日本の戦国から徳川にかけてを根ほり葉ほり調べているヨーロッパ人の友人から、「つまるところ、秀吉はねねと淀殿どっちを愛してたんでしょうね?」と聞かれました。私には手に負えない無理難題です。どなたかよろしくお願いします!

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A 回答 (4件)

日本に住む日本語をしゃべる外国人の方って、日本人以上に日本史に興味ある方がたまに居るんですよね。

私の友人にも同じような方がいます^^

さて、表題の件。。。。
実際は知ることも出来ないですが、秀吉好きとしては、ネネさんを好きであって欲しい・・・というところじゃないでしょうか?
言っちゃ悪いですが、淀君ではイメージが悪い^^;

でも、政治的に考えると違った歴史が見えてくるのでは?
豊臣秀吉一代記となる太閤記は1625年に小瀬甫庵により書かかれた書物。(正確にはどこまで記述されていたか知りません^^;)
つまり、徳川の時代になってからの書き物です。

豊臣秀頼を滅ぼしたのは徳川家。
淀君=秀頼の母。従って、徳川氏は淀君の印象悪くする必要があった。
秀頼がナヨナヨしたイメージがあり、淀君の陰鬱たるイメージもこのあたりが要因?
一方、北の政所。結果的に関が原で徳川家に一大勢力を作る要因となる。
家康自身、北の政所を粗略に扱えなかったし、政治的にも家康は高台寺(ネネさんの隠居先)に多くの寄進をしている。
従って、北の政所を悪者扱いは出来なかった。
こういう雰囲気が作られていたとしてもオカシクは無いと思うのです。

徳川は結果的に北の政所を支援して関が原へ、という事も言えるわけですから。。。

歴史は勝者が作る・・・から言えば、
あながち、言いすぎでは無いようにも思うのですが。。。

でも、日本史上最大の「陽」キャラの秀吉。
単純に「ネネさんとアツアツだった・・・」であって欲しいですよね。
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この回答へのお礼

本当にそう思います。私も、ドラマや小説の影響でしょうか、ねねさんに肩入れしたくなるんですね。ただ、歴史はそれぞれの人間がそれぞれのリアリティに基づいて作るものである、ということは確かです。「徳川の意向が歴史の記述に反映している」なんて言ったら、友人は大喜びするかもしれません。そういうフシがありますから。本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 00:52

この質問は直接本人に聞くしかありません。


そう答えるのが正解です。

強いて答えるなら当時の社会事情などを説明するしかありません。
当時、特に秀吉は後継者の誕生を切望していました。
正妻「ねね」にはそれを望めない事は確実でしたから、当時の有力者の常として側室により後継者を得るしか選択肢はありません。
淀君は後継者を生んだ功労者でありしかも名門出身で美人であれば「ねね」とは異なる愛情を感じたでしょう。
両者への愛情はその性質が異なるものであった、どちらがどうという比較出来るものでは無かったと考えるのですが・・・
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この回答へのお礼

すごい!やっぱりそうですか!私もそう思ったんですけど、その場でそう切り返す度胸がありませんでした。でも、もう少し本を読んでみます。ズバリの回答ではなくても、友人の知識にプラスアルファできるものがあればいい、ということかな、と思います。

お礼日時:2005/04/12 00:48

一つは現在でもよくあるパターン。


下積みの時に支えてもらった世話女房を
出世してからその地位で得られる綺麗な女性に
取り替えて満足する。
二つは年令と権力の取得により、
母性・依存の要がなくなり、
対象が異性・支配に変わるケース。
秀吉の場合はこの二つに、信長の娘を
収めるという意義が重なっていると思います。
どちらを愛しているのか…の質問は
いささか短絡で答えは出ないのでは…。
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この回答へのお礼

私は心理学の素養がまったくないのですが、なんだかそれっぽいお話です!母性依存と異性支配か…でも、こんな風に説明して、あとは示唆にとどめておく、というのも、件の友人の趣味に合うかもしれません。ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/12 00:46

二人の内どっちを愛していたか?なんて本人以外には実際には答えは解りません。


私見として述べさせていただきます。

秀吉は若い頃は相当な頑張りやさんだったようです。
その秀吉の女房として彼を支えた「ねね」さんは非常に聡明な女性であり、主君である信長でさえも彼女のことを非常に気に入っていて、二人が夫婦喧嘩した際には「ねね」の味方になり秀吉を戒めるような手紙まで「ねね」に送ったりしています。
こうした状況から秀吉にとって「ねね」とは女房であり、同志、盟友といった類の存在だったと思われます。

