将軍にならなかったのは信長と同じ理由と思われます。(源氏ではない。)後付で、「天子の落としだね」って自称していますが。当時の慣習では将軍になれなければ、朝廷内の冠位で格付けするしかなかったのではないかと思われます。

徳川氏ですが、改姓前はご存知のように松平氏、先祖を辿れば新田氏(れっきとした源氏です。)に行き着くと言われますが、ホントかどうかは知りません。
但し、征夷大将軍になるためにその系図がモノを言った事は間違いないと思います。徳川氏しか征夷大将軍になれなかった理由は、前述の通りで概ね間違っていないと思います。
徳川家康は、最終的に太政大臣(冠位)征夷大将軍(職掌)で生涯を終えています。
太政大臣は、朝廷内での人臣最高位です。ですので、一番偉いと言っても間違いではありません。

「関白」と「将軍」は、どちらも冠位ではなかったような・・・。(このあたりから、怪しくなります。)
そんな訳で、「どちらが偉い。」となると、人事部長と営業部長のどちらが偉いのか?ってな感じがしますが。(ますます怪しい・・・。)

どちらも便宜的に称号があった方が良いので、選べる物を選んだと言った違いで括っています。信長の場合は、冠位など必要なかったのでは・・・。

しかし、征夷大将軍の方が配下の人材を自在に論功行賞できるので、(ある意味、朝廷の口出しを封ずる事ができる)自在に天下を引き回すことに関して有利だったと思えます。即ち、朝廷より下される恩賞はまとめて幕府が引き受け、将軍の判断によりそれを分配する。配下にとって、親方は2人要らない。って発想だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

私がおぼろげに理解していたのとほぼ同じ内容です.

関白というのは,摂政が幼少の天皇に代わって
政治をおこなうのに対して,
関白は,成人した天皇に代わって,政治をおこなう役職なので,太政大臣よりも偉いのではないのですか?
なにしろ,天皇の代わりですから.

ただし,形式的に地位が上なのと,
実際に権力を持っているのは違うのは理解できます.

現代で言えば,軍事政権下では,将軍の方が
関白よりも権力を持っているケースもあるでしょう.

リビアの最高権力者は,カダフィー「大佐」ですし,
パキスタンは,ムシャラフ大統領(参謀長兼任)です.
中国でも,一時期,国家主席よりも,中央軍事委員会主席だった鄧小平氏が最高実力者で実力は上でした.

お礼日時:2005/04/07 03:58

〉信長は,「将軍」就任を拒否したと言います.


〉おそらく「関白」のようなモノを目指していたのでしょう.
「おそらく……」の根拠はなんですか?
信長は官位を求めず、天皇の権威を重くみていなかった、というのが一般的な解釈だと思うのですが?

〉詳しくは知りませんが,関白というのは天皇の直接の
〉家臣であり,たぶん,「征夷大将軍」よりもかなり上
〉の位だと思います.
だからその根拠は何?

関白は「公家」としての官位です。征夷大将軍は「武士」の棟梁(統領)です。
家康は、天皇の下での公家の官位ではなく、武士の棟梁として地位について、天皇の下での統治ではなく、天皇から独立した政府(幕府)を開く(天皇も実質的に支配下におく)ことにした、というのが常識的な解釈ではないかと思いますが。
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この回答へのお礼

質問に書いた「おそらく」は,質問自身をくわしく述べたいために用いたもので,あくまで推測です.

推測というのは,予想であり,今回の場合,根拠は希薄です.

>信長は官位を求めず、天皇の権威を重くみていなかった、というのが一般的な解釈だと思うのですが?

信長は,自分自身を神として信じ,宗教さえも支配下に置こうとしていましたので,そうなんでしょうね.

「関白よりも将軍が下の地位」と考えたのは,
将軍というのは,天皇が蝦夷を征伐するための
軍隊を作ったときの頭目に与えた名前であり,
単なる「軍隊」の大将.
それに対して,関白は,大臣であるので,
たとえが適当ではないかもしれませんが,今の
日本で言えば,総理大臣(関白)と自衛隊の幕僚長(将軍の長)のような関係で,簡単に言えば,
形式的には将軍は,関白の命令に従わなければならないのではないか?
と考えたからです.

もちろん,この時代には,公家の役職は実際は,あまり意味を成していなかったということもありますので,ご回答のとおり,これが通説とは考えておりません.

