No.2ベストアンサー
- 回答日時:
おそらく逆です。
縄文以来の日本人の血肉の中に入っていた俗哲学が、華厳の哲学に似ていたということでしょう。
また、違う観点から考察すると、芥川龍之介は敬虔なキリスト教徒でしたが、ある時、日本のキリスト教が、神道など古代からの日本の精神文化によって改変されていることに気付いて愕然としました。
ひょっとしたら、華厳の哲学も日本風に解釈されていたのかもしれません。
いずれにしても、司馬遼太郎の解釈は、方向性が間違っていると思われます。
早速のご回答ありがとうございます。
<華厳の哲学も日本風に解釈されていた>ですね。
ある民族が外部から思想(宗教なども)が吸収する際には、否応なくフィルターが働き、100%元の思想を吸収できませんね。
日本古来(縄文から)のもの考え方・感じ方により、仏教(華厳も)もキリスト教も改変‣変容・俗化がありえますね。
No.14
- 回答日時:
★ (№13お礼欄) ~~~~~~~~~~~
言挙げせぬについて、bragellone様の御見解は、
(1) <《事は 互いに共有されており わざわざいち
いち 言挙げをする必要はなかった》。>
ですね。
私は、タブーと思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち 《タブー》とは 次の(2)の場合を言うと わたしは分析しています。:
☆☆ (№13) ~~~~~~~~~~~~
(2) われの自覚を経たあとの《神ながらの道》:国家神道
☆ 《現人神》なるお二階さんが介在するようになったときに――つまり 社会が 国家というニ階建て構造になった情況では―― 《言挙げせぬ》という国がらが 変質してしまった。
お二階からの鶴の一声が 世の中を覆っているので いちいち個人が自分の意見を言うのを控えるようになった。と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (1)と(2)と両方の場合があると思うのですが。
度々のご回答ありがとうございます。
失礼しました。
事挙げは変化したのですね。
前 <《事は 互いに共有されており わざわざいち
いち 言挙げをする必要はなかった》。>
後 <いちいち個人が自分の意見を言うのを控えるようになった。>
No.13
- 回答日時:
★ (№12お礼欄) ~~~~~~~~~~
私は、事挙げとは、神などの偉い❔(威を持っている?)者について、直接言及できないことで、タブー視されている、のだと思います。
したがって、今でいう上役や挙句の果て愛している人にまで、直接本名ではいえず、役名や仮名を使うのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 次のように解釈します。
(1) 始原の原始心性としての《かむ(神)ながらの道》
タ 神 神 神
テ・・・| | |・・・:信仰
の | | |
関 | | |
係 | | |
われーーーーーわれーーーーーわれーー:【各主観の未分化一体】
❙ ❙
❙ ❙
ヨコの関係 ヨコの関係 :社会関係における宗教
☆ 《われ》どうしの人間関係が――そこに自然環界をふくめて――未分化一体であったとき 《事は 互いに共有されており わざわざいちいち 言挙げをする必要はなかった》。
われは 神と一体であったゆえ 《神ながらの――神即自然(&人)なる――道》であった。
(2) われの自覚を経たあとの《神ながらの道》
タ 神 神 神
テ・・・| | |・・・:信仰
の |______|______|___
・・・・・現人神・・・(大和の国はおしなべて我こそ居れ)
__________________
関 | | |
係 | | |
われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
❙ ❙
❙ ❙
ヨコの関係 ヨコの関係 :社会関係における宗教
☆ 《現人神》なるお二階さんが介在するようになったときに――つまり 社会が 国家というニ階建て構造になった情況では―― 《言挙げせぬ》という国がらが 変質してしまった。
お二階からの鶴の一声が 世の中を覆っているので いちいち個人が自分の意見を言うのを控えるようになった。と。
度々のご回答ありがとうございます。
言挙げせぬについて、bragellone様の御見解は、
<《事は 互いに共有されており わざわざいちいち 言挙げをする必要はなかった》。>ですね。
私は、タブーと思っています。
No.12
- 回答日時:
№10へのコメントをありがとうございます。
《一即一切》についてのご見解。専門的な事項に入っておられ その批評する任にあらずと まづ思いました。
アイヌのエピソードについては 原始心性としてなら その無縁の関係性としての――《神即自然》としてもの――《一即一切》の感覚は かなり大昔にまでさかのぼれるのではないか とは思っています。
今回は 別の角度からご見解をめぐって 古代人の心性についてちょっと考えてみます。
テーマは 《言挙げ》です。
▲ (ヰキぺ:言挙げ)
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、
それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる
☆ さて 次の万葉歌を取り上げます。
▲ (人麻呂〔歌集〕:万葉集 十三巻 3253 番)~~~~
https://manyoshu-japan.com/10325/
葦原の 瑞穂の国は 葦原の瑞穂の国は
神ながら 言挙げせぬ国 神の国柄として言葉に出して
言いつのらない
しかれども 言挙げぞ我がする のですが、私は申し上げます。
