牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

象は鼻が長い。
は正しい日本語ですが、例えばこれを英訳しようとするとこのままではできません。
象は動物だ。それは長い鼻を持っている。
と関係代名詞などを使う必要があります。
これはなぜなのでしょう。

質問者からの補足コメント

  • Long-nosed monkey

    「象は鼻が長い。関係代名詞」の補足画像1
      補足日時:2022/11/04 17:02
  • 韓国語には主語が二つあるように見える文がある件に関して、以下のような記事を見つけました。

    https://seijokorean.com/study/%e2%96%b6%e6%96%87 …

    一般に主語につく助詞と考えられている 은/는 、이/가 は以下のように区別される。
    은/는 ~は:補助詞、本当の主語ではない。
    이/가 ~が:主格助詞、本当の主語

    本当の主語と本当でない主語を考えるなら 1文に主語が二つあることも説明できる。
    補助詞という用語は初めて聞きましたが、以下でも 은/는 は相異の補助詞と書かれているので韓国語文法では存在する用語のようです。

    No.51の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/06 09:27
  • No.51 の補足続き

    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metad …

    一つの述語をいろいろな側面から見ればいろいろな主語が現れるという考えかもしれない。
    助詞がある言語だから言えることで、
    助詞の無い英語などではこのようなことは無い。

      補足日時:2022/11/06 09:31
  • 1.「象は鼻が長いのです」なら主語 - 述語の対応が、
    上の階層は「象は – のです」、
    下の階層は「鼻が – 長い」と対応しているので英語で考えても不自然は無い。

    2.「象は鼻が長いです」では「です」がどちらの階層に属すると考えるかによるが、下の階層の「鼻が長いです」に属するのだと思うので、上の階層の「象は – 」に対応するものがなくなり、英語では不自然な文になる。
    日本語はそういう対応関係が無くても良い おうような言語なのでしょう。韓国語も同じ。
    さらに日本語は下の階層に移ることを示すマーカーの関係詞などが無く、しれっと移っていっても不自然に感じない。

    3. あくまで階層構造の無いべたな「象は鼻が長い」だと考えるのなら、本当の主語と本当でない主語 などを考えざるをえない。

      補足日時:2022/11/07 23:09
  • とりあえず 1に関して。私は中学の国語で習った文法の知識しかないのでほとんど理解できませんが、例えば「象は鼻が動く」-> 「象は鼻が動きます」も「ます」は全体を受けるということですか。「象は「鼻が動き」ます」。私には「ます」は動詞にかかっていると考える方が自然に思えます。「象は「鼻が動きます」」。

    No.202の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/09 08:30
  • ありがとうございます。

    > 「, it feels like a new war is beginning.」があります。Like a new war is beginning が形容詞です。

    「新しい戦争が始まっているように感じる」
    日本語にすれば副詞句のように思えますが、英語では形容詞になるのですね。

    No.242の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/11 10:57
  • No.251, 252, 253 に対するコメント

    コメントありがとうございます。
    象は鼻が長い動物だ -> Elephants are long-trunked animals という英語は有るが、
    象は鼻が長い -> Elephants are long-trunked という英語は無さそう。
    つまり、形容詞 long-trunked は限定には使えるが叙述には使えないらしい。

    説明が不十分だったようですが。私が聞きたかったのは、「the trunks are long」のような形容詞節を叙述に使った英語は無いのかということです。

    無理に作れば、
    Elephants are the trunks are long.

    No.253の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/11 16:32

A 回答 (253件中191~200件)

No.62 にお応えして。



確かに認識の問題ですが、

[犬]は[走っている]

ではなく、

[犬は走っている]■

という構造ということです。これは、丁寧形になれば、

[犬は走ってい]【ます】。

と肯定判断辞が零記号ではなく表現されることで明らかかと思います。

丁寧形でない場合は当然過ぎてくどいために省略することが規範化しているということです。一部の方言では、

[犬は走っている]だ。

と表現することでも明らかです。また、形容詞述語文の場合も、

 空が青い■。

で、丁寧形になれば、

 空が青い【です】。
 とても楽しかった【です】。

になり判断辞が表現されます。この点は当然ながら時枝が論じています。現在も必ずしも形容詞述語文の場合は規範化しておらず違和感を表明される場合もあります。英語の場合も、

 He runs.

が強調されれば、

 He does run.

になります。現在の英文法学、生成文法論では、この”do”の扱いに困惑しているのは、

助動詞 "do" とは何か
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9926 …

英語:5文型説の誤り ― 形式主義文法論の混迷
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9503 …

で論じた通りです、これに対し、合理的、論理的な説明ができますか?
言語規範、認識構造を捉えられない現在の言語論の欠陥ということです。■
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No.60に対して、



認識云々と回答が来そうなので補足します。

[A dog] ■[runs.]