お礼日時:2005/04/07 03:49

征夷大将軍となり、幕府を開くのは、源氏に限る、と言われていたようです。

名家であれば家系ぐらい何とでも言えると思いますが、秀吉はどうにもならず、また養子にもなれず、関白の道を選んだと言われています。

また、信長は平家の家系、であったため、征夷大将軍にはなれなかった、とも言われています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

足利ではなく,源氏でした.

ご回答は,私の認識とも一致します.

お礼日時:2005/04/07 03:40

そこに将軍職があったから。

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この回答へのお礼

たしかに,無ければ,なれませんよね.

お礼日時:2005/04/07 03:37

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(1)どのようにして地位の移転が行われるか。
契約上の地位の移転は、「契約上の地位を移転する」という意思表示によってなされます。

売買における売主の地位の移転を例に契約上の地位の移転の中身をみると、(1)まず売買代金という「債権」が譲渡され、(2)目的物を引き渡すべき「債務」も移転します。(3)そして、解除権や取消権等の形成権も移転することとなります。
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これらを分解して、売主と地位の譲受人との間で、債権譲渡契約、免責的債務引受契約(注意)・・・等を個別に締結してもいいのですが、面倒なので、「契約上の地位を移転する」という契約に一本化してしまうのです。
この契約は、上記の権利のすべてを移転することがその内容となります。

(2)問題点
免責的債務引受のところに(注意)と書きましたが、契約上の地位の移転での一番の問題点はここです。
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目的の商品を持っていない人間が地位の譲受人になったとしたら、大変ですからね。
これは逆でも同じです。つまり、買主の地位を移転した場合も、だれが売買代金の債務者かという点は売主にとって重要な問題です。
無一文の人間が売買代金を支払うことができるわけないですよね。売主は通常、買主の資力を信頼して取引するものです。

また、不動産賃貸借においても問題となります。
これは、貸主(賃貸人)が賃貸借の目的物である不動産を売却した場合に生じる問題です。
この目的不動産の移転に伴う賃貸人たる地位の移転の場合は、一般的に「誰が賃貸人かは重要ではない」とされています。
というのも、不動産賃貸人は、貸す不動産さえもっていて、それを使用させてくれれば、あとは基本的にそれ以上何もしなくてよいからです。
したがって、賃貸人たる地位の移転は、3者間での契約による必要はなく、目的不動産の売主・買主の2者間による契約で有効に成立します。

(3)地位の移転と権利の譲渡との違い
もうおわかりかと思いますが、契約上の地位の移転は、権利の譲渡等が束になったものです。


長くなりました。失礼しました。

(1)どのようにして地位の移転が行われるか。
契約上の地位の移転は、「契約上の地位を移転する」という意思表示によってなされます。

売買における売主の地位の移転を例に契約上の地位の移転の中身をみると、(1)まず売買代金という「債権」が譲渡され、(2)目的物を引き渡すべき「債務」も移転します。(3)そして、解除権や取消権等の形成権も移転することとなります。
つまり、債権譲渡、債務引受、解除権等の移転が複合的に生じることになります。
これらを分解して、売主と地位の譲受人との間で、債権譲...続きを読む

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男という生き物は女性には分からないくらいに「力」に憧れるんです。
たとえば肉体的に強い格闘技の選手や、権力を持った職業など。
こういった思いは誰しも一度は持つと思うのですが、どこかでみんな諦めます。
現実を見る、という事でしょう。

だから彼が怖いと思うmomonontanさんはいたって普通ですよ。
ハッキリ言って男にとって地位や権力は所詮他人を見下すための道具です。と、お偉いさんは心のどっかで思っているでしょう。
その地位や権力を持って、他人に優しかったり人と対等に接しられる人がカッコイイと思います。

今の彼に地位や権力にこだわるなと言っても反感を買うだけだと思うので、こうこうこういう人間が私はカッコイイと思うけどなぁ・・・。とか自分で思う人間の理想像や現実を聞かせたらどうですか?
それでもそんな考えを持っているなら、その人はただの子供です。

失礼なことも言いましたが、男が力に惹かれるというのは確実に事実だと思うので参考までに^^;

Q西洋の将軍と征夷大将軍は同格?

騎士などが出てくる話で将軍を名乗ったりすることがありますが、あの将軍と、日本の征夷大将軍とは同格なんでしょうか?

日本は規模が小さいから将軍は一人で充分、西洋は規模が大きいから将軍が何人もいるということ?