これに比べて天下人になってからの秀吉は単なるエロ爺といった感じで若い「淀殿」にご執心だったようです。
秀吉は昔から信長の妹である「お市の方」に憧れていたようで、その延長上に彼女の娘の「淀殿」があったようなので「淀殿」に関して一女性としてどれほど愛していたのか、疑問があります。

秀吉は「淀殿」に対しては格好付けた姿しか見せていないと思われ、「ねね」に対しては本当の自分をさらけ出していたのだと思います。
すなわち、生涯を通じて「ねね」を愛していたのだと思います。
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この回答へのお礼

早速ありがとうございました。「生涯を通じて」というところがポイントになるのでしょうね。淀殿とねねについての史実をもう少し詳しく話す、というところで勘弁してもらうのが妥当な線でしょうか。

お礼日時:2005/04/12 00:43

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Q側室は名誉なことなのでしょうか?

昔の人(徳川家康など)は側室というのがあったのですよね?
側室とは今で言う愛人に近い存在ですか?
昔の人なら側室でも結構名誉なことなのでしょうか?
それとも現代みたいに「不倫の女め!」とご近所から言われたり
「みっともない」と思われたりするのでしょうか?

親などは
(本来ならば正室がいいが)
側室になれた娘を誇りに思ったりするのでしょうか?
ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

そもそも、結婚制度が現代とは違うので、「現代みたいに…」という発想自体が当てはまりません。
側室というのは、徳川家のみならず、その家を守るために皇室や公家、有力な武家にも脈々と受け継がれた日本の伝統的結婚制度とも言えます。古くは4~5世紀頃の天皇家に、すでに側室と思われる女性の名前があります。逆に側室を持たなくなったのは大正天皇以降ですから、千年を超す天皇家の歴史で、一夫一婦制の方が圧倒的に短く、新しい制度だということになります。

嫁ぐ娘を誇りに思ったかどうかは、「側室だから不名誉だ」とか「正室だから名誉だ」ということではなく、婚家と実家の格の差の問題だったと思います。

日本では天皇家以上の家格はありませんから、天皇家に嫁ぐということは、どんな家でも名誉だったはずです。
徳川将軍家であれば、側室の多くは庶民や身分の低い武家の出が多かったので、やはり側室でも名誉なことだったはずです。それをきっかけに実家が取り立てられることもあったので、うらやましがられることはあっても、「不倫」だとか「みっともない」などと思われたりはしなかったはずです。

反対に、徳川将軍家の正室には、京都の公家から迎えられたことが多く、武家を見下していた公家の姫にしてみれば、東下りは不名誉というよりは屈辱と感じられたかもしれません。周囲もきっと、陰で「御気の毒に」などと思っていたのではないかと思います。

そもそも、結婚制度が現代とは違うので、「現代みたいに…」という発想自体が当てはまりません。
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Q戦国一の美女って

こんばんは 戦国一の美女といわれた姫は誰なのでしょうか?
俗に織田信長の妹のお市の方と言われていますが…

帰蝶(斉藤道三の娘で信長の正室)
お犬(織田信秀の娘で信長 市の妹)
朝日(木下弥右衛門の娘で秀吉の妹)
愛(田村氏の娘で伊達政宗の正室)
五龍(毛利元就の娘で熊谷信直の正室)

などなど他にも美人はいたはずです☆
本当に1番の美人は誰なのでしょうか?