[犬]■[走る]
[犬]は[走っている]

を比較して、認識が違うと主張するのは無理があると思います。少なくても私はそのような主張にはまったく説得力を感じませんので、そのような内容でしたらご回答のお手間を頂かなくて結構です。心理学的データなどがあれば別ですが、それは期待できないように感じますので。
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No.60に対して、



No.48、No.57で述べたように、

[A dog] ■[runs.]

が天秤型なら

[犬]■[走る]

あるいは

[犬]は[走っている]

が、なぜ天秤型と呼べないのか論旨が不明です。

私が思いつく唯一合理的な説明は、英語の主語と日本語の主語の差異です。
それ以外に合理的な説明が可能であれば教えて頂きたいです。
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No.59 にお応えして



>>別の合理的理由

何に対する理由でしょうか?
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No.58に対して、



ですから、英語は

 S―P
の図形の示すような統一形式と著しい対照をしてゐる。

と言っているのだから、主語が独立していると認識されています。

一方で、日本語は、

[裏の小川がさらさら流れる]■

のように全体を包むやうな形式において統一してゐるのだから、日本語のほうが主語の独立性が低いと明確に言っています。

時枝は、英語の主語と日本語の主語の差異に基づいて天秤型と呼んだという理解は既に述べましたし、その解釈を裏付ける記述です。
提示して頂けるのはありがたいですが、その点は既に理解していますので、別の合理的理由があるのであれば提示して頂きたかったです。
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No.57 に応えて



>>時枝自身も、天秤型に沿って英文法を解釈するような主張はしていないのでは?

天秤型を提起したのは時枝で次のように述べています。

一 用言に伴ふ陳述

 裏の小川がさらさら流れる。

右の表現において、これを統一する陳述は、特別な語によって表現されているのではなく、一般には「流れる」といふ用言に具有されてゐると考へられてゐる。しかしながら、この表現されない、零記号の陳述は、「裏の小川がさらさら流れる」といふ事実全体に関係するものとして、次の図形に示すような関係でこの表現を統一し、その故にこれが文であると云われるのである。

[裏の小川がさらさら流れる]■

即ち、■記号で示される話手の陳述が、「裏の小川云々」全体を包むやうな形式において統一してゐるのである。あたかも、風呂敷が種々な品物を包んで統一を形づくつてゐるのと似ている。この統一形式は、国語の構造の特異な点であって、英・独語における

  S―P

の図形の示すような統一形式と著しい対照をしてゐる。英・独・仏語においては、統一の表現は語の中間に存在して天秤型をなしてゐる。以上の点から考えて、口語において、陳述が用言に具有されてゐると考えることは、その統一形式を理解する上に大きな妨げとなると考えられるので、本書においては、陳述を用言の外に置いて考えるという説明法をとったのである。この云わば仮説的理論は、次の統一形式を考察することによって一層明らかにされるであろうと思ふ。
(時枝誠記 『日本文法 口語篇』 〔第三章 文 論(一 総説)

又、〔第三章 文 論(六 文の成分と格)では、次のように述べています。

国語に於ける用言と陳述との関係を右のお如く解する時、ヨーロッパの言語と国語との構造上の相違を次のように説明することが出来る。

 A dog runs.

のような表現は、一般に次のように説明されてゐる。

 A dog is running. 即ち〔A〕is〔B〕

のように、陳述を表す辞がAとBとの中間にあって、両者を結合するものと考へる。即ち零記号の辞をAとBとの中間に想定するのである。然るに、国語に於いて、

 犬 走る。

といふ表現は、AB二の観念の排列に於いて英語の場合と全く同じであるにも拘わらず、これを次の如く解さなければならない。

〔犬 走る〕■

即ちAB二観念を統一する辞は、AB二観念の外から、これを包む形に於いて統一してゐるのである。全者を天秤型統一形式と呼ぶならば、後者のやうなのは、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことができるであろう。このことは、文の統一形式を論ずる際に、再び触れることではあるが、明治以後、英文法の知識によって、日本人は、統一といへば、天秤型以外にはあり得ないように教え込まれて来たのであるが、右に述べるように、別個の統一形式の存在が可能であることを深く銘記しなければならないのである。それは、物を箱に入れたり、紐で括つたりするところの統一形式である。//

この包むという形式主義的な発想は後に三浦が訂正しています。また、現在の英文法がどのようなレベルであるかは、

「”be”<動詞>と<助動詞>混同の誤り ― 形式主義文法論の混迷」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9866 …