言幸く ま幸くませと 言葉に出してご無事でと。
ご無事でいらっしゃいませと。
障みなく 幸くいまさば 何事もなくご無事でいらっしゃって、
荒礒波 ありても見むと 変わらぬ今の姿のままお逢いしとう
ございます。
百重波 千重波しきに 荒磯に寄せる百重波千重波のように
幾度も
言挙げす我れは ご無事であれと言葉に出して申し上
げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ しかるにですね:
▲ 《神ながら 言挙げせぬ国 》
☆ これですでに 一般的に以心伝心を言っているようであり その意味で《神即自然》に・そして《一即一切》につながるかに思えます。
どうなんでしょう。
おそらく このとき《ことだま(事霊 または 言霊)》といった概念も主題になるのではないかと思っています。
なお 万葉集の時代には すでにブディズムの影響は受けていました。
以上 問題提起のようにですが。
度々のご回答ありがとございます。
私は、事挙げとは、神などの偉い❔(威を持っている?)者について、直接言及できないことで、タブー視されている、のだと思います。したがって、今でいう上役や挙句の果て愛している人にまで、直接本名ではいえず、役名や仮名を使うのだと思います。
No.11
- 回答日時:
★ (№8お礼欄)
ブーチンもシーチンピンも独り善がりだと思います。ただし、その国にとっては正当だ、と思っています。そのニのただし、独り善がりでない正当は、(科学などの分野において検証できるもの以外には)(ほとんど)見つけるはできない、と思っています。
☆ おっしゃる意味がやっと分かりました。すみません。
つまり 自分の側は自分で正当視しているけれども 相手の側にしても その主観の中で――独り善がりだと大体分かっていても――正当化しているはずである。
その点をないがしろにしてはならない と。
こういう場合 わたしの考えの中では 《あくまで 互いに自由な対話が大前提であり 一方的な決めつけはよくない》というかたちになって現われます。
つまり 相手が独り善がりだと分かっていても それは 自由な対話において――相手の言い分を最後まで全部聞いて――互いに結論を出さなければならない・・・というかたちのことを言います。
おそらく ぱーくさんも 趣旨として同じようなことを思っておられると思い この件では 一件落着ではないかと思いますが。・・・
No.10
- 回答日時:
以前 質問者さんのご質問に書き込んだことのあるエピソードのようなものを 再掲します。
【Q:<すべてのヤマヒは ウソ・イツハリから>に関し、数万年か数千年以前は、ヤマヒが無かった、というエビデ】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12912545.html
☆ すなわち:
☆☆ (その回答№5です) ~~~~~~
その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。
一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。
果たしてその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に
わたしの体を重ねてみる。
そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山
のどこにあたるかを考えてみれば そこに男は遭難して
いるはずだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち このような言わば原始心性についての捉え方をめぐって わたしの回答内容を訂正したいと思います。
ちなみに 《一即一切 一切即一》といった華厳の思想にかんするもので これを日本人は血肉化しているかどうかです。
☆☆ (本質問の回答№3) ~~~~~~~~~~
つまり:
▲ (ヰキぺ:華厳経)
「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
☆ というように 世界観があらわされたとき
・・・
個人たるわが身心から成る存在の〔将来の〕神性たる《一》が 世界にひろがって《即 一切》であるといった生命観 これを 神道が持っていたか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問いを発して おそらく《持っていなかった》と言おうとしたのですが 必ずしもそうではない・・・と思いました。
初めに掲げたアイヌの話にかんがみてのことです。
日本人もそのような――原始心性における《一即一切》の感覚体験のような――漠然とした思想を持っていたかも知れない・・・と思ったからです。
どうなんでしょう。
テレパシーとかテレポーテーションのような昔話や伝承は たくさんあるように思いますが。
度々のご回答ありがとうございます。
今、一即一切を考えておりますが、以下は、根拠のあることではありませんので、一笑に付してください。
縄文時代には、物や事に不思議や驚きがあった、と思います。
弥生時代にはいると、物や事の背後には神がいる、ということを引っ張り出してきた、と思います。
そして、仏教が入ってきて、しばらくたち、一即一切を思い始めたと思います。この思想は、ヒトが目の前にある世界から抜け出し、抽象的な思索を始めることができるようになってから、だと思います。
アイヌ文化は12・13世紀に北海道に入ってきたのですから、アイヌ人もその時点ですでに一即一切を持っていた、と思います。
No.9
- 回答日時:
>両者の間に大きな隔たりがあるから、日本人は(血肉に)華厳教を受容していない(できない)のですか?