Aベストアンサー

細川忠興の常軌を逸したヤンデレ伝説を聞くと、やっぱガラシャちゃんは男を狂わせる魔性の女の魅力が並大抵ではなかったと思われます。
織田家の女と明智家の女は「美人」といわれている人が多いですね。ただ、当時の人の「美人」の基準がどこにあったのかが分からないので、現代人の我々が見ても美人なのかどうなのかは分かりません。

あとは武家の女でもなんでもないただの踊り子さん(いろんな意味で)なのに歴史に名前を残している出雲阿国も、並大抵ではなかったと思います。

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q秀吉の妻の名前

豊臣秀吉の妻は寧々で「ねね」と読んでいたような気がするのですが、最近のドラマや歴史番組などをみていると「おね」になっているのはなぜでしょうか?なにか「実はこう読んでいた」という新しい史料とかがみつかったのでしょうか。ご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

どれもいままでの資料のなかでわかっていた呼び方だと思われます。
北政所は秀吉の出世に伴って、賜った名前です。役職の名前から
きているのですよね。

http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/mandokoro.html

ご存知のとおり、秀吉は
初め木下藤吉郎と名乗っておりました。
彼の名前は出世するごとに変わっていきます。
昔から、由緒ただしき公家の名前や名君の名前を
踏襲することは名誉なことでした。

それに伴って、彼の妻であるねね(おね・おねね)の名前も
変わっていきます。

おねやおねねという呼び方はねねにおをつけて、呼びやすくした
とおもわれます。

淀君(側室)も幼名を茶々といい、お茶茶さまともよばれていましたしね。

その後、秀吉公,近衛前久卿の養子となり藤原秀吉として
           従1位 関白に任ぜられる。
          ねねは従3位を賜わり北政所と称せられる。
          
 天正13年9 月9 日 秀吉公,太政大臣に任ぜられ,豊臣姓を賜わる。
 天正16年4 月14日 ねね,従1位・豊臣吉子の名を賜わる。

というようなものです。

参考URL:http://members.tripod.com/~Mkuroda/nene.html

どれもいままでの資料のなかでわかっていた呼び方だと思われます。
北政所は秀吉の出世に伴って、賜った名前です。役職の名前から
きているのですよね。

http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/mandokoro.html

ご存知のとおり、秀吉は
初め木下藤吉郎と名乗っておりました。
彼の名前は出世するごとに変わっていきます。
昔から、由緒ただしき公家の名前や名君の名前を
踏襲することは名誉なことでした。

それに伴って、彼の妻であるねね(おね・おねね)の名前も
変わっていきます。

おねやお...続きを読む

Q淀殿はなぜ西軍に味方しなかったのか

関ヶ原の合戦で東軍が勝利したおかげで、その15年後には大阪の陣で豊臣家は滅ぼされました。関ヶ原の合戦時に淀殿が西軍に豊臣家の正規軍であることを認め、家康を逆賊としていたなら、関ヶ原の合戦で西軍は負けなかったのではないかと思います。加藤清正、福島正則らも東軍に加担できなかったのではないかと思うのですが、なぜ淀殿は西軍に加担しなかったのでしょうか。
1.家康が片桐勝元らを使って、うまく淀殿の動きを封じた。
2.西軍が負けたらどうなるか。淀殿には先が読めなかった。
3.北の政所が反対した。
真実はどうなのでしょうか。僕はこの点で淀殿はまんまと家康にだまされたと思うのですがどうでしょうか。

Aベストアンサー

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)があるにしても会津征伐軍の留守の城を
攻めた石田三成らに非があり主人がこれに加担するのは対面上難しいと思います。
自ら惣無事令にて家臣同士の私闘を禁じておいて違反した者に加担は出来ません。
豊臣家が家康を排除したいのであれば正々堂々蟄居なり改易を沙汰致し、従わない場合征伐
する必要があると思います。

次に実際の理由ですが
加担した所ではっきり勝てる賞賛がなかった為加担せず、静観に留め、自分に掛かるであろう被害
を回避し、あわよくば西軍の勝利を望んでいたと思います。
秀吉の死後、次の天下人は家康との思いが各大名にあり、年賀の挨拶は秀頼より家康を先にした大名も
少なくなかった様で、豊臣家は家康を先にした大名と秀頼を先にした大名を観察、記録し家康謀反の際に
どの大名が家康に付くか分析していたと思います。
また、家康が秀吉の命に背き、無断で大名との婚姻を実施しましたが詰問の使者はあしらわれていますが
その際に憤慨する武将、憤慨しない武将を把握して緻密に家康を排除しようとした際の両勢力に
付いて分析してはっきりとした勝てる賞賛がなかったと思います。
結果論ですが関が原以前に、蟄居なり改易の沙汰をしていない事から豊臣家が家康の強大な力を
認識していたと想像出来ます。