助動詞 "do" とは何か
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9926 …

他を参照下さい。

なお、天秤型構造については、

『時枝学説の継承と三浦理論の展開 (言語過程説の探求) 』 2004/12/13
佐良木 昌 (編集)

でも論じられ、また言語過程説の立場からフランス語の関係詞、時制、「新稿スペイン語のserとestar」などが論じられ、自然言語処理の基礎としても採用されています。

池原 悟 (著)
『非線形言語モデルによる自然言語処理: 基礎と応用』(岩波書店: 2009/6/25)

『自然言語処理への展開 (言語過程説の探求 第三巻)』 2017/9/15
宮崎 正弘 (著), 白井 諭 (著), 衛藤 純司 (著), 佐良木 昌 (編集)
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No.56に対して、



天秤型を受け入れた英文法の研究者は0ではないということですか。その本は見ていないので何とも言えませんが、その点は了解しました。
ただ、英文法の研究者の間で天秤型という考え方は受け入れられてはいないでしょう。マイナー学説以下の、相手にされていないレベルなのが実情でしょう。時枝自身も、天秤型に沿って英文法を解釈するような主張はしていないのでは?

また、

[A dog] ■[runs.]

が天秤型なら

[犬]■[走る]

あるいは

[犬]は[走っている]

が、なぜ天秤型と呼べないのか不明です。

私が思いつく唯一合理的な説明は、英語の主語と日本語の主語の差異です。
それ以外に合理的な説明が可能であれば教えて頂きたいです。

助詞との連結云々と言われそうな気がするので事前に申し上げておくと、

>国語に於いては、主語は述語の中に含まれている形に於いて

のような説明は、少なくても結果的には、日本語の主語は独立性が低いことを述べています。
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No.48 に応えて



>>「天秤型」などと言っている英文法の研究者はいないのでは?

先に引用した、

宮下眞二 『英語はどういう言語か』(季節社:1985.10)

で詳しく説明され、

[A dog] is [running.]
と、
[A dog] ■[runs.]

を並べて論じられています。「■」は時枝の云う零記号です。単なる形式の対応ではなく、それを生んだ認識との対応を正しく捉えることが本質的です。文の変形をしているのではありません。

時枝と三浦の関係、および零記号などについては、

言語学のコペルニクス的転換とその展開
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9934 …

時枝誠記の入子図解釈に見る機能主義的誤り
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9920 …

”be”<動詞>と<助動詞>混同の誤り ― 形式主義文法論の混迷
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13212852.html?pg=1& …

他を参照下さい。残念ながら、No.48 の回答者や尾上、ラネカーなどの機能主義/形式主義的な言語観ではこれらの問題を正しく取り扱い、理解することはできません。調和する矛盾という視点がないと論理的な扱いができません。

言語はどんな矛盾を含んでいるか  【1】 言語の二重性
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9939 …

~【3】を参照下さい。■
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No.53に対して、



>「主語を動作主として特別視している」のは確かだと思いますね。
今大幅改修中ですので、未公開ですが拙ブログから該当部を引用い

三上は主語は日本語文法から抹殺すべきとまで言ったのですから、主語がどうこうと言うはずがありません。主語なんてない、いらないという立場なんですから。実際、引用文のどこにも「主語」など出てきていません。

あなたの言いたい事を汲むと、他の人が主語と呼ぶものを三上は動作主と呼んだとおっしゃりたいのでしょう。ただ、三上は主語が要らないと主張した人なんですから、その三上が「主語を動作主として特別視している」というのは間違った言い回しです。
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No.50に対して、



>それは文脈で判断するしかないでしょうね。

それでは主語の基準が曖昧です。
それでもいいとあなたが思うのはあなたの自由ですが、それではだめだとほとんどの研究者は思っているでしょう。その雰囲気はNo.46で多少は伝わったかと思います。
ですので、主語の定義に関しては、曖昧な基準で満足するのも個人の自由ですが、それではだめだと考える人が多いので検討が続いています。

>《The elephant is trunk という形自体はおかしくない》のなら、
>この trunk は述語ですよね?

鼻なんだから名詞でしょう。

>trunkを主語として記しているのにも拘わらず、The elephant is trunk のように述語として受け止められる構文になってしまうのでおかしい。
>と捉えるのが筋道じゃないでしょうか?

そうは思いませんが、そのように思いたいのでしたら、個人の自由でしょう。ただ、英語は苦手だというようなことをおっしゃっていたはずなのに、どうして急にそんな自分の意見に自身を持ってしまったんだろうなあ?とは感じます。
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