Aベストアンサー

日本の征夷大将軍は「天皇に代わって政治を行う武士」という位置付けであり、軍隊の将軍とはちょっと意味が違うのですよ。

元々は地方を制圧する軍隊の最高総司令官(大将軍の名が示す通り、他の将軍を配下に置く将軍の中のトップ)なのですが、この征夷大将軍というのは軍隊の指揮官のみならず、制圧した地域を天皇に代わって治める(政治をする)という権限も持っておりました。

鎌倉時代以降、この天皇に代わって政治をするというところを取って、日本を支配する武士は征夷大将軍の役職に就くことになったのです。
征夷大将軍というのは武士が政治を行う為に就任する役職なのです。


ですから、質問の回答としては、西洋の軍隊の将軍と日本の征夷大将軍は同格ではありません。
西洋で例えれば、征夷大将軍は王様代理ですから、軍隊の将軍なんかよりはるかに格上の存在という事になります。

Q男はあまり顔がよくなくても、金と地位と才能があればどんな美人でもゲットできますね。 でも女はやっぱ

男はあまり顔がよくなくても、金と地位と才能があればどんな美人でもゲットできますね。

でも女はやっぱり不細工だと地位や金や才能を持ってても宝の持ち腐れでイケメンはゲットできませんね。

金目当ての金も地位も才能もないイケメンが寄ってきても嬉しくないですね。

Aベストアンサー

金と地位と才能があるイケメンがいいんですか?

Q家康、征夷大将軍に補任の宣旨。

Wiki「徳川家康」の一部ですが
「朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した」
とあります。
「六種八通の宣旨」とは何ですか。
「征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣」の三つの職を任じるのに六種八通もの宣旨が要るのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>「六種八通の宣旨」とは何ですか。

〇「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制/笠谷和比古」
『日本研究(7)/国際日本文化研究センター/1992-09』(p89-104)
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/457
<1/16>(89頁上段)
慶長八年(一六〇三)二月一二日、上洛中の徳川家康は将軍宣下の勅使を伏見城に迎えた。
このおりの宣旨は、征夷大将軍、右大臣(従一位)、源氏長者、淳和奨学両院別当、
牛車の礼遇、兵仗の礼遇という六種八通のものが一時に下されており、
まことに前例を見ない盛りだくさんなものであった(1)。

<13/16>(101頁下段)
注(1)
『大日本史料』慶長八年二月一二日条。
外記宣旨として右大臣、牛車、源氏長者、兵仗に関する四通が、
官務宣旨として征夷大将軍、淳和奨学両院別当、源氏長者、牛車に関する四通が発給されている。


なお、「大日本史料(第十二編之一)/慶長八年癸卯 二月十二日」条の中では、
〔光豐公記〕〔慶長日件錄〕〔壬生家四卷之日記〕などの記述から
源氏長者と牛車に関し外記・官務で別個(重複)発給の結果、
六種八通となることがわかります。

(3頁)
〔光豐公記〕二月十二日、晴將軍宣下有之、…
將軍之宣旨、氏長者宣旨、牛車宣旨、兵仗宣下、淳和奬學兩院宣旨有之、…
…氏長者外記官務兩宣旨、…牛車兩宣旨、
(4・5頁)
〔慶長日件錄〕一
…將軍宣旨持參、…右大臣宣旨持參、…官務、氏長者宣持參、
次大外記、源氏長者宣持参、次官務、淳和奬學兩院別當之宣旨持參、
次大外記、牛車宣持參、次官務、牛車宣持參、次大外記、兵仗宣旨持參、…
(8頁)
〔壬生家四卷之日記〕四
…宣旨、
右大臣、源氏長者、牛車、兵仗、以上四通大外記、
將軍、源氏長者、牛車、両院別當、以上四通官務、

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

>「六種八通の宣旨」とは何ですか。

〇「徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制/笠谷和比古」
『日本研究(7)/国際日本文化研究センター/1992-09』(p89-104)
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/457
<1/16>(89頁上段)
慶長八年(一六〇三)二月一二日、上洛中の徳川家康は将軍宣下の勅使を伏見城に迎えた。
このおりの宣旨は、征夷大将軍、右大臣(従一位)、源氏長者、淳和奨学両院別当、
牛車の礼遇、兵仗の礼遇という六種八通のものが一時に下されており、
まことに前例を見ない盛りだく...続きを読む


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