関が原で西軍に加担しなかった理由は加担したくても加担出来なかったと思います。

まず名目上は
関が原の戦いの前の会津征伐を家康が強引に実行していますが、最終的には豊臣家が
許可をして会津征伐軍に金2万両と兵糧2万石を与えています。
この軍費の支給により会津征伐は家臣同士の戦や家康の暴走ではなく豊臣家に対する謀反人
を征伐する戦となり征伐軍は官軍となりました。
豊臣家が家康の専横を良く思っていなかった事は東軍諸将もわかっていますが
どんな理由(家康の専横に対する弾劾状)がある...続きを読む

Qお城の生活(戦国時代等)

『江』を見ていて疑問に思った事があります。
お城の中で暮らす人々の部屋には鍵がかかってない
と思うのですが、いろんな人(使用人等)が住む中
盗難等なかったのでしょうか?

お城≒マンション のような物と理解してよいのでしょうか?

お初が後に結婚する人を城内でチラッと見かけた前回の描写から
自分の部屋を出る時は いわゆる部屋着では出れなかったのでしょうか?(誰に会うかわからないから)

Aベストアンサー

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてありました。

 誰が泊まるか分からない旅館でさえそうですから、いわんや城内においておや。

 お城は、マンションではありません。質問者さんの家(個人の邸宅)のようなものです。そこへ使用人が小部屋をもらって住み込みで仕事をしているようなものです。

 自分の部屋から部屋着では出られなかったか、という記述はみたことがありませんが、たぶんそうでしょうね。

 篤姫でも、誰かが起こしに行くまで起きないでください、と言われたり、とこに寝たまま髪を梳かれたりしているシーンがありました。あんなものだと思います。

 ただ、城は、殿様の個人住宅兼仕事場ですが、女性たちが住む「奥」はいつでも誰でも行ける場所ではない(徳川時代の江戸城の大奥ほど整った制度ではないようですが)ので、顔見知りのお手伝いさんに対してでもよほど慌てたと思われたくないとか、「女のたしなみ」でそうやっているだけで、誰か知らない人に出逢うから、ということではないように思います(確証はありませんが)。

 明治時代、ハインリッヒシュリーマン、イザベラ・バードなど日本にやってきた人たちがいろいろな旅行記を書いていますが、旅館の、襖で仕切られただけの部屋でも、全然お金が盗まれないので驚いています。

 どの本だったか忘れましたが、数日間出かけて戻るために旅館の主にお金を預けようとしたら、「お預かりします」と言ってテーブルの上に置くだけだったので、盗まれないのかと聞いたら、「盗まれません」と返事をした。もどってきたら、置いた時とまったく同じようにお金が置かれていた、とか書いてあり...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Qゆうちょ銀行の口座が二つ欲しい

ゆうちょ銀行の口座がもう一つ欲しいです。
理由は口座を親が管理していて、自由に使えず、バイトの給与振込ができないからです。

過去の質問を参考に「口座管理を別にしたい」とか「親に知られたくない」と言って郵便局に行ったのですが、「原則一つしか持てない」「本人しか口座は使えない」と言われ断られました。

何とかバイトを始めたいので、郵便局でOKが出る「特別な事情」を教えてください。
お願いいたします。



ちなみに親の説得は不可です。一度決めたら誰が何を言おうと、どんな説得をしようと聞きませんので。

Aベストアンサー

 すでに他の方が回答されているように、郵便貯金は、以前は一人1口座のルールだったのですが、民営化された今はその制限は撤廃されました。ただ、口座開設はあくまで契約の締結なので、相手方であるゆうちょ銀行がいやだといったら、それまでです(かりに口座を一つも持っていない純新規であっても、口座開設を断られることもあり得ます。それに対して文句は言えません)。
 幸いなことに、郵便局はあちこちにありますので、ダメだと言われたら、別の郵便局でトライすればいいでしょう。
 なお、いまは郵便貯金も名寄せが済んでいますので、すでに口座が開設されているかは、どこの郵便局でも簡単に調べられてしまいます。
 ちなみに、二つ目の口座が要る理由としてよく言われるのは、貯蓄用と日頃の生活用を分けたいといった事情でしょうか。これで通してくれるかどうかは、窓口の係員次第ですけど。
 知らんぷりして、何度でもトライするしかないと思います。頑張ってください。

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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