受容できないかどうかはともかく、日本人のオリジナルの精神文化からは華厳の哲学は遠い場所にあるということです。
しかし私も含めて、華厳の哲学を理解する日本人は現代には(昔に比べて)多くいるとは思います。それは何故かと言うと、現代は、昔に比べて文明化が進んでいるから、高度に概念的な哲学を理解することも、比較的簡単だからだと思われます。文明と言うのは世界各地(この場合はアジア)にあって、その様相はローカルではなくグローバルであり、地域性(特殊性)ではなく国際性(普遍性)を持っています。もし華厳の哲学が日本人の俗哲学の血肉にまでなっているとするなら、日本人は深いレベルで変質したと言う事になると思います。しかしそういう事実は私には認められません。日本人は日本人らしさを長きにわたり変わらず持てていると思うからです。
実際どうでしょう、ご自身の持たれる印象として、華厳経に記されている空とか、極小の中の極大とか言った考えや概念が、現代日本における”俗のレベル”にまで浸透していると思われますか?私には思えません。空を理解する人も、華厳経を読んで理解する人も、かなり限られると思います。
一方で、小さきものの小さな世界と言う”感性”は、”かわいい”に代表される、俗に広まる感性に行き渡っていると思います。
ところが、空を言い表す俗語は思いつきません。「うわ、これマジで空だわー」みたいな会話を私は聞いたことも無いし、自身話したこともない。華厳と言う固有名詞そのものにしても、仏教関連以外では話の筋に上がってこない。華厳経を理解している人間においてさえ思考の血肉にされていないのに、理解していない人々の間で、その概念が深いレベルで根付いているわけがない。
現代においても日本人は変わらず日本人であり、その俗哲学も大陸文明のそれとは異なると言うのが私の結論です。
再三のご回答ありがとうございます。
<現代においても日本人は変わらず日本人であり、その俗哲学も大陸文明のそれとは異なると言うのが私の結論です。>ですね。
私も空などという高度な考えは持っておりません。<かわいい”に代表され>る感性は持っていますが。
民族(社会)として古来から引きついだ(ひきずった)感性を、私は消せないし(あえて消したくもない)です。
No.8
- 回答日時:
★ (№6お礼欄)
高天原系側では、神などの意向に従っているのであるから、正当である、ということです。
☆ 無理強いでもしているかに思えて心苦しいのですが。
その《正当性》は 独り善がりだと思います。
強いてその痕跡を言うとすれば イヅモはスサノヲがたどり着いて そこで村の敵たるヤマタノヲロチを退治した・その結果 ムラヲサに就いた。その今 治めているのも スサノヲの子孫であるオホクニヌシである。
そして スサノヲは 元は タカマノハラを主宰するアマテラスの弟である。その縁で イヅモの統治権を主張しても いいではないか。――といった筋が かすかに見られます。
それでも イヅモ側から見ればもちろんのこと 第三者から公平に見ても ただのごり押しであることは 明らかだと思います。
タカマノハラは スサノヲを国外追放したのです。
プーチンは 国家の元首として――ロシア正教会からの《聖戦》性の認定をもとめつつ―― 《侵攻は 正当である》と言おうとしています。
尖閣諸島は 太古の昔から中華帝国固有の領土であるというふうなことをシーチンピンは言っています。
度々の御回答ありがとうございます。
私も<その《正当性》は 独り善がりだ>と思います。
ブーチンもシーチンピンも独り善がりだと思います。ただし、その国にとっては正当だ、と思っています。そのニのただし、独り善がりでない正当は、(科学などの分野において検証できるもの以外には)(ほとんど)見つけるはできない、と思っています。
No.7
- 回答日時:
司馬さんの言う俗哲学というものが何なのか、その要素として華厳の哲学が深いレベルで含まれているという説ですが、私の考えでは、日本人の俗哲学(そういう言い方をするなら)とは、例えば、次のような文言に含まれるものだと思います。
一寸の虫にも五分の魂
という言い回しです。
2.と近いニュアンスがあるのが分かると思います。
一方、華厳の哲学は、一滴の雨粒に海を見ると言ったようなことで、極限の地点における観の大転換がその骨子だと思います。日本の俗哲学には、その様なことはあまり見られない、つまり華厳の哲学と日本の俗哲学?は、関係が薄いと私には思われます。日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。
再度の御回答ありがとうございます。
<日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。>ですね。
したがって、両者の間に大きな隔たりがあるから、<俗哲学として日本人の血肉のなかに入っています>は正しくない、ということですね。
No.6
- 回答日時:
★ (№4お礼欄) ~~~~~~~~
A <帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交>でしょうね。
B 記紀側からみたら、イズモは(正当に)獲得したのでしょうし、イズモ側が譲った、ということにもなる(した)のでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このAとBとは 相容れないのではないでしょうか?
《すでにほかの人びとが住んでいるヨソの土地を ゆづれ》と言って――武力を背景にして――奪うことは 《正当に獲得する》ことでしょうか?
度々のご回答ありがとうございます。
正当という意味は、説明不足でしたので、正当という意味を書きます。
<高天原に住む天照大御神は、
「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ
あかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」
と命(みこと)に天降りを命じた>
<高天原に住む高皇産霊尊(高御産巣日神)は、自分の孫をよく可愛がり崇めていたので、天津彦彦火瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと考えた。>
高天原系側では、神などの意向に従っているのであるから、正当である、ということです。
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